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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 5


 少佐には、機長として決断せねばならぬ時が迫っていた。
 イズショトウからオガサワラショトウにかけて配置された救難用の潜水艦に助けを求める方法もあった。
だがそれには、まともな操縦ができない機体で厳寒の荒れた大海原に着水を試みる必要がある。
ヨーロッパでは捕虜となる選択肢は考慮のうちだった。
だが投降や降伏を自国の兵士に許さない。
そんな敵のホームランドへの落下傘降下は正直気が進まない。
 機体の状態、海水温、夜間と言う時間帯を考えれば前者の選択は論外だった。
しかし後者とて望みは薄い。
どう取り繕おうとも、市民の殺戮を目的とする無差別爆撃に赴いた爆撃機だ。
その搭乗員が降下後どういう扱いを受けるのか。
そのことは想像したくも無かった。
それでも捕虜になる選択に、いくばくかでも生存の可能性がありはしないか。       少なくとも、やがて燃料切れで墜落する飛行機に乗り続けるよりはましではないか。
少佐はここ十何年ぶりで神に祈る気持ちになった。
 ブリーフィングでは敵中降下しても住民の善意は期待するなと繰り返し明言されていた。
怒り狂った民衆からリンチを受ける位ならゲシュタポの方がまだまし。
ヨーロッパではクルー同士そう言い交わしていたものだ。
なれば悪名高き憲兵隊でも良いから、現地の官憲に捕まるが吉だろう。
 欧州戦線では少なくともドイツ本土内でなければ、レジスタンスの手を借りて中立国に逃れるルートもあった。
しかし島国である日本から脱出できる可能性は文字通り絶無だった。
 任務とは言えヨーロッパからこっち。
高い所から相手の顔も見ずに人を殺し続けた事への報いがこれか。
自分自身に関してはある種の諦念が働いて、どこか腑に落ちるような覚悟もある。
無念でもあり痛ましくもあるのは、自分を信じて従ってくれた歳若いクルー達の事だった。
そうではあったが、ふと少佐自身も自分がまだ二十代であることに思い至った。
『娑婆に戻れば俺もただの若造に過ぎない』
その時少佐は少し笑みを浮かべていたかもしれない。
 少佐は必死の形相で機体の安定を図る副操縦士と機関士に総員離脱の考えを示した。
落下傘降下の段取りをチェックした後、インカムでそのことをクルー全員に告げた。
少佐は全クルーの脱出を確認の後、最後の最後に愛機を捨てた。
スキッパーは、万が一を考え欧州での任務中から用意していたザックに入れた。
 航法士によればクルーはタマと呼ばれるトウキョウの郊外に落下傘降下することになるはずだった。
南側に丘陵地があるもののおおむね平坦な土地だった。
市街地の他、軍関係の施設も多い地域とされている。
『できれば理性的な軍人か教養水準の高い市民に捕まりたいものだ』
少佐はどこか他人事の様に溜息をついた。
少佐は、灯火管制下にある闇夜の空を強い北西の風に流されて思いのほか速いスピードで降下していく。
地上が近付くにつれ、少佐の脳裏には酔っ払ったオヤジ達の顔が浮かんだ。
故郷のテキサス州はブラインズビルにある在郷軍人会の面々だ。
『もしブラインズビルにドイツや日本のパイロットが落下傘降下しようものなら、射的の的宜しくライフル銃で撃たれまくるだろうな』
週末には酒場で怪気炎を上げる、陽気で人は良いのだが好戦的なあの顔この顔がちらついた。
トウキョウでは血の気が多い年寄りが敵兵に対してどういう振舞に出るものなのか。
少佐にはまったく見当もつかない。
ブラインズビルの事を思うと不安は高まるばかりだ。
取り敢えずは真昼間の落下傘降下では無くて良かった。
そう無理矢理胸を撫で下ろしたところで全身に衝撃が走り少佐は意識を失った。

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