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78.

20歳の誕生日を迎えたのは、カンクンだった。カリブ海に面した、メキシコ随一のリゾート地だ。直前の週末、サン・ルーカス岬で開催されたジャズ・フェスティバルに出演した翌日、石嶺と、彼のお気に入りであるドラムのブライアンと共にユカタン半島まで移動したメイは、現地のプロモーターが調達した車に乗せられ、ビーチ近くの5つ星ホテルへ案内された。眩いばかりに輝く白い砂浜、カリビアン・ブルーの海、抜けるような青空に浮かぶ白い雲。シックなヨーロッパスタイルのホテルに一歩足を踏み入れると、豪華絢爛なロビーと日本人のコンシェルジュに出迎えられた。煌びやかなクリスタルのシャンデリア、広々としたラウンジ、大理石の階段、分厚い絨毯、そこここに飾られている生花や絵画。まるで別世界だ。



わりいな、俺と同じ部屋になっちまって」サムソナイトのスーツケースを開きながら、石嶺はぼやく。「ダブル2部屋でブッキングしろって言ったのに、ダブル2台の部屋取りやがって。宮原め」
「いえいえ」メイは、笑顔で答える。「むしろ、石嶺さんと一緒で嬉しいです」
「ま、お前ならそう言ってくれると思ったよ」
「それにしても、凄いところですね」

彼はバルコニーに通じる窓を開け、外の景色を見渡して嘆息する。眼下には温水プールが大小2つあり、敷地内には椰子の木や植え込みが配置され、プールの周りにはビーチチェアやブルーのビーチパラソルが並んでいる。同じパラソルが浜辺にも等間隔で置かれており、白い砂に映えて美しい。


「前に来た時より綺麗になってるもんな。2015年に改装したそうだから」石嶺は、こともなげに言う。「英語が通じるだけでもありがたい」
「確かに。昨日までいたホテルは結構大変でしたもんね」
「ほんとにな。現地のいい加減な通訳より、お前の方がスペイン語が堪能だから。お陰で助かったよ」
「ここの従業員さんも、スペイン語で話し掛けた方が喜んでくれるんですよね。日本人が話せるとは思わないみたいで」
「なるほどな。そういう場所でバイトしてた甲斐があったな」
「役に立たない経験はないから、何でもやってみろって。ジュリーニョからもよく言われたので」
「しばらく会ってねえけど、イケメン爺さんは元気かい?」
「相変わらず精力的に活動してますよ。先週末も、クリスのトリオでブルーノート東京に出演してましたから」
「マジかよ。すげえな相変わらず」彼は冷蔵庫からコロナ・ビールを取り出し、蓋を開ける。「俺なんか、80過ぎたらさすがに動きたくねえぞ?」
「ですよね。ほんとタフな人だと思います」
「元気なうちにもう一度、レコーディングに付き合って貰わないとな」
「あっ、いいですね。その時は俺も同行させてください」
「勿論だ。お前は最後の愛弟子だからな」
「あっ、そうだ。石嶺さん?」
「うん?」
「もしお邪魔な時は、言ってくだされば。そこら辺散策してきますから」
「今日は演奏しねえから、女も要らねえよ」瓶ビールをらっぱ飲みしながら、彼は笑った。「余計な心配しなくていい」
「ああ、なるほど」
「そんなのとどうこうするより、たまにはお前とゆっくり過ごしたいよ。滅多にない機会だし」と、メイの頭をぽんぽん撫でて。「明日からまたクソ忙しくなるからな。今日は目一杯羽伸ばそうぜ」



メイがバルコニーにあるブルーのアームチェアに座り、本を読みながらカリブ海に沈む夕陽を堪能している間、石嶺とブライアンは屋外のプールでひと泳ぎしてきたようだ。シャワーを浴び、ドレスコードに従ってスマートカジュアルな服装に着替えたあと、ツアーマネージャーの里中と宮原、明日の会場を仕切るコンサートプロモーターと合流して、1Fのレストランに向かう。夕食時だからか、シックな中間色と間接照明に彩られた店はほぼ満席で、さざなみのような会話と食器の触れ合う音で満ちていた。ビーチを臨む予約席に通され、ワインとジュースで乾杯した直後、マネージャーとおぼしき男性が品のいい笑顔を浮かべて歩み寄り、里中にメモを手渡して去っていく。

「里ちゃん、どうした?」

彼は無言で、石嶺にメモを差し出す。ああ、という顔をして、彼は頷いた。

「ここのシェフと専属ピアニストが、俺のファンなんだって」石嶺は、簡潔に状況を説明する。「あとで1曲演奏して欲しいそうだ」
「へえ、さすが石嶺さん!」メイは隣から、メモを覗き込む。「凄いですね」
準備不足・・・・だから、いつもより調子悪いけどな。しょうがない」
「アキラは何処行っても人気者だよな?」
「何言ってんだよ。お前等も付き合え」
「いいけど。せめて、メシ食ってからにしてくれないかな」ブライアンは、肩を竦めた。「散々泳いだからペコペコだ」
「そう思って、ブライアンさんの分は先に注文しておきましたよ」と、里中。「石嶺さん、次もワインでいいんですか?」
「ああ。酔えれば何でもいいよ」
「メイくんはまだ・・ノンアルコールかな」宮原が、笑顔を向けてくる。「解禁まで、残り5時間切ったね」
「ん?」供されたばかりのリブアイロースステーキを頬張りながら、ブライアンが訊く。「メイ、どうかしたのか?」
「明日誕生日なんだよ」と、石嶺。「20歳の」
「あっ、そうか。お前まだ未成年だったもんな?」
「そうなんですよ」メイは、照れたように笑った。「やっと石嶺さんとお酒が飲めます」
「メキシコは18歳からOKだって言ってるのに、ほんとその辺はお堅い奴でな。散々待たされたよ」
「アキラに酒付き合わされたら簡単に潰されるからな?オレなんか何回もやられてるから、気を付けろよ?」
「はい」メイは、愛想よく返事する。「ここ数年、被害者を目の当たりにしてますから」



