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【ミステリの最前線がここに!】井上真偽・新作短編を完全無料公開。

数々のミステリランキングを席巻してきた井上真偽さん。

待望の新刊『ベーシックインカム』が好評発売中です。

今回は特別にその中から短編「目に見えない愛情」を丸ごと公開します!

【あらすじ】
舞台は今より本の少し先の未来。視覚障害を持つ女性が、紫外線まで見えるようになる人工視覚手術の被験者に選ばれました。しかし、彼女は献身的な父に対し、ある「疑惑」を抱くようになり……

個人的な趣味ではありますが、担当編集者が作品集の中で最も好きな短編です。

初めて読んだときには社内で落涙しそうになりました。いや、ちょっと落涙しました。


短編の最後まで読めます。
期間限定の公開ですので、この機会によろしければ!


井上真偽 「目に見えない愛情」

 沈丁花の季節だった。リビングの網戸から漂う甘い香り……鳥の声……庭木を揺らす風の音。その穏やかな早春の静けさに敏郎がしみじみと浸っていると、まるで一人置いてけぼりになるのを怖がる子供のように、おずおずと沈黙を破る声が聞こえた。

「お父さん」

 敏郎は手枕から頭を上げ、声の主のほうに顔を向ける。

「なんだ、今日子」

「今、寝てた?」

「いや」

「そう……とても静かだったから……お父さんって、私より物音立てないよね。なんだかまるで……ああ、うん。そうか」

 声は納得したようにそこで途切れる。敏郎は寝ていたソファから身を起こした。キッチンのほうに向かい、問い返す。

「なんだ?」

「きっと私のせいだ」

「何が?」

「私の目が、こんなだから……音しか頼りになるものがないから……それでお父さん、私に合わせて、晴眼者なのに余計な物音を立てないよう気を付けて……それが習慣になって……」

 またか。敏郎はやや表情を曇らせた。もう三十近くになる娘の今日子は、生まれつき目が見えない。性格は楽天的なほうだが、年齢的なものか、最近こうした自虐的な物言いをすることが多くなった。

「そんなことはない。俺は昔からこうだった」

「噓。お父さん、私が子供のころはもっと騒がしかったよ」

「そうか?」

「そうよ」

「覚えてないなあ……」

「家の中、今よりずっと賑やかだったよ。お母さんもいたしね。お母さん、ガチャガチャうるさいから、私、お母さんがしてること音だけでだいたいわかった。夕食のメニューも推理できたよ」

 思い出に元気づけられたのか、声が少し明るさを取り戻す。

「戸棚の上のほうが開く音がするとね、たいていスープ。下のほうだと、丼ものが出てくる。それね、私、小学生のときくらいかな、気付いて。だから、ご飯食べるときお母さんが、今日のメインディッシュは何、こっちの皿は何って説明してくれるんだけど、私は心の中で、ふふ、知ってますよって―それでたまに、出てくる前に言い当てたりして。そしたらお母さん、とても驚いて」

「そうだったのか。俺は全然気付きもしなかったな」

「お父さんは家事、しなかったから」

「うん……すまない」

「ううん。お父さんは仕事してたんだから―」

 娘は笑い、話題を変える。

「あと、思い出すのは匂いかなあ。私が小学校通うようになってから、お母さん、しっかりお化粧するようになったでしょう。それで家の中でもね、お母さんが歩くと、ふわっとこう、ファンデーションや口紅なんかの匂いがして―」

「そうだったか……ああ、そうだったな……」

「あのころから、声も優しい感じに変わった気がする。重荷だっただろうね、私のこと。だってお母さんと外出するたび、人からよく言われたもの。綺麗なお母さんですねって。きっと私のことがなければ、お母さんはもっと自由にお洒落を楽しんだりして……」

 今度は敏郎が押し黙る番だった。娘の母親は、娘が小学校を出るころに病気で亡くなっている。

「あいつは別に、自由にやっていたぞ」

「そうかな?」

「そうだ」

「なら、いいんだけど。……ところでお父さん。私って、お母さん似かな?」

 不意打ちの質問に、敏郎はまた一瞬口ごもる。

「……ああ。似てるんじゃないか」

「今の間は何。それになんでちょっと曖昧なのよ。いいのよ、別に。お母さんほど美人じゃなくても……。ああ、そうだ。写真」

「写真?」

「お母さんの写真、ちゃんととってある? 遺影じゃなくて、できれば若いころの」

「あいつの若いころの写真か」敏郎は顎の無精ひげを撫でる。「どうかな。俺が昔持っていたデータは、ハードディスクが壊れて消えてしまったしな。あいつは写真嫌いだったから、わざわざプリントしてアルバムに残すなんてことはなかったし。自分の写真をネットにあげたりもしなかったしなあ。
 まあパスポートの写真くらいなら、あったと思うが……どうして、また?」

「やっぱり見たいな、って思って」

 再度敏郎は黙り込む。

「ああ、ごめん。違うの。別に今すぐにってわけじゃなくて―いつか。いつかね」

「いつか?」

「うん。あのね……これは、酒井さんから聞いたんだけど……」

 酒井さんというのは、娘が世話になっているガイドヘルパーの女性だ。買い物や通院など、外出用事に付き添ってくれる介護職員である。AIに次々と仕事が代替されるこの時代、福祉・介護職は雇用の受け皿として従事者が増加の一途だと敏郎は人伝手に聞く。

「酒井さんが言うには、今は技術革新がすごいらしくて。それで海外じゃ、もう『バイオニック・アイ』が実用化され始めてるって」

「バイオニック・アイ?」

「うん―人工の視覚、って言えばいいのかな。目の網膜を、人工的に作っちゃって。その人工網膜で、目の奥に残った視神経細胞を電気刺激するんだって。そうすると、目で見たのと同じ信号が脳に伝わって……」

 敏郎は静かに娘の話に聞き入った。人工視覚か。自分が若いころにも似た話はあったが、まだそのころは技術的な壁が高く、実用化は遥か先だと思っていた。それがまさか、自分の存命中に日の目を見るとは―科学はまさに日進月歩だ。

「日本での認可はまだ当分先だろうけどね。でもその手術を受ければ、この目もいつか使えるようになると思うの。だからそのときまで、お母さんの写真はなるべく残しておいてほしいな、って―」

「どこの国だ」

「え?」

「どこの国で、実用化が始まっているんだ。なにも日本で認可されるまで待つ必要もない。海外で手術できるなら、お前もしてくればいい」

「ああ……」

 カサカサと紙か何かを折る音を立てつつ、娘は曖昧な相槌を打つ。

「国はアメリカとかかな。でもね、当分はまだ無理。仮に手術を受けられるとしても、ちょっとね、高いのよ。費用が。手術だけでウン千万……」

札束

 敏郎の胃が、急に石でも飲み込んだように重くなった。

「保険もきかないだろうしね。酒井さんが言うには、もっと『市場』が大きくなれば、いろんな企業が開発競争を始めて、値段も下がるようになるらしいんだけど。でも、私みたいに視覚に困っているのって、やっぱり少数派じゃない? だからなかなか開発も進まなくて……」

 折り紙の音が止まった。代わりにぺちぺちと食卓を手のひらで叩く音がする。「お茶飲む、お父さん?」急須とポットを探しているらしい。

 敏郎は立ち上がった。「俺が淹れよう」さきほど自分で茶を淹れたので、急須とポットはリビングのテーブルにあった。敏郎がポットの前に立つと、背後に音もなく忍び寄る娘の気配がする。

 まるで接近警報装置のない電気自動車のようだな―と、敏郎は一人苦笑する。

 娘から湯吞みを受け取り、茶を淹れた。網戸から入る冷たい土の匂いの中に、ほわりと温かい緑茶の芳香が差し込む。

 二人でソファに座り、雀のさえずりを聴きながら、隠居した夫婦のように静かに茶を啜った。

「……今日子」

「何?」

「頑張って稼ぐか、ウン千万」

「どうやって」

 娘は朗らかに笑う。

「いいよ、無理しなくて。年金暮らしの父親と目の見えない娘の収入じゃ、この借家の家賃を払うのだって精一杯じゃない。大丈夫。まだ私は若いんだし。そのうち日本で認可されれば、今度は補助金とかの話も出てくるだろうし。それまでゆっくり順番を待つよ」  

