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駆け落ち、逃亡、雲隠れ―。彩瀬まるの連作短編集『さいはての家』。短編ひとつ丸ごと特別公開!(後編)

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彩瀬まる『さいはての家』(集英社)
定価 本体1500円+税 四六判ソフトカバー
ISBN 978-4-08-771691-7 
装丁 鈴木久美 装画 宮原葉月


「ゆすらうめ」(後編)


 待ち合わせたファミレスで、顕子は厳しい両親に反発して育った退屈な学生時代を語り、続けて訪れた彼女の部屋では、右乳首の横の大きなほくろが二十一年の人生でいかにコンプレックスだったかをまるで世界の終わりみたいな顔で語った。人に見せるのは初めてだというそのつまらないほくろを舐めながら、俺は今後この女から引き出せる金額について考えていた。マルチも風俗も芸能詐欺も使えないとなると、だいたい天井が見えている。不便だなと思い、続けて、あんなに向いていないと思っていた業界を一瞬でも惜しんだ自分が信じられなくなる。

 でも、俺には昔からそういうところがあった。いつだって今いる場所から逃げたくなる。逃げた先はだいたい逃げる前より状況が悪い。そうわかっているのに、ふっと気がゆるんだ瞬間に逃げてしまう。逃げてから後悔して戻りたくなる。堂々巡りで、だから、清吾を刺そうと思ったあの駅前でどこにも行きたくなくなったのは、当たり前と言えば当たり前のことだった。

 どこにも行きたくないのではなく、どこにも行けないのか。きつい原色の、長く見ていると目がチカチカしてくる花柄のカーテンを眺めて思う。狭い、一人暮らしの、いいカモになる女の部屋。こんな部屋に何度も来た気がする。何度も出て行って、そして何度も戻ってくる。美しい顔と体で男にたかって生きていた俺の母親も、同じどん詰まりにいたのかもしれない。

 親から離れたいと思っていること、田舎町の暮らしにうんざりしていることを踏まえ、近々都内にカフェをオープンする予定で資金を集めてるんだ、顕子ちゃんも一口乗らない? しっかりしてるしフロアマネージャーになってよ、などと泡みたいな話を持ちかける。顕子はきゅっと唇を嚙んで、毎月給料から貯金用に分けているのだという四万円を差し出した。

 日付が変わる頃に帰宅すると、清吾は仕事着のまま、青ざめた顔で玄関までやってきた。

「ただいま」
「どこ行ってたんだよ」
「ん、ちょっと」
「誰かに捕まったのかと思って超びびったし。ちゃんと連絡しろよ! あともう少しで警察に駆け込むところだった」
「だからって二十回も電話すんな。着信見て引いたわ」
「心配してたんだよ!」

 新しいな、と唐突に思う。この家と清吾は、今までの暮らしにはなかった新しい要素だ。だから勝手がよくわからない。

「今日から俺、東京でいくつか飲食店を回してる資金集め中のプロデューサーだから」
「なんだそれ」
「聞いて驚け。超カモに会った」

 居間のローテーブルには、清吾が用意したのだろうラップのかかった焼きうどんが置かれていた。ビール片手にそれをつつきながら、鈴波顕子との出会いからあっさりと信頼を築いて金を巻き上げるまでの道筋を笑いを交えて語る。いかに少ない労力で金を稼いだかは酒の席で一番盛り上がる武勇伝だ。それなのに話が終わる頃には、清吾の顔が出迎えたときよりもさらに青くなっていた。

「……俺は、今お前がしゃべったことが一から十までさっぱりわかんないんだけど……え、なんで? 鈴波さんって母さんについてるあの若いスタッフさんだろ。え、つかもっちゃんあの子のこと好きなの?」
「んなわけあるか。好きで選ぶならもっと美人選ぶわ」
「金に困ってんの?」
「困ってはいないけど、あるに越したことはないだろ」
「……好きでもないし金に困ってもいないのに、ナンパして、寝て、噓の話で金を巻き上げて帰ってきたの? なんで?」
「はあ?」

