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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 1

    アメリカの夏は暑かった。
 イングランドで暮している時は、真夏でも空気が爽やかな感じだった。
日差しもそれほど強いとは思わなかった。
緑の木陰に入れば樹間を吹き抜ける風は涼やかで気持ちが良い。
草木の香りも鼻に優しく、ひねもす気分爽快と言えた。
それがどうだろう。
ステーツの夏は気温は高いし風は乾燥して埃っぽかった。
おまけに単調で面白みに欠ける不快な匂いが終日鼻をつく。
 大尉のお供で飛行場と兵舎の間を往復するおきまりの生活だった。
そうした日程はイングランドに居た最後の頃とあまり変わらない。
だが、ざらざらと不愉快な砂と柔らかで気持ちが良い芝を比べれば雲泥の差がある。
肉球への当たりから感じられるその土地が持つ性根が、自ずから知れようと言うものだった。
 大尉が出張で基地を留守にする間預けられていたイングランドのカントリーハウスは、実に居心地の良い環境だった。
スキッパーはそのことを思い出して溜息をついた。
カントリーハウスに滞在中は、同じく居候の身であった雌のホモサピを手下にしていたものだ。
雌のホモサピはジュリアと言う名の心根の優しい小娘だった。
『ジュリアは随分と楽しそうに俺様の世話を焼いたものだな』
スキッパーは現状の酷さにうんざりして、そこはかとなく懐旧の情すらわくのを感じた。
毎日のようにふたりで飛行場近くの林や牧草地を散策したことは良い思い出となっている。
少女という生育段階初期にあるホモサピの雌について、そこそこ知見も深まったものだ。
 いつだったか散歩中に、ジュリアと同程度の年頃にある雄のホモサピに出会ったことがある。
そいつは河岸に寝ころび、ぼんやり空を見上げながら間抜け面を晒していた。
ジュリアとのやり取りでは英語を解さず、コミュ障を露呈して彼女を困らせてもいた。
暫し観察してみたが、その小僧は明らかに一般のカニファミとおっつかっつの知性レベルと推察された。
思うに少年と呼称されるホモサピの若齢雄は、おしなべて愚かな寸足らずが多い。
スキッパーはそう理解していたがその小僧も例外では無いようだった。
 イングランドの田舎生活は退屈ではあった。
だが、こうしてアリゾナの荒涼とした地で過ごしているとどうしたことだろう。
遠くから「スキッパー!」と呼ばわるジュリアの歌うような澄んだ声が、耳元にまざまざと蘇ることがある。
それが空耳であると分かってはいる。
それでもあろうことか、黙し難い望郷の念で胸が張り裂けそうになる。
たかがホモサピの小娘に過ぎないのに彼女の事が慕わしくも懐かしくてたまらなくなるのだ。
そんな風にジュリアの事を思い出すと我知らず、ぼんやりと尻尾を振っている自分がいる。
『俺様ともあろうカニファミが!』
スキッパーとしてはホモサピに対峙するカニファミの矜恃を思えば、少しく悔しい心がある。
 ステーツにやって来てからと言うもの、週末には大尉に連れられて近場の街まで車で出掛けるようになった。
その際必ず立ち寄るパブすらイングランドの方がスキッパーには上等に思える。
イングランドいた頃、士官クラブや村のパブでお相伴に与ったハギスやキドニーパイはそこそこ美味だった。
ステーツのミートパイや大味な肉料理はどうにも脂っこい。
アリゾナの料理は美食家であるスキッパーの口に合わないのだ。
おまけにパブで良く出会う大尉と仲良しなホモサピのメスなどはどうだろう。
顔に塗りたくった迷彩が派手派手しくてげんなりだ。
おまけに甘い様な臭い様なまったりした匂いも犬の鼻にはきつい。
こもごも色々はっきり言って、アメリカの雌ホモサピは品が無さ過ぎた。
ジュリアの無迷彩の顔立ちや自然に香る甘い体臭は、スキッパーにとってはしごく上品に思えた。
ジュリアの匂いも容貌も、知性と教養のあるカニファミにとって大層好ましいものだったのだ。
 ことほど左様に、スキッパーはステーツに来てからと言うもの、不満を溜め込んで元気がない。
イングランドで暮していた頃のことを思い返す度、気鬱の虫が取り憑いてくるのだった。
 イギリス滞在中、大尉は重爆撃機B17を駆り、命を削りながら作戦任務に就いていた。
修羅場と言っても差し支えない連日の緊張は続いたが、気力は充実していた。
そんな日々いつしかスキッパーは、こっそり爆撃任務に同行することが習慣となった。
 大尉には日々のたつきを保証してもらっている恩義を感じていたし、愛情にも似た厚情を抱いていた。
だがしかし、スキッパーは彼の仕事であるホモサピ同士の殺し合いにはとことん興味が無かった。
基地には軍用犬と称する、ホモサピの殺し合いに参加している体育会系の野蛮でがさつな同胞もいた。
スキッパーは彼らには親しみも共感も覚えず、お近付きに成ろうとさえ思わなかった。
ここだけの話しなにより連中には、スキッパーが良しと考える品格や知性がまったく感じられなかったのだ。
大尉のお供として付いて行ったドイツまでの爆撃任務は大層危険なものだった。
だがそこには犬の身ながら死の淵を覗き込むと言う奇妙な高揚感があった。
飛行機で空に上がるという特別な時間は、スキッパーに取り例えようも無く痛快で気分の浮き立つひと時となった。
 B17の巡航高度は氷点下の寒さだ。
発動機から発生する排気ガスや機銃から吐き出される火薬の匂いは至極不快でもある。
爆撃機の乗り心地は正直言って最悪だった。
ところがある時スキッパーは、ただただ、無性に空が好きである自分を自覚した。
いや、それは覚醒と言っても良い未知なる自分の発見だった。
肉球は四本の足で大地を踏みしめることを良しとする。
そんな肉球を持つ自分が、大地を離れて空を飛ぶことに、無類の喜びを覚えるのだ。
そんなことが本当にあるものなのかと、スキッパーは自身の情熱に心の底から驚いてもいた。
 対空砲火や迎撃機の銃撃は、いとも簡単に大きな爆撃機を空から地上へと叩き落とす。
炎に包まれて墜落したり、バラバラに分解する僚機を、スキッパーは観測窓から幾度も目撃した。
まったく実感が湧かず、死という目の前に迫る現実はよそごととしか感じられない。
イングランド時代のスキッパーにとってはそれが正直なところだった。
 大尉の部下であるクルーの士官や下士官たちは気の良い連中だった。
ホモサピにしては見所のある奴らだとスキッパーもらしくない好感を寄せていた。
しかしこうしてステーツに戻って戦場から遠ざからないと分からないこともある。
作戦飛行に同乗していた際にほんの少し巡り合わせが悪ければ、彼らと共に自分も命を落としていた。
それは確かな事だ。
アリゾナの熱い地面を肉球で感じた時ふとそう思い至って身体に戦慄が走った。
スキッパーはその時、今更ながらの恐怖に駆られて、しおしおと尾を股に巻き込んだのだった。



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