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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 17

 「これでも大佐なんでな。

これから君を憲兵隊に引き渡さなければならない。

私がこれを着て出れば、君の扱いが少しはマシになると思ってな。

せいぜい憲兵隊の庁舎に着くまでの効力だろうが、何もしないよりはましだろう。

少なくとも道すがら河原で処刑ということにはなるまい」

レノックス少佐は青ざめてはいたが事態はよく理解している様だった。

「ドイツでも事情はあまり変わりませんでした。

今こうして生きているのが不思議なくらいです。

今日までのご厚情に何とお礼を言ってよいか分かりません。

ありがとうございました」

田山シニアは悲し気な目をして軽く頷いた。

「戦争は人の狂気をいとも簡単に正当化する。

法律や軍規など、人々が持つ卑しい鬱憤晴らしの前には芥子粒ほどの重みもない。

じきにこの戦争も終わる。

日本が負けてな。

まあやって来るべくしてやって来る結末だが、後始末が大変だろうよ。

君も暫くは肉体的にも精神的にも辛い日々が続くだろうが、何が何でも生き延びろ。

今のこの日本の状況では私も大した力には成ってやれん。

参謀肩章を吊ってる連中は敗戦後の戦争犯罪追求について心配しはじめてる。

そこに君が生き延びる可能性の目がある。

日本のキャリア軍人は戦士と言うよりは徹頭徹尾役人なのだよ。

前線の心配より役所の席次と責任の所在が大事でな。

誰も責めを負わないようになあなあで席取りゲームを続けるため、楽な道、楽な道を選んでこの体たらくだ。

だから敗戦を意識すればするほど俘虜の扱いもましになるだろう。

アメリカの合理主義には私も随分助けられたし感化もされた。

けれども君らの徹底した仕事のおかげでトウキョウの下町は酷い有様だよ。

日本が言えた義理じゃ無いとは思う。

だが、戦前にゲルニカや重慶の爆撃に非を鳴らした米英のダブルスタンダードには呆れるよ。

日本の自業自得だと言われればそれまでの話だがね。

日本は戦争を止める決断ができるまで時間がかかるだろう。

ぐずぐずしている内に、それこそ日本中が焼け野原になってしまうかもしれない。

君に対しては筋違いな事とは言え、さすがに恨み言のひとつも言いたくなった。

・・・こうなることは戦争を始める前から内心では分かって居たろうにな。

参謀肩章を吊った連中も頭は悪くないのだろう。

けれども連中が村役場と軍隊が負う責任の軽重を良く分かっていないのは確かだね。

・・・すまんな。

敗残者の愚痴だ」

 レノックス少佐は田山シニアの軍服姿を見て、最初は驚きを禁じ得なかった。

だが生の感情と理性を無理なく共存させている。

そんな彼の姿に、東洋の古の賢者の姿が重なる錯覚を覚えてしまった。

柄にもないことだが少佐にもしみじみと感じ入るものがあった。

 敵国の士官である自分を庇って得をすることなど何もないだろう。

任務とは言え自分は日本人を殺めた。

それも民間人を無差別に殺して来た。

田山シニアは難詰することも無く自分を受け入れ、手厚く怪我の治療まで施してくれた。

ヨーロッパからこっち4年近くの間、硝煙と血の匂いの中で戦い続けてきた。

一緒に訓練を受けた仲間も片手で数える程まで減ってしまった。

それでも自分は運が良かった。

ヨーロッパでは24回の出撃を生き延びた。

太平洋での戦いでも捕虜にはなったものの、今はまだこうして明日を思い煩う事も出来る。

 この戦いの中で自分は、敵と教えられた人間をみな殺しにしたいほど忌み嫌ってきたのか?

自分を殺しに来た人間に、命を奪ってしまいたいほどの憎悪を感じていたのか?

敵も味方も殺し合いの全ては命令の元に成されてきたことだ。

双方ともその命令の大元の意味を真剣に考えることなどほとんどなかったに違いない。

家族に同調し。

学校や職場や友人が構成する共同体に同調し。

声の大きい権力者や国家に同調してきた。

もちろん自分自身も他者に対する同調圧力の一部に成っていたことは確かだったろう。

レノックス少佐は田山シニアの、疲れ切り何かを諦めた口調の中に宿る頑なで透徹した理想を、微かながら垣間見る事ができたことに感謝した。

それは神無き世界に生きる人の、あるべき姿に思えたからだった。 

 田山シニアはレノックス少佐の境遇を、自分がこれまでやって来たやり方を変えることなく淡々と処理しただけなのだろう。

ヒポクラテスの誓いに従った訳でも、安易な同情心で手を差し伸べた訳でもなかった。

ましてや戦後を意識した怯懦な利己心などおくびにもかけなかったに違いない。

田山シニアは理解や共感を必要としていない。

他者に同調など絶対に求めぬまま、自分が寄って立つ自分だけの理想の声を聴いていただけなのだろう。

そのことに考えが至り『俺には無理な生き方だなぁ』と脱力しながらも、レノックス少佐は少し気が楽になった。

 全人類の1/100くらいがもう少し賢くなればどうだろう。

田山父子のように自分の頭でものを考え、行動の是非を他者に丸投げすることが無くなればどうだろう。

そうなれば世界もちょっとはましになるのではないか。

少佐は空かせた腹を摩りながらボンヤリと夢想した。

 レノックス少佐は、いつでも癪に障るほど賢いスキッパーの頭を撫でながら独り言ちた。

「人間だってまだまだ捨てたものじゃないんだぜ」

そう言えたことがちょっぴり嬉しかった。

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