 そう言って娘は敏郎の肩を叩き、立ち上がった。テーブルを手でこする音を立てながら、網戸のほうへ向かう。

「いいの、お父さん。今は夢があるだけで。もしかしたら見えるようになるかもしれない、って希望が持てるなら、それだけで私は充分。この時代に生まれて私は幸運だよ。だって昔の人は、そんな夢さえ持てなかったんだから……」

 夢か。

 敏郎の目が細まる。まるで夢は空に浮かぶのが相場とばかり、敏郎の顔が自然と上向いた。己の甲斐性なさに落ち込む敏郎を慰めるかのように、春の日光が頰と額を撫でる。早春の空気は冷たいが、顔に浴びる陽射しは火鉢にあたるかのように暖かい。

「その夢……叶うといいな、今日子」

「うん。そうだね、お父さん」

「今日子、喜べ。受けられるぞ、手術」

 帰宅して開口一番、敏郎が不意に告げた言葉に、キッチンにいた娘はしばらく無言になった。

 やがて小さく、「えっ」と狼狽の声。続いてガチャンと、包丁を流しに取り落とす音。

「噓。お父さん、今、何て……?」

 敏郎は久々に苦労して結んだネクタイを外して解放感を味わいながら、自身も浮き立つ声で答えた。

「噓じゃない。手術が受けられる、と言ったんだ」

「バイオニック・アイ……の?」

「ああ。俺の元勤め先に、福祉機器の開発部署があってな。そこに転属した後輩から、人工視覚を扱うアメリカの医療ベンチャーを紹介してもらった。なんでも将来的にアジア圏への進出を計画していて、その臨床データを取るためにちょうどアジア人の被験者を募集していたそうだ。お前を実験台に差し出すみたいで癪に障るんだが、まあその分安くしてもらえるというしな―」

 堅苦しいスーツから部屋着に着替えつつ説明する。なけなしの伝手を辿り、ようやく摑んだコネだった。敏郎の元勤め先は体重計などの健康器具を主に開発する電機メーカーで、その関係で障碍者雇用にも力を入れており、医療福祉の業界ともつながりが深い。

「そんな。どうしよう。夢みたい……」

 急に感極まったのだろう。うう、と絞り出すような嗚咽の声が漏れ聞こえた。敏郎はキッチンに戻ると、放置されてダダダと滝のようにうるさい蛇口を代わりに止める。あたりには魚と濃い醬油の匂いが立ち込めていた。煮魚を作るつもりだったようだ。

「……ああ。ごめんね。夕ご飯、今用意するから……」

 娘は洟をすすりながら、我に返ったようにパタパタとまたキッチン内を忙しく移動し始めた。目が見えなくとも、勝手知ったる家の中なら日常の家事程度の動作は問題ない。それでも時折ぎこちない衝突音がするのは、娘の心の動揺の表れだろう。突然降って湧いた話にどう対処していいかわからないようだ。

 しかしそれは敏郎も同じだった。娘も自分も、この喜びの実感が湧くのはもう少しあとのことに違いない。

 娘は昂ぶる気持ちにわざと水を差すように、不安めいた言葉を口にする。

「でも……安くしてもらえるっていっても、タダじゃないんでしょう?」

「心配するな。うちにも少しは蓄えがあるし、それとあとな、練馬の」

「うん?」

「練馬の聡さんがな、少し用立ててくれた。今日子ちゃんのためなら、って」

「え―聡おじさんが?」

 不規則な足音のリズムが止まった。

「どうした?」

「どうしよう。私……」

 ガチャリと皿を置きながら、娘が戸惑い気味に言う。

「今、すごく……おじさんに申し訳なくて。だって私、おじさんのこと、冷たい人だなって勝手に思ってたから。あまり話しかけてくれないし、こっちから頑張って話しかけても、なんか返事が鈍くて……」

「ああ。聡さんは、緊張しいだから」

 敏郎は冷蔵庫に向かう。

「俺が電話口でお前のことを相談したときも、『ああ』とか『うん』とか煮え切らない相槌ばかりだったよ。だからてっきり聞き流されたのかと思ったが、先日『金の準備ができた』と突然メールが来てな。普段は寡黙なぶん、メールだと饒舌なんだな―」

「……聡おじさんにも、息子さんがいるのに」

 声が再び潤む。冷蔵庫を開ける敏郎の背中で、チーンと洟をかむ音がした。敏郎も胸に温かいものを覚えながら、棚の最上段に手を伸ばす。晩酌好きな敏郎のため、そこにはいつも娘が冷えたビールを準備してくれている。

「お父さん。私あとで、聡おじさんにお礼の電話をするね」

「ああ。そうしろ」

「それとね。手術が成功したら、私、頑張って働く。今よりもっといい仕事見つけて働いて、聡おじさんにもお父さんにも、絶対にこのお金返すから……」

「それは……まあ、好きにしろ。ただ、そんなに気負わなくてもいい。今の時代、健常者だってそう仕事があるわけじゃないんだ……」

 敏郎は缶ビール片手に居間に向かった。カーペットを踏んだあたりで足を止め、「おい。テレビを点けてくれ」と虚空に向かってぶっきらぼうに言う。

 途端にテレビが点き、控えめな音声が流れた。最近はこういった音声入力式の家電管理製品が流行りらしい。ただ初期設定の「架空のキャラクターの名前を呼んで起動する方式」が敏郎にはどうにも照れ臭いので、娘の反対を押し切って「おい」という単純な呼びかけで反応するように設定しなおしている。

 敏郎はソファに腰掛け、缶を開けた。

「それに目が見えるようになっても、お前が必ず幸せになれるとは限らんしな。もしかしたら目が見えないままのほうがよかったと、後悔することもあるかもしれない……だがそれでも、俺はお前に手術を受けさせたい。なぜならそれが俺と母さんの願いだからだ。だからな、今日子。そう気にするな。これはただの親のエゴなんだ……」

 チーン、と再び洟をかむ音が聞こえた。それから「あっ」という焦り声と、ピッというIH調理器の停止音。焦げ臭い匂いがリビングまで漂った。どうやら今晩の祝い料理は失敗作らしい。

 敏郎は苦笑しながら缶に口をつけた。それからふと思い出したように、隣室の寝間のほうを振り返る。妻の仏壇のある寝間の方角に向かい、祝杯を挙げるように缶を持ち上げた。そして小さく、頭を下げた。

 朝の空気が温む時節となった。庭から漂う沈丁花の香りは弱まり、今は遅咲きの梅の香がほんのりとリビングを春の風味に染めている。

 敏郎が少し遅めに起きて居間に行くと、いつもは足音を聞きつけて「おはよう」と声を掛けてくる娘の挨拶がなかった。―出かけたのか? 訝りつつソファに向かおうとすると、裸足の指にさらりと糸のようなものが触れる。

 敏郎はぎょっとして足を上げた。娘の髪だった。ソファとリビングテーブルの隙間に寝転んでいたらしい。危うく踏むところだった。

「……どうした、今日子?」

 娘はたるんだ声で答える。

「陽射しが、あったかい……」

「閉めるか、ガラス戸?」

「ううん。網戸のままでいい」

 寝返りを打ったのか、ゴン、とテーブルの脚に娘の腕か何かがぶつかり、テーブル全体が振動した。

「今日はいい天気だね。元気な子供たちの声が聞こえる……野球だ。あの子たち、野球をやってるんでしょう、お父さん?」

「ああ。そうだ」

 敏郎は外に顔も向けずに答える。この家の道路を挟んだ向かいには、フェンスに囲われた小規模な運動場があった。緑豊かな―というより開発の魅力に乏しい郊外のこの町には、そのくらいの空き地がいたるところにある。

