無知のヴェール

BFC4参加作品である、「鉱夫とカナリア」について書きます。
ネタバレしますので、先に作品を読んでから目を通していただけると幸いです。

読みました? 原稿用紙6枚ですからすぐですよ。読んでくださいね。


さてと、読みましたね。では始めます。

なぜ「私」の隣には誰も座らず、先生が座ったのだろう。
ぼくは「私」がまだうまく英語を話せないからだろうと解釈しました。それにはいくつか理由がある。パネルを見ている「私」に秀才のマーシャが内容を説明してくれる。〈彼女はまだ私が英文をうまく読めないと思い込んでいる〉。なぜそう思い込んでいるのかと考えると、「私」が話せないからだろうという推測が導き出されてくる。一人称のため気づきにくくなっているが、作中で「私」が口に出して何かを言っている場面はひとつもない。台詞を口にするのは、いつも「私」とは違う誰かだ。
〈クラスメイトの一部〉〈ロバート〉〈誰か〉〈マッテオ〉〈マーシャ〉〈誰か〉〈マーシャ〉〈ロバート〉。
「私」ではない別の誰かが話している。では、なぜ「私」は話さないのだろう。話すべき内容がないわけではない。マッテオがうろたえると耳が赤くなることを「私」は知っている。アブドゥが長靴を履いてきた理由を知り尊敬している。マーシャの勘違いについてだって、「私」は気づいているのだ。しかし「私」はクラスメイトに何も伝えようとはしない。どうしてだろう。
冒頭近くに、こう書いてある。〈クラスメイトの一部は先生に見えないところでその話し方を真似て笑い合っていた〉。おそらく、「私」は自分の話す英語を笑われたことがあるのだろうと思う。
この小説は、このようにして「私」についての情報を説明ではなく教えてくれる。再読することで気づきをうながすような構成になっている。
主人公はさまざまなことを感じ取って考えているにも関わらず、誰にもそれを伝えられない立場にいる。
そういうところから、この小説はスタートする。
「私」は誰にも伝えないけれど、さまざまなことを感じ取る。
多数の人間と初めて会う人との対比、貧富の差があることを示す描写、動物愛護の精神はあるのに鉱夫もまた危険にさらされ、同じように使い捨てにされていたことには気づかない鈍感さ、同じようにウェールズ訛りを笑う鈍感さ。
そうしたすべてが「私」の目を通して写実的に語られる。
六枚で多数の人間を描くためには類型的にならざるを得ないんだけど、暗闇の中で手を繋ぐシーンでは類型を飛び越える身体性を、登場人物の息づかいを感じさせる。それが誰なのかわからないのもいい。
ここはロールズの『正義論』における「無知のヴェール」が頭に浮かびます。暗闇が無知のヴェールとなり自分の生まれ持った条件も相手の生まれ持った条件も見えなくなり、互いに互いを思いやる行動がとれるようになる。いつまでも英語が読めないと思わたり、訛りのせいで無知だと見下されるマイクロアグレッションはそこには存在しなくなる。
「無知のヴェール」へと導く鍵はいくつか散りばめられている。
それぞれの貧富の差を表す電子機器がなくなったとき、〈私たちは名前をもたないただの見学者になった〉。
ラルフローレンの刺繍と、デニムについた大きな汚れは普段であれば大きな違いだが、〈私たちはもう誰もその事実を指摘しあわなくなっていた〉。
そして、ライトを消すことで、顔すら見えなくなってしまう。
ロールズの『正義論』における「無知のヴェール」はそれが現実に存在しないことを批判されたようですが、この小説には現実にも「無知のヴェール」が存在するのではないか、と思わせる力があります。それは人間同士を繋げるだけでなく、実はカナリヤと人間の関係にも同じように働くのだ、ということが、地上に出てからの鉱夫の眼差しや行動によって示される。
しかし、地上に暗闇はなく、従って「無知のヴェール」は存在せず、光あふれる地上世界において、「私」はいつものように先生と並んで座るしかない。
タイトルである「鉱夫とカナリア」は容易に「坑道のカナリア」を連想させる。「坑道のカナリア」は社会的な弱者の比喩表現として用いられることもある。「私」の説明としてはぴったりだ。
では、作品のタイトルはどうして「坑道のカナリア」ではなく「鉱夫とカナリア」なのか。
鉄線に棒状の金具を押し当て、ベルを鳴らすシーンがある。
三度鳴らされた音をどう解釈するかと問われ、マッテオは「危険?」と答える。SОSを連想したのだろうと思う。ぼくもそう考えた。
ロバートの答えは「トロッコが通る合図だ」だった。
現代では人命救助に使われるだろうベルが、過去においてはそうではなかった。人間ではなくトロッコのために使われていた。トロッコが通過するから人間は避けろという合図だったわけで、現代と過去の違いがベルの解釈によって鮮やかに示される、作中でも屈指の名シーンだ。
作中での動物の扱いは過酷だ。ポニーは二度と地上に戻されず、カナリアはガス検知器として使われる。動物たちの命は、単なる労働力と見なされているかのようだ。
では人間はどうだったか。
ベルのシーンに見られるように、人間もまた動物と同じように、労働力としか見られていなかった。
鉱山の暗闇の中、そこで働く人間とカナリアは同等だった。タイトルはそういう意味なのかなと感じました。

社会の複雑さを描きつつ、差別に抗するためのヒントもあり、現実のどうしようもない動かなさも合わせて描いている傑作で、なんで六枚でこんなことができるのかさっぱりわからない。プロの作家が参加していると聞いて、真っ先に思い浮かべたのはこの作品でした。書いてくださりありがとうございます。勉強になりました。


ロールズの正義論については、こちらを参考にしました。


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