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母:遠距離介護。


妻の病気と介護だけでもヒーヒー言っているのに、私には仙台に住む一人暮らしの母親の遠距離介護をする、という課題もありました。

私は一人っ子。随分と前に亡くなった実父が、いろいろあって親戚付き合いをほぼ無くしてしまっていた事もあり、地元には頼るあてがありませんでした。

2013年4月頃から、出張に合わせて月に1、2回帰省して、母親の状況を確認していました。妻の発症が2015年5月頃からでしたので、母の遠距離介護が先にスタートした事になります。

顔に青たん。



帰省したある日、玄関のカギをガチャガチャ動かしていたので、私の帰宅と察して母は三和土(たたき)に降りていてドアが開くのを待っていました。顔を見て声をかけようと思ったのですが、息を吞みました。顔半分に青あざが広がっていたのです。

“あんたが心配すると思って電話では言わなかった”と、小言を言われた子供みたいにブツブツと小さな声で説明して来ました。母は、寝たきりの実父の在宅介護を10年以上やっていたのと、それも介護保険ができる前からの在宅介護だったので、ガタイの大きい父をベッド上で身体の位置を動かす作業を自分ひとりでしていた時期もあったので、腰が90度曲がってしまい、顔が前を見るのではなく地面を見て歩いているような状態だったのです。こんな姿勢では歩くことに支障が出て、頻繁に転ぶ様になっていました。

お年寄りが転ぶようになったら、寝たきりになってしまうリスクが一気に高まります。私は何とかそれを回避しようと考え始めました。どこかにお世話にならないと。


3人での東京暮らしも試したけど。


一時、東京の我が家で妻(その当時は元気)と私との3人で暮らそうか、という案も俎上に上がり、2013年の後半にしばらく、我が家暮らしを試してもらった事がありました。

ところが私も妻も仕事で忙しく、帰宅も遅くなりがち。ある日、確かもう午後7時頃だったと思いますが、打ち合わせも終わりまもなく帰れそうだったので、“もうすぐ帰るから一緒に夕飯、食べようね”と母に電話した事があります。そうしましたら、ものすごい剣幕で“これじゃ、仙台で暮らしているのとおんなじじゃないの!私は帰ります!”と怒鳴られてしまいました。

毎日、3人で夕方頃、一緒に夕餉(ゆうげ)を囲む事を夢見ていたのだと、聞かされました。申し訳なかったです。

友達とは離れがたい。


夕餉を息子夫婦と囲むのも夢ではあったのですが、やはり友人が多い、仙台は離れがたい、とも言われました。特に東日本大震災の苦しい日々を支えてくださった仲間との絆はとても強かったのです。

震災の日から2日間は一切連絡が取れず、ようやく3日後に母の友人の携帯から、“お母さんと一緒に近所の中学校に避難しているから安心して”というメールが入りました。私が仙台に行けたのは1週間後で仙台へは直行できず、山形経由のバスでたどり着き、母の顔を見た後、真っ先に励ましてくださった皆さんにお礼に伺いました。

そんな皆さんもそれぞれの家庭があり、それぞれの事情を抱えていらっしゃいます。母の介護までお願いすることは到底できません。

“冷たい動物の餌”と言われて。


2014年になり、ますます母の具合は芳しくなくなってきました。相変わらず転んでいましたし。私は“誰かに母をいつも見守っていてもらいたい”と思うようになってきました。そこで見守りを兼ねた配食弁当をお願いすることにしました。

ですが母にはキツイ一言を言われてしまいました。“私はいつも冷たい、動物の餌を食べさせられている”と。私が実家にいて玄関に受け取りに出ても“お母さんに受け取ってもらわないとダメです”というくらい、見守りと、ほんの少しですがお喋りをして、様子を報告してくれるしっかりとした良いサービスだったのですが。

母は腰が90度曲がってしまっていたので、テーブルの上にお弁当を置いて食べることができず、テーブルの下に手で持って食べている姿も、かわいそうでならなくなってしまいました。

そうか冷たい動物の餌か。温かいホカホカのご飯やみそ汁、おかずなんかが食べられて、見守りもしてくれるところはないか、と考え始めました。


ケアハウスと出逢う。


母を担当してくれていたケアマネージャーと話し合い始めて、”ケアハウス“という施設を知りました。”軽費養護老人ホーム“というのが正しい呼称だと思います。

ひとりで自立した生活はできるが、見守りが必要な皆さんがお世話になる施設。早速、その年の4月に訪問に行きました。寮母長(りょうぼちょう)という方とお会いして施設を見学させて頂き、お話を伺いました。

感動したのは“収入に合わせた13段階の費用”と“入居一時金”。看護師の常駐と出来立てのホカホカで美味しい食事を3食、楽しめるところでした。食事は私も試食させて頂きました。大勢のお年寄りの中に混じって、50代でも若造なのであちこちから話しかけられてちょっと戸惑いましたけど。

“収入に合わせた13段階の費用”ですが、母の収入は自身の国民年金と父の遺族年金でした。この収入で賄える費用の段階があったのです。また“入居一時金”ですが、これも現在、私ら夫婦が住んでいる東京特別区内のケアハウスを調べてところ、なんと10分の1でした。それも賃貸アパートなどの敷金と同様に退去時に部屋の修繕に使った残りは返却してくれる、というものでした。

ですが入居は待ちの状態。ウェイティングリストがずーっとある、という感じでした。翌週、母も連れて、震災を一緒に過ごしてくださったお友達も2人付き合ってくださり再度見学。“ここならタクシーで行き来できるね”と言ってくださった事もあり、入居を申し込みました。

1年後、ようやくお世話に。


しかし実際に入居OKを頂いたのは翌2015年3月でした。妻の発症が2015年5月頃でしたので、母の部屋にどのように家具を配置したら良いのか、その辺の作業が得意な妻もケアハウスに連れて行きました。メジャーを長く伸ばして部屋のサイズを元気に採寸している妻と、それを見守る母の写真が残っています。

それからまもなく遠距離ダブル介護が始まります。ケアハウスに居るからっていって“姥捨て山”に追いやったのではないのです。しょっちゅうお喋りに行きました。ご用事もしょっちゅう承って仙台通いをしていたのです。2017年10月末に亡くなるまで、手続き、寮母長との話し合い、通院や入退院にも頻繁に通う事になります。


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