少年野球

 娘がもごもごと何かを言った。

「あのね、お父さん……」

「なんだ」

「私……あの子たちと、前に野球したことがあるよ……」

「何?」一瞬寝言かと思い、敏郎は思わず聞き返す。

「家の前、散歩してたときにね……あの子たちに、目が見えないことをからかわれて……それじゃあすごいところ見せてやるよ、って売り言葉に買い言葉で、私、バッターボックスに立って……それで適当にバット振ったら、なんか当たっちゃって……」

 クスクスと、足元から思い出し笑いが上がる。

「そしたらもう、ヒーロー扱いで。子供ってそういうところは単純だよね。ねえ、お父さん……私、手術が成功したら、またあの子たちと野球したい。できるかな……」

「ああ。できるさ」

 娘の手術の日程は、二か月後に決まっていた。

 それで落ち着かないのか、娘は最近妙に忙しく動き回ったり、逆に今のように腑抜けた状態で一日中ぼうっとしていたりする。娘は週に数日、マッサージ師として近所の接骨院に勤めているので、それで仕事に支障が出ていないか敏郎はやや不安だった。しかし特に先方から苦情もなく解雇もされないところを見ると、一応本業のほうはそつなくこなしているのだろう。

 敏郎は邪魔な娘を器用にまたぎ、ソファに座った。起き抜けでまだ頭に眠気が残っていた。その眠気と春の陽気に誘われてソファでうつらうつらし始めると、再び足元から、今度はしみじみと感慨にふける声が聞こえてきた。

「お父さん……人間って、すごいね」

「何がすごいって?」

「人間。人類」

「なんだ、急に」

「だってさ。どんなことも諦めないんだもの」

 娘が敏郎の足を押しのける。娘はずりずりとカーペットを這いずる音を立てて進み、ガタガタと立て付けの悪い網戸を押し開いた。

 穏やかな春の風に乗り、甘酸っぱい梅の香りが運ばれてくる。

「これが野生の動物だったら、全部諦めちゃうところでしょ。目が見えなくなった時点で、ああもう無理だ、これ以上生きられないって。でも人間はそこで諦めずに、なぜ目が見えないんだろう、どうしたらまた見えるようになるんだろう、って考えて。考えて、考えて―それで最後はついに、もう一度見えるようにしちゃう。そういう人間が、私……すごいなあ、って」

 敏郎は瞼を閉じた。鼻腔に染み込む花の香りをゆっくりと味わう。

「ああ。大したもんだ」

「もちろん本当にすごいのは、才能のある一部の人たちだけなんだけど。私なんかは毎日、ただ食べて寝て起きて……ああ、でも。でもだよ、お父さん」

「なんだ、今日子」

「私、ようやく役に立てるかも」

「何が立つって?」

「役よ、役。社会の役。手術で目が見えるようになったら、私、普通に働ける」

「ああ……」敏郎はやや顔を曇らす。「でもな、今日子。前にも言ったが、そうあまり気負うな。もしお前の視力が回復しても、それはただ、健常者とようやく同じ土俵に立てた、ってだけの話だからな。お前がこれまで三十年近く目が見えずに生きてきたハンデは、どうしたってある」

 敏郎はソファに横になった。二度寝してしまいそうだが、年々体が重力に逆らい難くなっていく。

「それに今はAI化で、健常者の失業も増えていると聞くしな。聡さんの息子もいい会社に勤めてたんだが、それでリストラを食らって、今は無職で毎日ふらふらしてると―」

「ねえ、お父さん」

 娘が敏郎の語りを遮った。

「お父さんは、エンハント―って知ってる?」

「エン……なんだ?」

「エンハント。うん? あれ、違うな。エンハスト……エンハンス……ああ、エンハンスメント」

「……いや、知らんな。なんだ?」

 敏郎が問うと、娘は嬉々として説明を始めた。

「私も最近知ったんだけどね。エンハンスメントっていうのは英語で、日本語だと……強化、って意味かな。これからの障碍補償技術―義手とか、義足とか、私の人工視覚の手術とか。そういう技術って昔みたいに、ただ『健常者と同じことができるようになる』、ってだけじゃなくて」

「うん?」

「たとえば義手なら、より強い力が出せるようになる。義足なら、より速く走れるようになる……パワーアップ、するのよ。機能が」

「ほう……」

「この前手術の説明を受けたとき、そんな話になって。人工視覚だと、紫外線とかまで見えちゃうらしいの。それって動物だと、モンシロチョウとかハチドリが見てる世界なのよね。人間でも四色型色覚といって、極まれにそこまで見える人がいるらしいんだけど……。でも、素晴らしいことだと思わない? 手術を受ければ誰でも、蝶や鳥と同じ世界まで自分を広げられるなんて」

 敏郎は返答に困った。

「ふうん……そうか。いやしかし、別にそんなものが見えてもなあ……」

「お父さんはロマンがないなあ」娘は拗ねた子供のように言う。「ええと、だったら―ああ、そうだ。犯罪捜査」

「犯罪捜査?」

「うん。警察の人がね、事件現場を調べるじゃない。そのときに紫外線を使って、血痕とか指紋などを調べたりするらしいの。それと同じことができる。

 それに、偽造防止技術。日本のお札やパスポートには、偽造防止のために、紫外線に反応する特殊なインクで模様が描かれてたりするんだって。だからさ。もし私の手術が成功して、お店のレジ係として働くことになったとしてさ。そうしたら私、一発で偽札が見抜けるよ。

 まあ今はIC化であまり現金は扱わないし、レジも自動が多いけど……これはあくまで『例』だから。もし私が人工視覚を手に入れたら、そういう健常者にはできないこともできるようになるだろう、って話。決してハンデばかりじゃない、ってこと。逆に視覚以外は健常者より敏感だしね」

 敏郎はますます言葉に詰まった。人工視覚なら紫外線や赤外線まで見える。娘はそれが、人工視覚の「エンハンスメント」―追加のメリットだというのだろうか。

 娘の前向きな気持ちに冷や水を浴びせたくはないが、敏郎には正直それが大した利点とは思えなかった。それに今の話を聞き、逆に敏郎の中に不安が生じたのも事実だ。「エンハンスメント」という言葉に、感心するより先にどうにもロボットじみたものを想像してしまう。いったいこれは―妻や俺が望んでいた形だろうか。

 やはりこの手術は、娘にとってプラスばかりではないのだろうか。

 無言の敏郎に批判の空気を察してか、娘が不満そうに言った。

「何よ?」

「いや、何―」敏郎は薄い頭を搔く。「話を聞いていて、なんだかお前が人とは違う、ロボットみたいに思われる気がしてな。それが俺にはどうも―」
「ああ……確かに最初は、そういう反応をされるかもね」

 娘の声のトーンが少し落ちる。

「でもきっとそういうのは、本当に最初だけ……人は慣れるものだから。携帯式の電話だって、最初は『公衆向けの固定電話ボックスがあるから普及しない』って言われてたっていうじゃない。でもいつの間にか、生活に欠かせないものになって……技術ってそういうものなのよ。人は新しい技術に最初は反発して、それから慣れるの。それにね、お父さん―きっとそのうち、私みたいのが普通になるよ」

 敏郎は片眉を上げる。

「お前が……普通に?」

「うん。だって今、寿命がとても延びているでしょう。そうすると健常者の人たちもいずれ目や耳が悪くなって、こういう手術を受けるようになる。それでその数が少しずつ増えていって、健常者とそうじゃない人との境目がだんだん曖昧になって……そしていつかは、私たちが多数派になって……」

