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とも動物病院の日常と加納円の非日常

古山氏の怒り 1

 「うちの犬になんてことしてくれたんだ!」

もう病院を閉めようかという刻限だった。

凍てつくと言う表現が相応しい、とても冷える宵のことだった。

 「あの、どちら様でしょうか」

 最近へまをしでかした覚えはない。

その紳士はどうやらかなり酔っぱらっているらしかった。

彼の剣幕に、沈着冷静が売りの僕も少しくうろたえた。

異変に気付いたスキッパーが、耳と尾を立ててスッと僕の左脇に立った。

「どちら様だと。

惚けるんじゃないよ。

チャーリーだよ。

俺はね。

チャーリーの足のことを言いたいんだよ」

サラリーマンなのだろう。

その紳士はちょっとくたびれたスーツを着てネクタイをゆるめている。

スーツのボタンは全部止まったままだ。

寒い夕なのに、紳士はなぜかコートを着ていない。

右手には古びた革の鞄を提げている。

 「あっ、古山さんですか。

チャーリーは退院したはずですが」

その紳士は、どうやら断脚の手術をして昨日退院した、柴犬の飼い主さんのようだった。

ようだったというのは、病院にチャーリーをお連れになったのも。

術後お見舞いにいらっしゃったのも。

そして退院のお迎えにみえたのも。

ひとりのご婦人だったからだ。

その紳士改め古山氏には一度もお目に掛ったことが無い。

 「チャーリのやつ、足が無くなっちゃったじゃないか。

どうしてフィラリアの手術で足が無くなるんだ。

おかしいだろう。

フィラリアって心臓の病気だろ?

こっちが素人だと思って馬鹿にするんじゃないよ」

話がどこかで食い違っているようだった。

スキッパーが何だこいつと言う表情になり、お座りして鼻を鳴らした。

「足を切らなければならなかった原因は、確かにフィラリアだったのですが。

チャーリーが苦しんでいた症状の理由と手術の内容については、奥様でしょうか?

うちの院長の方から、術前と術後に詳しくご説明申し上げて、承諾書も頂戴しております」

「何がご説明だ。

青二才が。

フィラリアが心臓に巣くう虫だってことくらい、俺だって知ってるよ。

お前じゃ話にならんな。

院長を呼べ、院長を」

指の先や耳たぶにちりちりとした痛みを感じた。

僕には自分の顔が青ざめていくのがまるで鏡を見ているように分かった。

左のすねにスキッパーが身体を押し付けてくる。

まあ落着けと言うサインだった。

スキッパーのおかげでギリギリ自制心が効いた。

僕は口から出かかった言葉を無理矢理飲みこみこんだ。

僕は最初の内、古山氏を紳士として遇した自分を恥じた。

取り敢えずこの無礼なおっさんの相手は、スキッパーに任せることにする。

僕はきびすを返すと手術室に入りことさら乱暴にドアを閉めた。

 ともさんは手術台の上に出納帳を広げ、電卓をねちねちと虐めていた。

僕がお願いした雑事だった。

「パイよ、どうした。

目が怖いし、顔が白っぽいよ」

ともさんは不自然なほど明るい笑顔で小首を傾げ、無邪気を装った。

額に汗が光っている。

ひどい赤字であることは分かっていた。

なんせ経理担当の僕が付けた帳簿だ。

『税理士さんに見せる前にチェックをお願いしますよ?』

嫌がるともさんに無理矢理押し付けた作業である。

ジュンの診察みたいな対応ばかりでは、早晩とも動物病院は破綻する。

病院の財政状況についての正しい認識を持ってもらおうと思い実行した荒療治だった。

ともさんの動揺を目の当たりにして、ふと、肩の力が抜けた。

 「中年の酔漢がひとり来てます。

会社で評価されない。

だから出世もしないし給料もあがらない。

陰険で底意地が悪いので家族にも相手をしてもらえない。

中身も外身もお粗末なのが丸見えで女にもてたためしがない。

無い無い尽くしで満たされぬ承認欲求をば。

溜めに溜めた揚げ句の果ての果て。

思い付いた了見違いな言い掛かり。

誤診という錦のみ旗を手にしたおつもりで。

どうだとばかりの鼻息荒く。

積もりに積もった鬱憤を。

只今この時。

晴らしにお見えになりました」

僕は特に声をひそめもせずロボットのような一本調子で口上を述べた。

「何だそれ。

パイよ、怒ってるね。

ところで、その酷い言われような酔っぱらいって誰だ」

「古山を名乗るおっさんです。

ほら、チャーリーをお連れになったご婦人の。

あのお優しそうなご婦人のお連れ合いでしょ。

賢そうな方でしたけど男を見る目はありませんね」

「酔っぱらってるの?」

「酒は小心者の鎧甲ですからね」

「誤診って?」

「状況を先入観から早飲み込みして。

ここぞとばかり無抵抗が予想される相手をたたく。

育ちが悪い低能がやりそうな憂さ晴らしですよ」

「何のこっちゃ。

パイよ。

いくら怒ってるからってさ。

そのペダンチックな言い回しは悪い癖だよ。

知らない人が聞いたら、性格が悪い人って思われちゃうぜ」

ともさんは、やれやれという顔をした。

帳簿を閉じて立ち上がればそこには、いつもの自信に溢れたともさんがいた。


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