 なんでと聞かれても、カモだったからとしか言い様がない。むしろこいつはなにを言ってるんだと信じられずに睨み返す。清吾はぎゅっと顔をしかめ、言葉を選びながらつっかえつっかえ切り出した。

「そんなことしてたら、誰にも信用されなくなる」
「は? なに言ってんだ。こんな都合のいい話にあっさり騙される方が悪いんだろ。勉強料だ、勉強料。予防接種みたいなもんだ」

 決まり文句がすらりと口をつく。清吾はひるみ、しかし奥歯を嚙んで食い下がった。

「ひ、人を、傷つけて……噓とか、将来的に傷つけるのがわかってる手段で金を稼ぐのは、だめだ」
「だめか。へえ」

 ネズミ講のパンフレット、粉状の睡眠薬、金を持っている高齢者の名簿。思い返せば、様々な犯罪の痕跡が転がっていた団地の部屋を思い出す。「新しいお父さん」がいないとき母親がなにをして食いつないでいたか、もうなんとなくわかっている。

「俺はたぶんそういう金で育ったんだけど、じゃあ、俺は初めからだめか。人様に迷惑かける社会のクズで、ゴキブリか。さっすが、体壊すまで家族を守ろうとした天使みたいな看護師さんの息子は言うことが違うわ」

 落ち込んで引くか、食ってかかるか。どちらにせよこんな茶番はおしまいだ。にやつきながら待っていると、清吾は目を見開いたままぴくりとも動かなくなった。動かないのに、顔の強ばりからなぜだか見えた。こいつの中の、よく日の当たった海みたいなものがざあっと迫り上がり、それがあふれるのをこらえているような、揺らぎが。

「……ほんとうざいわ。なんなんだよ。なんか言えよ、喧嘩になんないだろ」
「……悪い」

 妙にそろったタイミングでため息をつき、天井を見上げる。長い沈黙だった。天井の木目をつなげて顔を作り、そういや最近は幽霊の存在を感じないな、と関係ないことを思っていたら、清吾はぽつりぽつりと独り言みたいに切り出した。

「昔、そうだったのなら、なおさらそこから出ようよ……つかもっちゃんが、なんにも怖がんないで暮らせる方がいいよ。そりゃ、手段を選ばないより稼ぐペースは落ちるだろうけどさあ。今のやり方は、この先の未来を削って金に換えてるようなもんだ。だめだよ」
「この先なんか……」

 ねえよ、といつかと同じセリフを言ってやろうとして喉で詰まる。代わりにもう一度長く息を吐いて、畳に仰向けに寝転んだ。

 いいもの、と言われてまず初めに思い浮かぶのが、あの授業参観の景色だ。息子の手を支えてゆっくりと筆を動かす、地味な服を着た地味な女。金色のリボンを付けて教室に貼り出された、バランスの取れた「希望」の二文字。あの字はきっと、触ったら冷たい。うっすらと星のように光っている。

 久しぶりに見た清吾の字は、相変わらず背筋が伸びていて美しかった。差し出された一時帰宅の同意書にサインを終え、清吾はテーブルの向かいに座った鈴波顕子に渡す。

「じゃあこれで」
「はい、ありがとうございます。それでは明日の朝八時まで、ご家族水入らずでお過ごし下さい」

 顕子はにこやかに言って、清吾の背後に立つ俺にちらりと目を向けた。俺は目線を合わさない。初めて会ったときのように顕子の目は手元に落ち、そしてゆっくりと隣に座る老婆に向けられた。

 老婆、というのがちょうどいい感じだった。小柄でふわっとした優しそうなおばさんだったのに、清吾の母親はすっかり老け込んで、皮膚はたるんで髪は灰色になり、なによりでっぷりと太っていた。とはいえ、清吾もだいぶ腹が前に出てきているので、太るのは単に遺伝なのかもしれない。