 夢を語る若者のように、娘の声が徐々に熱を帯びる。

「それで今度は逆に、手術をしてない人のほうが『え、まだ普通の目で見てるの?』なんて笑われちゃう。そんな時代が来るのよ。
 もちろん、私は笑わないけどね。そんな時代が来ても。私はまだ手術してない健常者の人に向かって、『それだけの世界しか見えてないの?』なんて笑わない。事情があって手術できない人たちを決してからかいもしないし、もしそれで、不便を感じているような人がいたら―私が手を、貸してあげる。そう決めているの」

 敏郎はソファに横たわったまま、娘の話を聞いていた。優しい娘に育ったと喜ぶ半面、その無邪気に未来を信じる姿に一抹の不安も覚える。確かにそういう時代も到来するかもしれないが……それは来るとしても、もっと遥か先のことではないだろうか。

 娘の期待する未来……理想の世界……それと現実とのギャップ……人間社会が越えねばならない、技術以外の多くの壁。醜いものが見えなければ世界に希望を抱くのは簡単だ。だが視覚というハンデを取り除き、ほかの健常者たちと同じ立ち位置でこの現代社会の矢面に立たされたとき―ある意味見えないことで守られてきた娘の心は、深い傷を受けないだろうか。

 大きな希望に裏切られるよりは、まだ小さな不満に甘んじているほうがマシではないのか。

「……寝ちゃった、お父さん?」

 娘がそっと自分に声を掛ける。敏郎はそのまま狸寝入りを続けた。自分の中にふと浮かんだ疑問。それに即座に答えを見いだせない今は、寝たふりでお茶を濁すしかない。

 敏郎は額をあらん限りキッチンの床にこすりつけた。空気を通して娘の怒りが伝わる。明るい性格の娘が、ここまで負の感情を露わにすることは滅多にない。

「どうして。どうしてなの。信じられない……」

 敏郎はさらに額を固い床に押しつける。目の見えない相手に土下座は無意味だろうが、こうでもしなければ敏郎の気持ちが収まらない。

「すまない、今日子。許してくれ。俺も悪かったんだ。もっと早く、聡さんからお金を受け取っておけば……」

 今日、敏郎は、娘に最悪の報告をした。

 妻の弟である聡から受け取る予定の金が、その息子の俊之に使い込まれてしまった―そう娘に告げたのだ。

 報告を聞いた娘の衝撃は大きく、この平穏な家で初めて、皿が壁に投げつけられて割れた。

「聡さんからお金を普通に受け取るとな、贈与税とか、余計な税金がかかるというから……。それで免除の方法とか、いろいろ調べているうちにな……」

「その隙に、聡おじさんの息子がお金をかすめて、ギャンブルで全額スッちゃったっていうの?」娘の声が震える。「何よ、それ。ひどいなんてものじゃない。聡おじさん、家族に私のこと話したんでしょう? お金を何に使うか、俊之さんも知らなかったわけじゃないんでしょう? それなのに―」

「俊之君の話じゃ、元手を増やしてから、返そうと―」

「ふざけないで!」

 ガチャリ、と二枚目の皿が取り上げられる。その音に敏郎は身構えたが、娘がその皿を再び感情のはけ口に選ぶことはなかった。皿は手から滑ったようにがらんと流しのシンクに落ち、代わりにうう、と悔しげな呻き声が漏れる。

「そんな馬鹿みたいな言い訳……まともに聞かないでよ。それがもし本当だったとして、どうしてこっちに断りなくやるのよ。おかしいでしょう。絶対ただの言い訳でしょう」

 キュッと娘が流しの蛇口を捻る。ダダダと水が蛇口から勢いよく流れ出た。気を鎮めようと顔を洗っているのか、バシャバシャとアヒルのバタ足のような派手な水音がする。

蛇口

「わかるのよ、私。きっと俊之さん、親のお金が自分じゃなくて、私に使われるのが嫌だったんでしょう。なんでうちのお金でほかの家の子供を、って思ったんでしょう。それはわかるし、そう言われたら私だって何も反論できない。だってそれは本当のことだから。おじさんちのお金は自分の子供に使うべきだし、もともともらえなかったものを結局もらえなかったからといって、私に不満を言う権利なんてない。でも……」

 流れる水音に、ダン! とまな板を拳で叩きつける音が重なった。

「だったらせめて、役に立つことに使ってよ! そのお金を有意義に使って! 働いてないなら、そのお金で何か商売を始めるとか! 資格を取るとか! 私の目より価値あることに使ってよ! そのお金はね、私の目! 私の目の値段そのものなの! それをギャンブル……ギャンブルなんかで……」

 敏郎は苦いものでも飲んだような気持ちで、土下座から頭を上げる。

「今日子……」

「お父さん。私ね、手術ができるって話を聞いたとき、天にも昇る気持ちだった。世界中から祝福されたような気がした。でも……違ったのよ。私は世界にからかわれただけ。まるでリードにつながれた犬が、届かないところで意地悪に餌を見せびらかされるみたいにね」

「今日子。お願いだから、自棄だけは―」

「もういい。もういいよ。私、もう寝るから。割れた皿は明日片付けるから。近づかないで、そのへん」

 そう言って、娘は足音も荒くキッチンを出ていった。バシン、ジャラランと、ドアとそれに取りつけた鈴が、娘の怒りを代弁するかのような耳障りな二重奏を奏でる。

 敏郎はその残響が消えるまで、しばらく正座のまま留まった。

 やがて口から深いため息を漏らし、力なく立ち上がる。開きっぱなしの水道をのろのろと止めた。そして重い足取りで、仏壇のある寝間の和室へ、掃除機を取りに向かっていく。

 敏郎は娘の部屋のドアを静かにノックした。

「今日子……調子はどうだ……」

 返事はない。だが中から聞こえる音楽が途中で切り替わったので、起きてはいるようだ。

「今日……仕事を休んだそうだな」

「……」

「接骨院から電話があったぞ。今週一度も出勤予定がないが、何かあったのかって。一応、体調が悪いとは答えておいたが」

 再び音楽だけの返事が戻る。綺麗なピアノの曲だが、ヨーロッパの北国のようにどこか寒々しい印象があった。これが今の娘の心境だろうか。

「あのな、今日子」

 敏郎はドアに口を寄せ、言葉に力を込めて言う。

「俺は今日、市役所に行ってきた。福祉向けの融資制度の説明を受けにな」

「…………」

「まあそこで借りるのは無理だったが、代わりに担当者の方にいろいろ教えてもらった。今は民間でもいろんな支援団体や制度があるらしいな。中には詐欺まがいのもあるから、そこは騙されないよう気を付けんといかんが……」

「…………」

「だからまあ、諦めず気長に待っていてくれ。きっとなんとかするから。なあに、金は天下の回りものだ。どこかに必ず道はある。いいか、今日子。自棄だけは起こすなよ、自棄だけは……」

 少し間を置き、それから敏郎は肩を落としつつ引き返す。日の当たらない奥の廊下は四月でもひんやりと寒く、滞留した空気にはおが屑のような匂いがほのかに混ざる。

 敏郎が帰宅すると、家の中がやけに暑かった。

 窓やガラス戸を一日中閉め切ったままだったらしい。娘はまた部屋にこもっているのか。やや憂鬱な気分で玄関を上がると、リビングから音楽が聞こえた。敏郎の表情が少し緩む。今日は出てきたようだ。

 ネクタイを外しつつ、むっとサウナのように蒸し暑い部屋に足を踏み入れる。そして努めて明るく言った。

「ただいま、今日子」

「……おかえり」

 期待していなかったが、小さく返事があった。敏郎は久々に娘と会話が成立したことにほっとしつつ、窮屈なスーツを着替えるために和室に向かう。

「お父さん」

 上着をハンガーに掛けていると、リビングから呼びかけがあった。

「なんだ?」

「どこ、行ってたの?」

「ああ。融資の相談で、会社巡りをしていた。酒井さんに付き添ってもらってな」

「酒井さんも? 一緒に?」

「ああ」

「……何か言ってなかった、酒井さん?」

「何かって、なんだ?」

 スウェットに着替える。靴下とワイシャツを手に持ち、和室を出た。洗濯機のある洗面所を目指す。

 いつも定位置にある洗濯籠に衣類を放り込み、居間に戻った。いつの間にか掛かっていた音楽が消え、代わりにチーンチーンと、仏具のお鈴のような音がする。といっても別に娘が仏壇で線香をあげているわけではなく、リビングでガラスのコップを指で弾いているだけのようだ。

