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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #101

第八章 思惑:4

 ヨナイ兵曹長はちっぽけな権威を傘に着て威張る様な人間ではなかった。

後日タケオの素人臭い思い付きや工夫の才を喜び、使えると判断すれば躊躇なく実用に足る形で任務に取り入れて見せた。

例えば、タケオは子供がお絵描きに使うクレヨンを、何色かポケットに忍ばせていた。

クレヨンはいつも携帯しているノートの書き込みに使ったり、持ち場の壁面や床に記号や数値を記すことに使っていた。

本来、その場で記憶することを求められる戦術情報も、戦闘や荒天下の混乱した状況では正確さが当てにはならないかもしれない。

そう思ったタケオは艦上勤務の早い時期から、クレヨンで自分なりに記号化した情報や簡単なメモを身近に書き留めるようにしていた。

ニスを塗りこんだ木部の部材に付いたクレヨンは、パイル地の布で簡単に拭えたのも幸いだった。

何より記憶のバックアップとして心理的な安心感を持てることは大きかった。

雑談の中でこのことを知ったヨナイ兵曹は感心しきりで、早速自分でも落書きを始めた。

彼はタケオからクレヨンを分けてもらうと記号や符牒を決めながら、実際の任務に利用を始めたのだ。

クレヨンを使った現場の覚書は、後年“カナリスの落書き”として知られるようになった。

昇進して教官となったヨナイ海尉が、士官学校や術科学校で教えることになる“艦上実務学”という新しい分野の、こと初めだった。

 タケオはヨナイ兵曹長の実に熱心な生徒となった。

一人っ子のタケオは、ヨナイ兵曹長に理想化された兄の姿を見たように感じたのかもしれない。

また、ヨナイ兵曹長もこの素直で熱心な士官候補生にすぐ打ち解けた。

タケオをまるで弟子ように思い、自分が身に着けてきた知識と技を惜しげなく伝授したのだった。

 本来が寡黙で友人も決して多いとは言えないヨナイ兵曹長だった。

上陸の際も同僚と花街に繰り出すことは無かったし、大酒を呑んで騒ごうとも思わなかった。

インディアナポリス号に乗り組んでそれほど日を置かずに、同僚や上官から孤独を好む職人気質の変人だと思われるようになったのも無理はない。

しかしヨナイ兵曹長は、人付き合いに疲労を感じ易い、心根の優しい理系人間と言うだけのことだった。

ヨナイ兵曹長は気心が知れた同好の士とは、性別や年齢に隔てのない友情関係を築くことができる。

実はそんな人格的滋味を生まれついて持っていたのだった。

 タケオとヨナイ兵曹長の絆は急速に強まった。

しばらくすると、非番の時にも地図や図表を広げ、黒板を前に熱心に議論を続けるふたりを見かけることが、珍しいことではなくなった。

ややもすると周辺からは、“魔法使いとその弟子”などとからかいが入ることも多くなった。

しかしそのからかいには、何処か畏敬の念が込められており、やがて二人はクルーから一目置かれる存在となっていった。

ふたりの子弟関係は後年、インディアナポリス号のレジェンドとして語り継がれることにもなる。

 階級の上では士官候補生のタケオの方が、兵曹長のヨナイより上位ではあった。

古代の地球ではそうした階級差は、軍では絶対のものであるとされていた。

しかし、殖民星という特殊な環境下での壊滅的災害は、階級などという地球的価値観に囚われる余裕を人類に与えなかった。

 個々人のDNAには失われたライブラリーのバックアップ情報が組み込まれている。

そのことは、先祖伝来の事実として認識されていた。

DNAに組み込まれた情報に上も下も無いことは言うまでもない。

更にはボランティア的要素を引きずっている海軍では、元より上下を問わず兵員の間にごく自然な平等意識が存在した。

DNAの等価性や海軍の伝統という意味でも、水兵や士官の階級は人を測る絶対的な尺度とはなり得なかったのだ。

 そうは言っても、戦闘や艦の運営には命令系統がどうしても必要なのは確かなことだった。

兵員を効率よく運用するために、知識や技能に応じた階級が存在したし、ある意味上官の命令は命に代えても守られた。

命令は自分自身と仲間全体の目的達成に必要だと皆が納得できるからこそ遵守された。

だからこそ命令を下す上級者、特に士官には命令を下す責任についての厳しい覚悟が求められた。

 ヨナイ兵曹長やピグレット号のシンクレアは、それこそ帰港の度に、軍令部から昇進して士官となるように説得されていた。

ところがふたりは頑として首を縦に振らなかった。

ふたりともトップ台の上で過ごす今の仕事が大好きだったし、士官連中の気苦労を見ていて内心『冗談じゃない』と思っていたのだ。

何より命令責任を負う士官としての覚悟など想像すらできない。

ふたりはお互いの心情など知りはしなかったが、遠く離れた海の上で、異口同音にそう明言してもいた。

プリンスエドワード島での束の間の邂逅では、初対面なのにふたりのウマが妙にあった。

互いに同類の匂いを嗅ぎ取っていたせいかも知れない。

 だがヨナイ兵曹長もシンクレアも、結局のところ、昇進と言う魔の手から逃れることはかなわなかった。

この時から数年を待たずして、ふたりは無理矢理昇進させられ艦を降りた。

奇遇ながら遠く離れた場所で同時期に行われた人事だった。

人事を牛耳る両陣営の上級者の誰かが、まるで示し合わせでもしたかのように、彼と彼女を昇進させ転勤を命じたのだ。

当人達にとっては大いに不本意で迷惑千万な海尉への任官辞令だった。

お願いではなく命令だった。

シンクレアなどは『一度は退役した身である』と駄々をこねたが、法務部の訳の分からない規則に絡み取られて軍令部に引っ立てられた。

ピグレット号の艦長以下総員で嘆願したものの、ドレイク提督もこの時は動かなかった。

そうしてヨナイ兵曹長とシンクレアは、遠く離れた港で有無を言わさず艦を降ろされ、陸(おか)で兵学校の教官を務めることになる。

 有無を言わさず陸に上げられ、望まぬ昇進までさせられて、ようやくふたりともしぶしぶながらある種の覚悟を決めた。

ふたりはそれぞれの兵学校に着任するやいなや、それまでに現場で培った経験や様々な研究の成果を、怒涛のごとく論文にまとめあげたのだ。

ふたりが書き上げた論文の多くは士官教育の教科書や参考書として出版され、後々まで数多くの士官候補生を育てる道しるべとなった。

当人たちにとっては退屈だが、海軍としては真に有益な教官としての任務だった。

ふたりの怒涛の論文執筆や研究生活は数年でひと段落を迎えた。

すると頃合いとばかり、定期人事でまたもや同時期に、ふたりは兵学校教官の身分のまま艦隊に戻された。

 ふたりは艦隊復帰後しばらくしてから、それぞれ教導艦隊に所属するフリゲート艦の艦長に任命された。

そうして、両陣営でまるで合わせ鏡のような経歴をたどる海佐同士として海上で会いまみえることとなる。

奇しくもその時ヨナイの艦の副長は、少壮気鋭の海軍将校として順調に昇進しつつあるタケオになるのだが、この時点ではしばし未来の話となる。

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