「それじゃあ文恵さーん、また明日ねえ」

 耳元で大きく呼びかけられても、文恵さんの目はぼんやりとテーブルの真ん中辺りを漂っている。膝の横には杖が置かれている。外では車椅子だけど、家の中なら杖をついてゆっくりと動ける。ただ、本当にゆっくりと、膝をぶるぶる震わせて、にじるような速度で。

 俺の希望、だった人は、夢を失い、体の自由も失って、こんなガマガエルみたいなくたびれた婆さんになってしまった。すごく不思議だ。単純に、不思議だ。この世はなんでこんなことばかり起こるのだろう。

 顕子が出て行ってしばらくの間、三人でなにもせずに座っていた。文恵さんは動かないし、しゃべらない。清吾は下唇を突き出した妙な顔で庭の景色を眺めている。俺は壁に背を付けて、ぼんやりと天井の角の辺りを見つめた。

「お、俺、昼飯作ってくる」

 ぎこちなく言って、清吾はなぜか俺にテレビのリモコンを渡して台所に向かった。わけがわからない。点けろということか。

 昼のニュース、ワイドショー、町歩き番組とチャンネルを変え「どれがいいですか」と文恵さんに聞いてみる。文恵さんの目はテレビの画面を見ていた。返事はない。とりあえず適当な町歩き番組にして、リモコンを置く。

「この家には盗聴器が仕掛けられてるんだよ」

 一瞬、テレビの中のタレントがしゃべったのかと思った。

「え?」
「実は前に住んでいたのが薬の売人でね。公安が張り付いていたの」
「げっ、マジですか!」

 文恵さんは画面を見たまま淡々と口を動かしている。急いで立ち上がり、清吾がつかっている和室の雑貨を入れたカラーボックスから工具のセットとラジオを取り出した。とりあえず電源タップや延長コードなどお決まりの場所を確認し、続いてラジオの電源をいれてテレビの音声が混じらないかチェックしていく。

「とりあえず……まあ、簡単なチェックですけど、大丈夫そうですね」
「そう」
 あっさりと頷き、文恵さんはまたテレビを眺める。
「きっと隣の人が回収したんだよ。あの人もスパイだから」
「この辺りってそんなにやばい地域だったんですか」
「やばいよ。ニコニコひまわりホームだってやばいんだ。食事に毒を盛ってる」
「え、マジで」
「施設の入居費用目当てさ。あいつらにとっては、老いぼれはずるずる生きられるより適度に死んでもらった方がありがたいんだ」
「すげえ。斬新な商売だなあ」

 感心して聞いていると、廊下から清吾に手招きされた。ひそめた声で話しかけられる。

「なにまともに受け取ってんだよ!」
「はあ?」
「噓だよ、噓。症状の一つなんだ」
「症状? 滅茶苦茶はきはきしゃべってるのに?」
「そういうもんなんだよ。だから大変なんだ……。ずっと聞いてるとノイローゼになる」

 顔をしかめ、清吾は肩を落とした。

「あんなひどいこと絶対に言わない人だったのに、残酷な病気だよなあ」
「よくわかんないんだけど、噓しか言わないって思っていいのか?」
「いや、まだらボケっていう……こう、病気のせいで噓を言っちゃってるときと、正気なときと、両方ある」
「ふーん……じゃあ、適当に合わせておくわ」
「助かる」

 頷き、清吾は出来たばかりの焼きそばをローテーブルへ並べていく。文恵さんはまた置物のようにしゃべらなくなり、清吾が吹き冷ました麵をぎこちなくフォークに引っかけ、ぼろぼろと零しながら食べ始めた。

 それから、手を引いてトイレに連れて行ったり、車椅子を押して周囲の散歩に出たり、抱き上げて風呂に入れたりと清吾はこまめに文恵さんの世話を続けた。夕飯のあと、便器での排便が間に合わずにトイレの床が汚れるトラブルがあったものの、いつのまにか用意してあった漂白剤で消毒し、手際よく処理していた。