「……昨日私、酒井さんに失礼なこと言っちゃった」

 少し間を置いて、娘が後悔する口調で言った。

 敏郎はソファにいる娘の隣に腰を下ろした。外歩きの疲れを深呼吸とともに吐き出しつつ、慎重に問う。

「何が、あったんだ?」

 娘は少し黙ってから、言う。

「昨日ね―私、酒井さんに買い物の付き添いの予約、入れてたの」

「ああ」

「でもそれを取り消すのを、すっかり忘れちゃってて。それで酒井さん、家まで来ちゃって。しかたがないからお茶だけ出して帰ってもらおうとしたら、酒井さん、気晴らしに外出しましょう、って強引で。それで押し問答してたら、私つい、怒鳴っちゃって―」

「怒鳴った? お前が?」

「うん」

 敏郎の腰の後ろから、クッションが抜き取られた。恥ずかしさのあまりそのクッションで顔を隠したのか、娘がもごもごとこもる声で言う。

「だって、言われたの。『あなたが元気にしているのが親孝行ですよ』って。そしたら私、親孝行、っていう言葉に、ついカッとなっちゃって―だってしてないもの。親孝行。しようと思ってもできないもの。ただ元気なだけで親孝行? それが私のできる全部? 私のできる親孝行ってそんなレベル? って―」

 また感情が昂ってきたのか、娘の声が若干うわずる。

「じゃああなたは? あなたにできる親孝行って何? そんなふうに考えたら、なんだか私、自分の存在自体が親不孝者に思えちゃって。それで私、ボロ泣きしちゃって。あなたに何がわかるの。目が見えるあなたに。気が向いたら旅行でも買い物でもなんでもしてやることのできる、何の不自由もないあなたに―って。それで私、ついテーブルの時計を投げようとして―」

 敏郎はぎょっとする。

「投げたのか?」

「ううん。安心して。投げられなかったから。摑めなかったのよ。そこにあったと思った時計がないの。たぶん酒井さんにお茶を出したとき、彼女が気を利かしてどかしたんだと思う。まあ、なくてよかったんだけど。でも私、そのこともとても悔しくて―こんなに腹が立っても、私は自宅の物さえ投げられないのか、なによ、なによって。それもあって、もう気持ちがぐちゃぐちゃで」

「ああ……」

 敏郎は居間のテーブルのほうに顔を向ける。手すり代わりにも使えるよう脚を高めにしたリビングテーブルの上には、ボタンを押すと時刻を読み上げる音声時計があった。娘の子供時代に買ったもので、現代の「おい」と訊ねれば時刻も天気予報も答える家電管理AIのある時代にはほぼ無用の長物だ。けれど親子ともども愛着のある物なので、インテリアとして飾っている。

「でもね―投げられなくて、本当によかったよ。お父さん」

「そうだな」

「もし投げてたら、今よりもっと後悔してたと思うから。だからね。お父さん。それから私、ずっと自己嫌悪。ひどい八つ当たりしちゃったなあって。なんだろうなあ。昔はこんなことじゃ怒らなかったんだけどな。人は人、私は私って、もっとすんなり諦めがついて……」

 ペットでもあやすように、ポンポンとクッションを軽く叩く音がする。

「―きっと私、人工視覚の話を知って、いろいろ欲が出ちゃったんだと思う。いっぱい想像しちゃったから。もし目が見えるようになったら、あんなこともできる、こんなこともできるって。……そう考えると、今と昔、どっちのほうが幸せなんだろうな。そんなことは絶対無理、って諦められた昔と、もしかしたらできるかもしれない、って希望を持たされる今と」

 敏郎は口を結んだ。背もたれによりかかり、腹の上で指を組む。

「……そりゃあ、今のほうがいいに決まってる」

 フフッと笑い声が返った。

「どうかな。それでも無理な希望を持たされるのは、やっぱり酷な話だと思うけど。人間、諦めが肝心……って、アハハ。変だね。私この前と、まるっきり逆のことを言ってる」

 よいしょ、と掛け声を発して娘が立ち上がった。ガラガラとガラス戸が開けられる。まるで水槽の水を交換するように、部屋の蒸し暑い空気と外の冷気ががらりと入れ替わった。汗ばんだ肌に当たる夜風の心地よさに、敏郎はつい瞼を閉じる。

「……今日子。お前は今さっき、ただ元気なだけで親孝行、と言ったが、『だけ』ってことはないぞ。『だけ』ってことはないんだ。子供がな、毎日を笑って健康に暮らしてくれている。それ以上の親孝行があるか。なあ今日子、頼むから自棄にはなってくれるな。お前が自分の生まれた境遇にめげず、一生を幸せに暮らす―それが何より俺と母さんの、望みなんだからな」

 これまで何度も繰り返し娘に伝えてきたことを、今また告げた。もう娘も耳にタコができていることだろう。敏郎はもう少しこの言い合いが続くと思ったが、予想に反し娘はもう口答えしてこなかった。ただ庭でジージーと鳴く春の虫の音に耳を澄ますように、穏やかな沈黙を保つ。

 やがて娘は大きく息を吐くと、開き直ったように明るく言った。

「うん。わかったよ、お父さん。そうだね。自棄にはならない。自棄にはならずに、なんとか前向きに考えてみるよ……」

 敏郎は居間のテーブルの上をまさぐった。それから首を傾げ、キッチンにいる娘に向かって声を掛ける。

「今日子。居間にあったタブレットPCを知らないか?」

「ああ。ごめん。今使ってる」

 イヤホンを外したのか、音声が漏れ聞こえた。平坦な機械音声だった。音声読み上げソフトを使っているのだろう。

「調べものか?」

「うん。今の接骨院以外に、もう一つくらい仕事掛け持ちできないかな、と思って」

「そうか……」

「でもやっぱりなかなかないね。お父さんの言う通り、健常者向けの求人も少ないみたい。……ああ、それにしても、この音声読み上げアプリ使いにくい。いつの間にアップデートされちゃったんだろう。前のバージョンのほうが断然使いやすかったのに」

 ギッと娘が椅子を引いた。ペタペタと家具を叩いて触りながら、こちらに近寄ってくる。そして敏郎の腕を取り、手の中にタブレットPCを滑り込ませてきた。それを受け取りつつ、敏郎は訊き返す。

「もういいのか?」

「うん。ひとまず職探しは中断。……ああ、それとね、お父さん」

「なんだ?」

「ボイスメール、聞いた。俊之さんからの」

 敏郎は無言でタブレットPCを膝に置いた。例の練馬に住む聡の息子・俊之が、今日子が落ち込んでいると聞いて謝罪のメールを送ったという話は聡から聞いている。

「……どう、思った?」

「うん……まあ思ったよりは、ちゃんと反省している感じだったかな」

 娘はややぎこちない明るさで答える。

「俊之さんね、ちょうど株とかの金融取引で利益を出してて、そのとき聡おじさんがお父さんと電話しているのを立ち聞きしたんだって。それで儲かってたから、ついでに私の分も一儲けしようと勝負に出て―そしたら突然、相場が急落して。それで利益を出すどころか、借金まで背負っちゃったって。それでしかたなく、聡おじさんが借金分を返済したらしいの」

 またペタペタと周囲を触りながら、娘がキッチンに戻っていく。

「確かにギャンブルはギャンブルだけど、パチンコや競馬に比べたらまだマシかな。お金は聡おじさんに少しずつ返すって言ってるし。声の感じも、まあまあ誠実そうな印象だったし。
 もちろん何もかも許す、って気にはまだなれないけど―でも、もういいかな、って」

