グローバリゼーションvsインターナショナル

(ずいぶん以前に書いた文章がでてきたので再掲。「コロナ後の時代」の「新しい生活様式」なるものに対抗するためにもこの方向で考えていくことが必要になるかも知れない)

TPPに反対したりWHOの偏った健康政策や欧米の一方的な人権外交に疑問を呈すると、かならずといっていいほどグローバル化の時代に何を寝ぼけたことを言っているのかというイチャモンや軽い侮蔑、からかいに出会う。確かにグローバル化は人類の進歩にともなって自然に起こる善悪を超えたことのようにみえるので、なかなかこれを言い負かすことができない。さまざまな反対の言い分は日常会話のレベルで挫かれてしまう。それにここまで広まって日常語のようになってしまっているので、自分でも知らず知らず使ってしまっていて始末が悪い。(あろうことか、私自身かつての自著の帯に使っていた。)

しかし、グローバル化がもてはやされたのは、政治・経済的には新自由主義が資本移動の完全な自由を求めて、英米日をはじめとする先進国がそれまでの国家間の関税障壁をとりはらおうとする闘いを挑みはじめたのとほぼ同時であり、先進国の国民のほとんどに抵抗なく流布する言葉となったのは、インターネットが普及して資本が瞬時に国境を越えて移動することができるようになった90年代末である。21世紀初頭の9・11はそれによって第三世界のほぼ完全な包囲が完成した瞬間の、最後の抵抗であったと思う。その後、資本は例えばBRICsという言葉で発展途上国を取りこみ、2008年の恐慌サイクル(リーマン・ショック)でBRICsから収奪だけして振り落とし、その後自分たちだけは立ち直りさらに先に進んでいこうとしている。

新自由主義という言葉の中に巧妙に忍び込まされた「自由」という言葉が、多くの人にとって抵抗しにくいプラスの意味をもつ言葉であるために、資本の傀儡となりつつあった20世紀末の政治権力にとって、この言葉はこの経済政策をおしすすめるにあたって国民の同意を調達すること容易になった。それと同じで、グローバリゼーションという言葉も多くの人々にポジティブで前進的な人生と生活を約束する言葉のように映るのであるが、その実態は資本主義が世界規模の労働予備軍つまりプロレタリアートを創出するための運動であることを、この言葉が覆い隠してきた。

・・・などということを朝から考えていて、グローバリゼーションに対置する言葉として「インターナショナル」があるのではないかと気づいた。

しかし、この言葉はあの安保・団塊世代が酔っ払って肩組んで歌うあの歌とまぎらわしいために、なんだかうっとうしく思われてしまうというかわいそうな運命にある。それは、まぁあと数年だからいいとしよう。

もうひとつ困るのは、ナショナルという言葉である。日本は敗戦の経験からナショナリズムに対してアレルギーがある。また、グローバル化に取り残されてながら、自分たちを振り落とした元凶のひとつであるネットの世界に浸りきるしかなくなった、いわばグローバリズムの犠牲者層が右翼ナショナリズムと結びついていて、レイシズムの温床となるような悪しきナショナリズムばかりが目立っている。

ナショナルという言葉のイメージは松下幸之助が死んでこのかたいいところなしである。

だが、「インターナショナル」は、ナショナルであると同時にその外の世界とのつながりを示す「インター」を含んでいて、捨てがたい魅力的な言葉であると思う。私たちが国であれ郷土であれ自分たちの足もとに踏みとどまっていること、政治・経済的にはまず国内格差を解消することを目ざす仕組みをつくること、具体的にはTPPのようなグローバリズムの詐術に惑わされず、資本主義の運動が日常生活者にむける牙に対してきちんとした歯止めをかけること、文化的には同じ言葉をもって思考や感性をともにする同胞との手の届く交流を大切にすること、それらをナショナルという言葉にこめたい。そしてそれがナショナリズム、排外主義、自民族主義に陥らないために、「インター」として他のナショナルを尊重し、そして対峙しながらも交流を絶やさないことで平和を維持すること。

(グローバリズムは今の世界の現実をみれば明らかなように、平和を保証しない。なぜなら、その正体は資本の運動だからである)

私たちの今日の世界は、新自由主義が約束するように思えた「自由」に騙されてきた。その自由はグローバリゼーションに乗ることが保証された者に対してだけの自由であったが、それにもかかわらず私たちはいまだにグローバリゼーションという言葉で鞭打たれ尻叩かれながら、知ってもいない場所に這い上がろうとしている。

それに対する対抗の言葉を取り戻さなくてはならない。今からでも遅くはないと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?