 夜九時を過ぎて、眠たげに目をこすり始めた文恵さんを、清吾は布団を二つ並べた奥の和室に連れて行く。

 閉じた襖の向こうから、仕事に行かなきゃいけない、息子を迎えに寄越して、と状況に合わない声が響いてくる。しばらく押し問答をしたあと、渋い顔をした清吾はパジャマ姿の文恵さんにカーディガンを着せて家の外に連れ出した。十分ほど散歩をして、帰ってくると今度はいくらかスムーズに布団に入ってくれたらしい。文恵さんの声が消え、代わりにいびき混じりの寝息が響いてきた。

 そっと襖を開き、清吾が豆電球のついた薄暗い部屋から抜け出してくる。

「たいしたもんだな」

 冷蔵庫から持ってきたビールを渡す。清吾は鈍く笑って首を振った。

「ぜんぜん。俺なんか一応おふくろを抱きかかえられるし、楽なもんだよ。中には体格のいい親父をめちゃくちゃ手こずりながら介護してる娘さんとか、いるからなあ」
「親が残るのも考えもんだ」
「ああ、んー、どうだろう」
「ん?」

 清吾はビールのタブを起こしながら腰を下ろした。幸せそうに頰を緩め、菓子鉢に入っていた柿の種の袋を開ける。

「つかもっちゃんちもそうだと思うけど、うちは母親が仕事ばかりで全然家にいなかったから。割とさみしかったんだよな」
「ああ、じゃあ、今おふくろさんにくっついて世話するのは楽しいのか」
「いや、そうじゃなくてー……」

 前歯で小さな米菓をかじり、清吾は短く言葉を探す。

「世話とか、そばにいるとか、自分が昔して欲しかったことを誰かにすると、昔の俺がしてもらったような気になって楽になるんだ。たぶんなんかの錯覚なんだろうけど」
「なんだそりゃ」
「つっても、どんどん変わってくおふくろと一人で向き合うのはしんどいから。つかもっちゃんに居てもらえてよかったよ。おふくろも、話を聞いてくれる人がいて喜んでたし」
「あれで喜んでたのか?」
「喜んでたよ。そうじゃなかったらもっと機関銃みたいにしゃべり続けてた。つかもっちゃんがちゃんと真に受けて行動してくれたから、気が済んだんだろうな」
「そういうもんか」

 下の世話をやる気にはならないけど、話し相手ぐらいならなってやってもいい。どうせ、なにもやることはないのだ。

 夜中、なんどか襖の向こう側で文恵さんがむずかる声が聞こえた。シミズさん、そう、梨屋のシミズさんが亡くなってね、あんたもたくさん梨を頂いたでしょう。これからお葬式だから支度しなさい。寝ぼけた清吾の声がそれをいなす。二人が起きるたび、こちらもつられてまぶたを開き、青暗い天井を見上げた。

 ふと、人の気配を感じて目を動かす。ぼんやりとした影のようなものがローテーブルの近くに座っていた。

 一瞬、体に力が入る。とうとう出た、やるのか、来いよ、ぶちのめしてやる。恐怖の裏返しでもある凶暴な衝動が駆け巡り、だけどその影がこちらではなく、カーテンの隙間から差し込む月明かりを眺めていることに気づいた途端、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。

 死んだんだよな、でもたぶんよくわかってなくて、まだああしてぼけっと座ってる。あんなのわざわざ相手にしなくてもいい。不穏なこと、今とは違う時間軸のことを口走る文恵さんは、ぜんぜん楽しそうではなかった。むしろ自分が理解できない周囲の流れに困惑しているようだった。この幽霊も同じだろう。布団を引き上げ、寝返りを打つ。

 翌朝、早起きな文恵さんに合わせていつもより二時間早く朝食をとることになった。食事を終えて一段落すると、清吾は目元を押さえて首を振った。

「……すっげー眠い」
「寝てろよ。今日も仕事だろ、運転危ねえよ。文恵さんは見てるから」
「悪い、七時半に起こして。母さん、なんかあったらつかもっちゃんに言ってな」