 娘が今度はパタパタと戸棚を開け始めた。夕食の準備を始めるらしい。少し迷うような間があったあとに、下側の戸が開く音がする。―今夜は丼ものか。

「だってよく考えたら、私は別に何も失ってないもの。最初からなかったものが、やっぱりないとわかっただけ。プラマイゼロよ。ああ―誤解しないでねお父さん。別に自棄になったわけじゃないから。ただ、もうないものねだりは止めようって―」

 娘の台詞が途中で止まる。

「なに? もしかして泣いているの、お父さん?」

「いや……花粉症だ」

 敏郎は洟をすすり上げるのを止めると、テーブルのティッシュ箱を手探りで引き寄せ、ティッシュを目に押し当てた。そしてブーンと力任せに洟をかむ。

「……強くなったな、今日子」

「でしょう?」娘は得意げに答える。「また一つ成長したのよ、私も。さあ、お父さん。暇なら手伝って。サラダの盛りつけとかお願い。私はご飯の支度はできても、彩りまでは気を配れないから。そこは目の見える人の出番でしょう―」

「今日子―」

「うん」

「もう、泣くな」

「うん、うん」

「神様がな、お前を見ているんだ。それでちゃんと、こうして辻褄合わせを―」

 夕暮れどきのリビングに、三十路近くの娘のむせび泣く声が静かに響く。

 親子ともども、まったく予想すらしていなかった援助の手だった。

 娘が前に一緒に遊んだという、草野球チームの子供たち。その彼らが、娘の事情を知ってカンパで手術代を募ってくれたというのだ。

 またほかにも、酒井さんの協力で支援団体も見つかり、諸々を合わせて娘の手術は滞りなく行えるようになった。そのことを敏郎が娘に伝えたのが、つい先刻のことである。

 話を聞き、娘は激しく泣き崩れた。あれから手術のことなど眼中にないように気丈にふるまっていたが、やはり心の奥底では願い続けていたようだ。その産声のような歓喜の号泣に、敏郎の胸にも深い感慨が押し寄せる。―待たせてすまなかったな、今日子。

「そうだ。お父さん」

 娘がハッと、我に返って言った。

「私あの子たちに、何かお礼をしなきゃ」

「ああ、そうだな」

「あと、酒井さんにも。改めてお詫びと、お礼を―」

「ああ」敏郎は微笑む。「だがそれはひとまずあとにしよう。まずはお前自身が手術に集中しないとな。いいか、今日子。安心は早いぞ。これでお前が体調を崩したり事故にあったりしたら、元も子もないんだからな」

 うん―という素直な返事のあとに、再び荒い呼吸でしゃくりあげる音が続く。

 敏郎は庭を向いた。沈丁花に代わり春を告げていた梅も今や表舞台を去り、現在は水仙やバラなど、多様な花々の混じった香りが網戸から漂ってきている。日暮れの訪れとともに強まる虫の音。何十年と聞き続けてきたこの家の静かな暮らしの音に、今、娘の二度目の産声が重なる。

画像6

 その耳慣れない喧騒に耳を澄ましつつ、敏郎は呟いた。

「手術、頑張れよ。今日子」

「うん。うん」

 海外など何年ぶりだろうか。リビングで敏郎が財布やパスポートなどの貴重品を確認していると、チリンとドアの鈴が鳴った。娘だ。静かな足取りで近づいてくる相手に、敏郎はなにげなく声を掛ける。

「いよいよ明日、出発だな。準備はできたか、今日子?」

「……うん」

 娘はどこか浮かない声で答え、ソファにいる敏郎の横に腰を下ろした。

 その反応に敏郎は引っかかった。なんだ? 海外での手術が不安なのか?

「どうした?」

 娘は少しの沈黙のあとに、敏郎の膝に片手を置いた。

「ねえ、お父さん」

「なんだ?」

「私あとで、俊之さんに謝るね」

「俊之君に? なんで?」

「私さっきまで、部屋で貴重品を整理しながら思い出してたの。これまでのことをね。そしたらなんか……いろいろわかっちゃった」

 悟ったような物言いだった。いろいろ……わかった?

「お父さん―」

 娘は敏郎の膝に置く手に力を込めた。

「私に噓、ついたよね?」

 敏郎の表情が固まった。

「俊之さんが、ギャンブルでお金をスッたって話―あれ、噓でしょう?」

 敏郎の心臓がどきりと跳ねた。両の眉が上がり、ごくんと生唾で喉ぼとけが下がる。

「……なんで、そう思うんだ?」

 辛うじて、声だけ平静に保った。

「だって俊之さん、ボイスメールで言ってたもの。お父さんたちの会話を『立ち聞き』したって」

 娘はクイズの出題でも解くように答える。

「でもお父さん、前に私にこうも言ったよね。聡おじさんは『緊張しい』で、電話口ではただ『ああ』とか『うん』とか、相槌を打つばかりだったって。それで私、あっと思ったの。それじゃあ俊之さん、立ち聞きしても、話の内容がわからないんじゃあ、って―」

 そこで娘はやや声を硬くし、改めて敏郎に問いただす。

「どうなの、お父さん」

 少しの間、敏郎は返事に迷った。

「……ああ」

 諦め、認めた。

「その通りだ。俺が俊之君に頼んで、話を合わせてもらった。だがな、今日子。その、理由なんだが……」

「待って。その先も私に言わせて」

 娘が敏郎の弁明を遮る。

「言ったでしょう。私はこういう推理が得意だって。それでね、私考えてみたの。どうしてお父さんはそんな噓をついたんだろうって。だって普通に考えて、そんな噓は必要ないじゃない。盗まれたにしろ失くしたにしろ、私がショックを受けることには変わりないんだから。仮に失くしたのがお父さんのせいだったとして、まさか私に怒られるのが怖くて、俊之さんに身代わりになってもらったわけでもあるまいしね。
 だからね、私……逆に考えてみたの」

「逆?」

「うん。つまりね。お金がなくなったから、手術を受けられなくなったんじゃなくて―」

 娘は敏郎の両手を取り、その左右を交差させるように入れ替える。

「私に手術を受けさせたくないから、お父さんはわざと『お金がなくなった』って噓をついた」

 敏郎は娘に手錠のように両手首を取られたまま、押し黙った。

「私はそっちが本命だと思うのよ。じゃないとお父さんが、わざわざ他人に罪を被せるなんて真似はしないと思うから。 でも―じゃあ、その理由って何? なんでお父さんは私に手術を諦めさせようとした?
 もしその理由ができたとしたら、それは絶対に私の手術が決まったあとだよね。だって手術の話を持ちかけたのは、お父さんのほうからだったんだから。だからもしお父さんが心変わりしたとすれば、手術が決定したあとのこと。それで私、そのあとお父さんとどんな会話をしたか、一つ一つ思い出してみたんだ。そこで思い当たった―」

 娘が敏郎の両手を解放し、代わりに今度は敏郎の顔に手をやる。

「エンハンスメント―だね?」

 敏郎の両瞼を親指で押さえ、からかうように言った。

「お父さんは最初、人工視覚というのは普通に目が見えるようになるくらいとしか考えていなかった。だから積極的に協力してくれた。でも手術が決まって、私の口から人工視覚が実際どのようなものであるかを聞いて……それだといろいろ、今後不都合が生じることに気付いたんだよ」

 娘の手が顔から離れた。ギシ、とソファが軋みを立て、娘がペタペタとテーブルを触る音を立てつつ庭のほうへ向かう。

「でね。ここからは、まったく私の想像なんだけど。それで私、考えてみたの。私が人工視覚になって、お父さんが困ることってなんだろうって。人工視覚で強化される点といえば、まずは見える光の波長の範囲。つまり紫外線や赤外線。でもそれが見えたからといって……って最初は思ったんだけど、少し考えてから気が付いた。そういえば私、お父さんに言ったよね。あの話の中で―」