 ひらひらと手を振り、清吾は奥の和室の襖を閉めた。文恵さんは相変わらず、なにを考えているのかわかりにくい静かな顔でテレビを眺めている。
 皿でも片付けるか、と腰を浮かせたところで「ねえ」と文恵さんが切り出した。

「今、何時かしら」
「ん……六時半です」
「あなたはこんな早くに、うちでなにをしてるの?」
「なにって……」
 飯食ってたけど、と言いかけて、たぶんそういうことを聞かれたわけではないのだろう、と気づく。
「清吾と一緒に住んでるんです。……塚本と言います」
「つかもと」

 そのとき、不思議なことが起こった。花が咲くように、色がにじみ出すように、無表情だった文恵さんの顔に穏やかな微笑みが浮かんだ。

「同じクラスの匠くんね。いつも清吾と遊んでくれてありがとう。清吾がね、お礼を言いたがっていたわ」
「え?」
「清吾が他の子に意地悪をされそうなとき、隠れ場所を教えてくれたんでしょう?」
「はあ?」

 覚えていない、というか、そんなことあっただろうか。

 子どもの頃、気が優しくて少しとろくさい清吾はよくいじめの対象になっていた。そして昔から血の気が多かった自分は、どちらかというと清吾をいじめる側のグループに属していたはずだ。

「人違いじゃないですか」
「確か匠くんだったはずよ。えっと……兎小屋の……裏?」
「……あー」

 小学校の、青々とした中庭の景色がよみがえる。

 確か、五年生か六年生かそのくらいの時期だ。放課後に清吾をいじろうという話が出ると、俺は清吾の背中を小突くフリをしながら「兎小屋に寄ってから帰れ」と耳打ちした。三十分ほど時間をつぶせば、他の子どもも清吾を探すのに飽きて、別の遊びに走り出す。

 でもそれは別に清吾を思ってのことではなかった。あまり自分と境遇の近い清吾がいじめられると、ほんのわずかなきっかけで自分までいじめられる可能性が高まるのを感じて嫌だっただけだ。清吾を助けたかったのではなく、清吾という急所をみんなの前から隠したかった。

「馬鹿だなあ、あいつ、そんなことで俺を助けたのか」

 どれだけお人好しなんだ、と感謝するよりも呆れてしまう。それとも、まっとうに育てられた人間はそんな馬鹿っぽい博愛精神を当たり前のように持つものなのだろうか。よくわからない。文恵さんはすでに俺に興味をなくし、庭に目を向けている。カーテンは、ここ最近は日中は開いたままだ。

「きれいねえ、草は伸びてるけど、ずいぶんお花が咲いてる。匠くんが植えたの?」
「まさか。前の人ですよ」
「ふーん」
「そこ、開けましょうか」

 ガラス戸を開け、文恵さんの体を支えて庭の近くに座らせる。爽やかで青くさい匂いがさあっと室内に流れ込んだ。ホームの庭は芝生と桜しかないからさみしくてね、と文恵さんは嬉しそうに荒れた庭を見回した。俺は彼女の様子を見つつ、テーブルに残った食器を台所の流しへ運んだ。

「あら、ゆすらうめ」
「ゆすらうめ?」
「ほら、そこの木に小さな赤い実が生っているでしょう? 甘酸っぱくておいしいのよ。ジャムにしたり、お酒につけたりも出来るし」
「へえ……ちょっと取ってきましょうか。文恵さん、ホームに持って帰ってみんなで食べなよ」
「ええ、悪いわよう」

 名前も、食用なのかもわからなかった植物の正体が判明して、少し楽しくなる。小粒な実が密集して生っているようだし、枝ごと落としてプレゼントした方がいいかもしれない。そんなことを思いながら尻ポケットの折り畳みナイフを取り出す。しばらく使っていなかったので念のため刃を開いてみるも、銀色の刀身に錆びは浮いていなかった。これなら細い枝くらい落とせるだろう。