 カチャリ、とガラス戸の錠を回す音がした。

「紫外線は、犯罪捜査にも使われるって―」

 ガラリとガラス戸が、続いてガタガタと網戸が開けられる。今日は涼しかったため一日中ガラス戸を閉め切っていたが、それで空気のこもっていたリビングに新鮮な夜気が入り込んだ。庭から流れる夜の匂いを嗅ぎとりながら、敏郎はぐっと膝の拳を固く握る。

「人が隠したくなることと言えば、やっぱり犯罪でしょう。私、お父さんに話したよね。紫外線は血痕の検出や、偽札や偽造パスポートの発見にも使われるって。
 でもね。さすがに血痕ってことはないと思うのよ。もしこの家でそんな事件があったら、血痕以前に私は匂いや物音で勘づいたと思うから。ほら……私ってそういう感覚は、すでに人並み以上に敏感じゃない。
 じゃあ偽札? でも偽札作りしてるなら、そもそもお金になんて困らないし……」

 ザザッと、コンクリートの上を固い物が滑る音がした。つっかけを足で探し、蹴とばしたのだろう。少し間を置き、庭のほうからパタ、パタと軒下の犬走りをゆっくり歩く音が聞こえる。

「でね。気付いた。ああ。そういえばお母さんの遺品に、パスポートがあったなあって―」

パスポート表紙

 その声を、敏郎はひどく遠くに聞いた。

「だから、もし関係があるなら、それかなって。つまり、お母さんのパスポートは、偽物だった。この私の推理は正しいかな、お父さん?」

 声が途切れた。敏郎は一瞬口を開きかけるが、すぐに力なく閉じて黙秘を続ける。

「……否定しないってことは、正解ってことでいいね。ってことは―ねえ、お父さん。私のお母さんって、偽造パスポートで密入国した不法滞在者だったのかな? それとも、他人に身元を隠さなきゃいけない逃亡中の犯罪者?」

 普段は陰りのない娘の声が、珍しく毒気を帯びる。

「まあ、どっちでもいいよ。とにかくあまり大っぴらには言えない素性の人。そうだったんでしょう?
 そのことをお父さんは、私に知られたくなかった。でも一つ不思議なのは、それならなぜ、お父さんはパスポートを処分せずに手元に残したか、っていうこと。そんな犯罪の証拠品、お母さんが亡くなった時点でもう必要ないんだから、早く捨てちゃえばいいのに。
 それで私、もう一押し考えてみたんだ―」

「……何をだ?」

 つい、聞き返してしまった。今度は娘が沈黙する。ややあって、答えが返った。

「ねえ、お父さん……私の知っているお母さんは、実は本物のお母さんじゃなかった?」

 敏郎は瞼を見開いた。

「私を産んだ母親と、育ての母親が違った? そう考えると、いろいろと辻褄が合うのよ。
 私ね、こんなストーリーを想像してみたの。まず、お父さんと最初のお母さんが出会って、私を産む。でも最初のお母さんは目の見えない私に失望して、私たち家族を捨てて失踪してしまう。失意のうちにあったお父さんは、私の子育てに苦労する中で、不法滞在中か何かで身寄りのない女性と知り合う。そしてお互い相手の境遇に同情するうちに、自然と親しくなり―」

「…………」

「それで人の好いお父さんは、その女性の面倒を見ることにする。そして彼女の身分証代わりに、最初のお母さんのパスポートはその女性の情報に書き換えられる。もちろん写真も貼り替えてね。
 だからパスポートを捨てられなかった理由は、それがもともと本物のお母さんのものだったから。お父さんはまだ最初のお母さんのことが好きだったから、思い出の品を手放せなかったんだね。そしてその事実を私に隠そうとしたのは、私が傷つくことを恐れたから―だってもしそうなら、私は私を産んでくれた実の母親に捨てられたことになるもの。私がこんなふうに生まれちゃったせいで。お父さんはその事実まで私に知られて、私を二重に傷つけたくなかった。目が見えて不幸な事実を知るよりは、見えずに知らないままのほうがいい―そう、判断したのよ」

「今日子。俺は……」

 口を挟もうとする敏郎を制するように、娘は矢継ぎ早に言葉を続ける。

「お母さん、途中から化粧するようになった、って言ったでしょう。あれは化粧の仕方が変わったんじゃなくて、まさに人自体が変わっていたからなんだね。
 声が変わった感じがしたのもそう。お母さんの若いころの写真がないのはデータが壊れたからじゃなくて、それが別人のものだから。聡おじさんは二番目のお母さんの弟なのかな。だからその身元を引き受けてくれたお父さんに恩を感じていて、手術のお金も用立ててくれたし、息子ともども今回のお父さんの噓に協力してくれた―きっとお父さんは噓が下手で、自分一人じゃ私を騙し通せるか不安だったんだね。
 でもね。じゃあなんで最近になって、お父さんがまた私に手術を受けさせる気になったかというと―」

 春宵の庭を舞台に、娘の独演会は続く。

「私が思うに、理由は二つ。一つはカンパ。予想外にも草野球の子供たちがカンパしてくれたせいで、私にごまかしきれなくなったから。そしてもう一つは―私の、成長」

 また無自覚に敏郎の口が動いた。

「お前の……成長?」

「うん。私、これまでいろいろあったけど、結局最後は立ち直ったでしょう。それでお父さんは安心したんだよ。もし私が本当のことを知っても、もう大丈夫だって。今の私なら受け入れられるって。それでお父さんはまた考えを変えて、手術の話を再開した―それが、今回の顚末の真相」

 娘が話の幕を下ろす。声が途絶えると、その沈黙の奥から虫の音がまるで潮騒のようにジジジと湧き上がった。

 庭の軒下にある、娘が植えたプランターのラベンダーの香り……野草の青臭い匂い……体に馴染んだソファに深く沈み込む敏郎を、長年慣れ親しんだ我が家の変わらない静寂が慰撫するように包み込む。

「どう、お父さん?」

 やや間を置き、敏郎は答えた。

「ああ」

「ああって何。正解? 不正解?」

「正解だ」

「でしょう?」

「よく……わかったな」

「ふふ」

 娘は喉で転がすように笑い、またガタガタと網戸を閉めて部屋に戻る。

 敏郎は背もたれから身を起こした。前屈みになり、指で鼻梁を挟むように強くこする。

「今日子。昔からお前はよく勘の働く、想像力の豊かな子だったよ。だが……これだけは覚えておいてくれ。目が見えるようになったからといって、決してそれだけで薔薇色の未来が待っているわけじゃない。中には見えないほうがよかったと、後悔することもあるかもしれない……」

「うん。大丈夫だよ、お父さん。覚悟はできているから」

「本当か」

「うん。たとえ何があっても、私は受け入れられる。私に母親が二人いるという事実も」

「そうか。それを聞いて安心だ。俺は親のエゴで、お前に手術を受けさせているんじゃないかという心配が少しあってな……」

 敏郎は貴重品袋を手に立ち上がった。庭に背を向け、仏壇のある寝間に向かう。

「詳しい話は、お前の手術が終わってからにしよう……さあ、今日子。謎解きの時間は終わりだ。これからは余計なことは考えず、手術に集中するんだ」

「うん。でも、話してよかった。おかげでなんかいろいろすっきりした。今夜はよく眠れそう」

「そいつはよかった。それじゃあな、おやすみ……今日子」

「おやすみ。そしてありがとう、お父さん」

 敏郎は片手を上げ、隣の和室に入る。すぐにちりんと、娘がリビングを出ていくドアの鈴の音が聞こえた。敏郎は線香の匂いが漂う仏壇に向かい、一人静かに手を合わせる。

「ああ、やだ……ドキドキする」

「もう視覚のテストは済んだんだろう」

「うん。でもあれは、まだ手術室の中だったし。それに手術直後で頭も朦朧としてたから、どんなだったかあまり覚えてないの。だから実質、次に見えるこの病室が、私がこの世界で初めて見る景色」