 背後で襖の開く音がした。清吾が起きたか。そう、なにも考えずに振り返る。

 髪に寝癖をつけた清吾は、啞然とした顔でこちらを見ていた。

「うわあああっ!」

 悲鳴とともに渾身の力で俺を突き飛ばし、畳に倒すとねじ切るようにしてナイフを奪って部屋の隅へと投げ捨てる。

「塚本、この野郎!」

 胸ぐらをつかんで揺さぶられる。間近に迫った清吾の顔は怒りに強ばり、それなのに泣き出す直前みたいに歪んでいた。がくがくと上下する視界の中、俺はやっと、清吾の目に映った景色を理解した。こちらに背を向けて座った文恵さん、ナイフを開いて近づく俺。なんだそれ。馬鹿か。笑いが漏れる。

「なんでだよ! なに笑ってんだちくしょう!」

 お前、こんな声が出せるなら、律儀に教室でいじめられなくたってよかったのに。揺すられる間にそんな関係のないことまで頭に浮かぶ。

 細い細い声が、怒号の間にすべりこんだ。

「匠くんは、私にゆすらうめを取ってくれようとしたんだよう」

 庭の方に体を向けていた文恵さんが、杖が近くになかったせいか、芋虫のように身をよじらせて這いずりながらやってくる。清吾の体から力が抜けた。

「ゆすら……うめ?」
「あんた、なんでこんなことするの……あやまりなさい。早く、あやまりなさい!」

 匍匐前進でこちらに辿り着いた文恵さんは、平手で清吾の体をぶった。繰り返し何度もぺしっ、ぺしっと間抜けな音が立つ。

「ごめんね匠くん。ごめんね、ごめんね! 早く離れなさい! あやまりなさい!」

 ぐらりと清吾の体が傾ぎ、尻もちをつくようにして畳に落ちた。清吾を叩く文恵さんは涙ぐんでいた。庭を振り返る。朝日を浴びたゆすらうめが、赤い宝石みたいに光っていた。

 ストレスのせいか、またわけのわからないことをしゃべり始めた文恵さんをホームに送り、清吾は再び家に帰ってきた。俺を見てうつむき気味に目をそらし、二メートルほど離れた畳に腰を下ろす。

 黙っているので、俺の方から口を開いた。

「……仕事は?」
「休んだ」
「なんで。行けよ」
「行ったらつかもっちゃん、いなくなるだろ」
「はあ?」

 思わず笑う。部屋が静かすぎて、笑い声はやけに酷薄に響いた。

「お前は、俺の、彼女か」
「違うよ」
「知ってるわ。……もういいから、やめようぜこんなくだらねえこと。怖いんだろ。当たり前だよ。揉め事から逃げてきたチンピラなんて怖くない方がどうかしてるよ」
「そういう話じゃないだろ」
「いいこと教えてやろうか。お前、いい勘してる。初めに会ったとき俺はお前を殺す気だった」
「……冗談」
「冗談だと思うか? どっか遠くまで走らせて、ひとけのないところで刺そうと思ってた」
「なんで……」
「さあ? 退屈だったんだ」

 清吾は顔をしかめた。俺を睨み、ぎこちなく口を開く。
「それでも、やんなかっただろ。……それと、俺が間違えたのは、関係ない。無理矢理こじつけてごっちゃにするなよ」
「俺はお前が聞きたくないことを山ほどやってるし、噓だってついてる」
「しつこい」
「隠れ場所の恩だか知らねえけど、そんなくそみたいな理由で付き合ってると馬鹿を見るぜ。かくまえなんて頼んだ俺も馬鹿だったし、俺だって、こんなに長く世話してもらえると思わなかったんだ。もういいよ」
「……隠れ場所?」
「文恵さんに聞いた。お前、小学校の頃にいじめからかばってやったからって、俺のこと助けてたんだろ? 言っとくけど、お前をかばったんじゃないよ。お前があんまり目をつけられると、俺までいじめられそうで面倒だっただけだ。お前のことなんか見捨ててた」
「……なんのことか、全然わかんないんだけど……」

 もぞもぞとつぶやき、清吾は眉間に深くしわを刻んだ。

「見捨ててたとか……そんなこと言ったら、俺だって何回つかもっちゃんのこと見捨てたか、わかんないし」
「はあ?」
「団地で、うちの一個下の階だったろ。つかもっちゃんち」
「……だっけか? たぶん」
「夏とか、ベランダに出るとわかるんだ。他のうちはいろんな話し声がするのに、俺んちとつかもっちゃんちは、いつもテレビの音しかしなかった。でも俺んちは、遅くはなっても、母さんが帰ってくるんだ」

 ふいに、首筋が火であぶられたように熱くなる。なんだろうこれは。なつかしい嫌な感じ。授業参観の日、休み時間にさりげなく職員室の隣の公衆電話の受話器を耳に当て、仕事で来られなかった母親と話しているフリをした、あの感じ。

 ああ、恥ずかしい、だ。恥ずかしい。逃げ場のない羞恥と、遅れてやってくる怒り。

「……だからなんだよ。くだらねえ」
「俺は何回もつかもっちゃんを見捨てた」
「おい」
「一人の間はさみしいからベランダに出て、母さんが帰ってきたら家に入って甘えた」
「気持ち悪いんだよ、お前」

 侮蔑を込めて吐き捨てる。清吾は青ざめた顔のまま、ぴくりとも声を揺らさずに続けた。

「タクシー乗ってると、かわいそうな人なんて山ほど会うんだ。重い病気を宣告された人、腹の赤ん坊がだめになったお母さん。娘が殺されて、これから遺体を確認に行くっておっさんもいた。ずっと、ぶっ壊れたみたいに震えてた。みんなすげえかわいそうでさ、辛いことしか待ってない目的地じゃなくて、どっか違うところに連れてってやりたいって毎回思うの」
「……それで、感化されて人助けごっこか。いい趣味だな」
「でも、そのたびに、俺が誰より助けなきゃいけないのはつかもっちゃんだって思った。人がいろんなもんを賭けて本気で関われる人間なんて、人生で一人か二人ぐらいだろ。あの場所でいちばん気持ちがわかるのは俺だったのに、その俺が見捨てたら、この世の誰がつかもっちゃんを助けるの。……ずっと覚えてたし、ずっと苦しかった。だから、つかもっちゃんが乗り込んできたとき、神様がチャンスをくれたんだって思った」
「あのな……お前は、俺にどうしろってんだ」

 問いかけに、清吾はゆるりと天井を見上げた。長く考え込み、口を開く。

「……別になんもしなくていいから、家族みたいな感じになろうよ。で、お互いに困ったら連絡して、なんとかすんの。昔の映画であるじゃん。義兄弟とか、盃とか、そういうの。ベランダの戸を閉めるときにいつも思ってたんだ。俺とお前が兄弟だったら、こんな風に苦しくなんないで済んだのにって」
「なんだそれ……」

 お前の方がやくざじゃないか、とくだらなさに思わず笑った。

 赤い赤いゆすらうめを一つずつもいでざるに溜める。水にさらして汚れを落とし、砂糖と一緒にしばらく煮込む。再びざるにとって、へらで潰しながら種をこす。

 ネットのレシピの見よう見まねで作ったジャムを炭酸水に混ぜて出すと、文恵さんは嬉しそうに目を細め、子どものように一息に飲み干した。ん、と無言でコップを寄越し、おかわりを要求される。今回の一時帰宅では、昼間からずっとしゃべらない状態が続いている。

「二杯目飲ませて大丈夫か?」
「んー、母さんちょっと腹弱いんだ。あんまり飲み過ぎると腹痛くなるかも」
「じゃあ、ジャムだけ少し舐めさせるか」
「あ、ヨーグルトに混ぜよう。昨日から便秘してるらしいし、ちょうどいいわ」