 ベッドの上の娘が、興奮を抑えきれない口調で言う。

 手術後の、病院の個室の中だった。アメリカに渡り、慣れない数日間の病院生活のあとに始まった娘の手術は、無事成功した。今は術後の休養のために個室に戻り、親子水入らずの時間を与えられたところである。

 敏郎は複雑な思いで手の中のスイッチを握りしめた。そのスイッチは車のキーくらいの大きさで、中のボタンを押すと娘が掛けた眼鏡のカメラがオンになり、そのカメラが娘の目に埋め込まれた人工網膜に情報を送って、脳に映像を結ぶ―という仕組みらしい。ボタン一つで娘の視界がオンオフされるという点に、どうにも機械じみたものを感じてしまう。

 しかし敏郎は頭を振ってその違和感を振り払った。そんなものは慣れだ。
 敏郎はスイッチを掲げ、娘に言う。

「よし。じゃあ今日子、スイッチを入れるぞ」

「ああ、待ってよ。お父さん」途端に非難の声が上がった。「もう少しもったいぶってよ。部屋の電気を点けるんじゃないんだから……。心の準備をさせて」

「早くしてくれ。俺もな、早く確認して安心したいんだよ。お前が本当に見えるようになったかどうか」

 敏郎は焦れた。親のほうが落ち着かないのがおかしいのか、娘がクスクスと笑う。

「大丈夫だよ、お父さん。手術は成功したんだから……。うん、よし。じゃあお父さん、カウントダウン、行くよ。三、二、一―」

 ゼロ、のタイミングよりややフライング気味に、敏郎はボタンを押した。
 その瞬間、はっと娘が息を吞む音が聞こえる。敏郎も固唾を吞んで娘の反応を待つ。

「……どうだ、今日子?」

「―」

「今日子?」

「すごい」感嘆の声が漏れた。「すごい。すごい。なんて明るいの。それにいろんな色であふれている。あれが窓だよね、まぶしい。上にも光が見える……ああ、あれが電灯か。まわりにあるのは……壁。壁だね。近いのかな。遠いのかな……」

 まだ距離感が摑めないのだろう。喜びに躍る声音の中に、かすかに怯えの色が混じる。目が見えるようになっても、距離感や形、個々の物体の認識ができるようになるまでにはやや時間がかかると医者には説明されていた。娘がその新たに享受した感覚をものにするのは、もう少しあとのことに違いない。

 それでも娘は、その状況を心から楽しんでいるようだった。まるで生まれたての赤子がそうするように、周囲の物をペタペタと触り、コンコンと軽く叩き、スリスリと表面をさすって撫で回す。

「枕だ。こんなふうに凹むんだ……。これが、シーツの色? 病室のシーツは白だよね。白ってこんなに白いんだ。この枕元にあるのが花瓶。これが花。ああ、色がいっぱい……お父さん、この花の色は何?」

「その花の色か」

 敏郎は娘の問いを復唱し、ゆっくりと顔を上げる。

 そして答えた。


「すまない。俺にはわからん」


「え? わからないって―」

 冗談だと思ったのだろう。娘が小さく笑い声を立てた。そして手を伸ばして敏郎の腕に触れる。

 その手が確かめるように、敏郎の腕、肩、首、頰とゆっくり這い上った。やがて二つの手のひらが、敏郎の顔をそっと丁寧に挟み込む。にらめっこのような間がしばし続く。

 だが、生来の勘の鋭さが違和感に気付かせたのだろう。少し遅れて、娘が再度驚きに息を吞む音が聞こえた。

 娘の震える指が、敏郎の両の瞼をまさぐった。

「噓。ああ……そんな……」

 敏郎は静かに言った。

「黙っていて、すまない」

「ごめんなさい……ごめん……」

「子供のころのお前を、不安にさせたくなくてな」

「ごめん……まさか私、私……」

「大人になったら言おうと思ったが、その機会を逃してそのままずるずると……。まあ二人だけの暮らしで、ことさら悪いニュースを増やす必要もなかったしな」

「私……まさか……お父さんまで……」

 娘の声が上ずる。


「目が……」


 敏郎は娘の手を取り、そっと相手の胸元あたりに押し戻した。

「今日子。悪いがお前の推理は的外れだ。確かに俊之君には罪を被ってもらったが、その理由はお前が考えるほど複雑じゃない。単純に俺が金を騙し取られたんだ。俺の目が見えないことをいいことに、税理士を装った詐欺師に手玉に取られてな―」

 娘が過呼吸のように嗚咽を上げ始める。敏郎はシーツをたどって娘の体を見つけ、その背を撫でた。

「だがそれを正直に話すと、俺の目のことがお前にバレてしまうだろう。するとお前の性格だ、絶対にこっちに先に手術を受けろと言い出すに決まっている。俺はまだお前に手術を受けさせる気でいたから、どうしてもこの目のことは隠しておきたくてな。それで勘の鋭いお前を騙すために、俊之君らに協力してもらったというわけだ。
 しかしお前もずいぶん想像の羽を広げたね。まさかあいつが、犯罪者の偽者にされてしまうとは……。安心しろ。お前の記憶にある母親はお前の実の母親だし、俺の妻はあとにも先にもあいつしかいない」

 娘が堰を切ったように泣き出す。敏郎は変わらずその背を撫で続ける。

「あいつが化粧をしっかりし始めたのは、たぶん俺の視力がほぼなくなったからだな。化粧の匂いで俺が居場所に気付くようにと、あいつなりに気を遣ったんだろう。声が優しくなったのは俺たち二人の身を案じてだ。まあ結局そういうあいつが、一番体が弱かったんだが……。
 ただ一つ、お前に手術を受けさせるかどうか、悩んだのは事実だ。この通り俺は健常者の世界を知らないからな。はたして目が見えるようになって、お前が本当に幸せになれるかどうか。俺にはそれが何とも言えなかった。
 だからな、今日子―これは結局、親のエゴなんだ。お前を勝手に産み、勝手に治したいと思う親のな。だがお前なら、この先どんな困難があろうと乗り越えられると信じているよ。お前の『成長』など待つまでもなく、俺は最初からお前の強さを信じている。
 そんなわけだから、今日子。お前がこの手術のことで俺を恨みこそすれ、後ろめたく思うことは何一つない。さあ。もう泣くな。せっかく作った目が、またすぐ手入れが必要になるぞ……」

 ゴツン、と固いものが敏郎の顎に当たった。敏郎はそれに優しく手を置く。張りのあるしなやかな髪……肌の温み……その匂いに、敏郎は昔の妻を懐かしく思い出した。娘ははたして母親似だろうか。

 自分は幸せ者だ、と敏郎は思う。なぜなら親としての願いを果たせたのだから。妻も弱視者で、弱視者同士の結婚は周囲からはあまりいい顔をされなかった。生まれた娘が自分たちより目が見えないと判明したとき、妻はどれだけ自分を責めたことか。

 だから敏郎が今一番この成功を報告したい相手は妻だった。人類のこの長い歴史の中で、過去どれだけの親が自分たちと同じような境遇に陥り、我が子の不遇を嘆いただろう。どれだけの親がその子の行く末を思って胸を痛め、謝罪しただろう。その親たちの痛惜の念が見えない力となって社会を動かし、ついに人類をここまでたどり着かせた―そんな気さえした。今、娘が人工の目を手に入れたこの瞬間に、その親たちの快哉を叫ぶ声が聞こえたような気がしてならなかった。

 妻も―喜んでいるだろうか。

 敏郎は繰り返し娘の髪を撫でつつ、満たされた思いで言った。

「なあ、今日子……確かにお前の言う通り、人間はすごいな。こんなことまでできるようにしてしまうのだから。まあもちろん、これですべてが解決したわけではないが……これからもお前の苦労と努力は続くと思うが……だがとにかく、これがお前の人生に間に合ってよかった……間に合ってよかった……」

(了)

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