 日が暮れて、ようやく涼しい風が吹き始めた。文恵さんは薄ピンク色に染まったヨーグルトをおいしそうに頰ばっている。清吾は炭酸水にウイスキーとジャムを混ぜた飲み物をすすり、陰っていく庭を見回した。

「ほんとはもっと色々、面白い植物が植わってんだろうな、この庭。またなんか生ってたら調べてみよう」
「そうだな」
「実は目立たないとこにジャガイモとか埋まってそうじゃね? ぜったい家庭菜園やってるよ、この雰囲気は」
「ジャガイモは……秋か」

 考えてみれば、前の住人とは死んで幽霊になってうろついている奴のことで、そいつが育てていたものをこうして勝手に飲み食いしているのはどうなのか。俺は席を立ち、もう一杯ゆすらうめのソーダを作って部屋の隅に置いた。清吾が首を傾げる。

「なにそれ」
「お前これ、飲むなよ。うちって線香あったっけ」
「んなもんあるわけないべ」
「ちょっと出てくる」

 スマホと財布をつかみ、サンダルをつっかけて外に出ると、重さのある生暖かい夜風がTシャツの裾をはためかせた。夏がもうそこまで来ている。

 最寄りのコンビニで明日の朝食のパンと線香を買い、外に出てなんとなくスマホを確認する。留守番電話の音声が一件、録音されていた。追加でなにか買ってこいという連絡だろうかと、なにも考えずに指をすべらせ、スマホを耳に当てる。

 柔らかい空気を突き破り、含み笑いのべたついた男の声がおもむろに耳へ流れ込んだ。

『もしもしい、安条のワンちゃん聞こえてますかあ。もうすぐ迎えに行くからねえ。どこに逃げたって無駄だよお。俺たちワンちゃんと遊びたくてしょうがないんだから。働き者のワンちゃんにしっかりご褒美やるからね。首を洗って待っててねえ』

 ぷつ、と音声がちぎれる。スマホを近くの川に捨てようとして、やめた。家に帰る途中で空を見上げる。赤紫の日暮れが終わり、もうじき夜がやってくる。

 ゆすらうめのソーダの隣にもう一つ空のコップを置き、火を点した線香をいれた。清吾はようやく思い当たった様子で、そばにやってきて手を合わせた。

 ぼうっとしていた文恵さんが、まるでうたたねから覚めたように目をしばたたかせてこちらを向いた。

「あれ、匠くん。遊びに来たの?」
「はあ」
「ゆっくりしていってね。そちらのおばあさんも」

 文恵さんはにこにこしながら部屋の隅を見ている。清吾はげんなりと顔をしかめた。

「こええよ」
「まあいいさ、なんでも。いい夜だ」

 順番に風呂に入り、文恵さんを寝かしつけ、二人で酒を少し飲んでからそれぞれの部屋に分かれた。襖の向こうの寝息が二つになるのを見計らい、ゆすらうめの根元にナイフを埋める。

 俺はその夜、この美しい家をあとにした。

 初めは、ただの同情を買うための噓だった。ほだされるたび、なんども言ってしまいそうになった。俺は人殺しだと。それでもお前は、俺を受け入れるのかと。

 今では、言わなくてよかったと本当に思う。犯罪者をかくまう人間は罪に問われる。俺は俺の家から、あらゆる暗闇を遠ざけたい。

 終電を過ぎた駅前のロータリーには数台のタクシーが停まっていた。そのうちの一台に乗り込み、ここからだいぶ離れた、空港にほど近い町の名前を告げる。目的地が出来た。まだもう少しだけ生きていたい。俺は、俺のものだと特定されたスマホを持ったまま、世界の果てまで逃げていく。あの人たちから遠ざかる。

 ぜんぶ終わったら、ナイフを目印にまたあの庭に還りたい。あいつは、許してくれるだろうか。

(了)


*その他の短編はぜひ、彩瀬まる『さいはての家』本編でお楽しみください!  https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-771691-7

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