広々としたレストランの奥には絨毯の上に直置きされたグランドピアノがあり、その傍にコントラバスとGKアンプ、ドラムセットがあった。20:00になると黒いスーツに身を包んだ若手のジャズマンが3人現れて、心地よいボリュームで演奏を始めた。上品で耳触りのいいスタンダード・ジャズをメインに、映画音楽や最新のヒット曲まで何でもこなす、お手本のようなピアノ・トリオだ。

「何だよ」石嶺は演奏を聴きながら、微笑んだ。「普通に上手いじゃねえか」
「むしろ、こんなお洒落シャレオツな場所でオレ達がいつも通り演奏したら、すげえ場違いじゃねえの?」
「かもな」石嶺は、苦笑しつつ同意する。「だからあれはあれで、ちゃんとしたプロの仕事なんだよ」
「ベースの人もドラムの人も、格好いいですね。ピアノの人も、譜面なしでばんばんリクエストに応えてて」メイは、スフレを口に運びながら頷いた。「ああいうのにも、憧れるなぁ」
「あいつらはあいつらで、俺等みたいなのに憧れてるから。お互い様ってとこだ」


きっちり40分の演奏を終えたところで、レストランのマネージャーが笑顔で席へ歩み寄り、石嶺の肩にそっと手を置く。そのタイミングで、浅黒い肌のピアニストはマイクを手に立ち上がる。

「皆様、今宵も当店のお食事と音楽をお楽しみいただきありがとうございます」彼は微笑みながら、癖のある英語でMCを入れた。「今夜はニューヨークから、素晴らしいお客様がお越しです。拍手でお迎えください、アキラ・イシミネ・トリオ!」

一斉に湧いた拍手の中、石嶺とブライアンに続いて、メイは緊張しながらステージに向かう。まさかこんなところで、演奏することになるなんて。

天才ジーニアスにボクの楽器を弾いて貰えるなんて光栄だよ」背の高いベーシストは、笑顔でコントラバスのネックを手渡してくる。「4弦がドロップDなので、そこだけ気を付けて」
「わかりました。ちょっとだけお借りしますね」
「さて、何やろうか?」指のストレッチをしながら、石嶺が訊く。「売れ線シャリコマだと向こうのレパートリーと被るだろうから。それ以外で」
「あんまりうるさくない方がいいだろ?」スティックを握りながら、ブライアンが言う。「ミディアムなら何でもいいぞ」
「じゃ、昨日のアンコールでやった奴にするか」

言うなり彼は、鍵盤に指を下ろす。イントロはピアノとベースのユニゾンだ。メイは間一髪で間に合わせ、ブライアンは様子を見ながらライドシンバルを鳴らす。2ビートとパターンメインで始まったテーマが途中から小気味よい4ビートに変わる瞬間、毎回鳥肌が立つ。注意深く2人の音を聴きながら、メイは師匠ジュリーニョ直伝のトラディッショナルなウォーキングで確実にビートを刻む。あれだけ飲んでいるにも関わらず、石嶺のピアノは普段以上に滑らかで、リラックスしていて、尚且つエレガントだった。彼がピアノを弾いた途端、場の雰囲気と観客の表情ががらりと変わるのを、この5年間でメイは何度も体験していた。ヨーロピアンスタイルの荘厳なレストランが、一瞬でヴィレッジ・ヴァンガードになるのだ。


石嶺の軽妙なソロが終わり、ベースソロが回ってくる。メイは4弦のチューニングが普段と違うことに注意しながら、丁寧にフレーズを組み立てていく。最前列の老夫婦や若いカップル、東洋系の観光客や家族連れが皆ステージに笑顔を向け、体を左右に揺らし、指先や爪先で楽しそうにリズムを取っているのが視界に入ってきた時、この仕事をやっていて本当によかったとメイは思う。スタジオでの収録も大規模なジャズ・フェスティバルも、それはそれで遣り甲斐はあるのだけれど、やはり、お客さんの表情や反応がダイレクトに見られる場所が最高だ。レスポンスがいい会場では当然、演奏者側のモチベーションも上がるのだ。


メイがソロを終えたあと、石嶺は4バースを経てからテーマに戻り、そのままエンディングへと持ち込んだ。石嶺がピアノの譜面台に左手を置いて立ち上がり、客席に向かってにこやかに一礼すると、コンサート会場であるかのような拍手と歓声が起き、しかも鳴り止まない。

「1曲だけって話じゃなかったか?」彼は首を捻りつつ、傍の椅子に座っているピアニストに尋ねた。「どうしたらいいかな?」
「よろしければ是非、もう1曲お願いします」
「喜んで。何か聴きたい曲はあるかい?」
「日本の曲をリクエストしたいです。2011年のアルバムに収録されていた」
「なるほどね。了解」

石嶺は笑顔を返し、彼からマイクを受け取った。メイはその間に調弦を済ませ、アンプの調整をして、様子を窺う。

「突然の飛び入りにも関わらず、聴いていただきありがとうございます。1曲目はピーター・ビーツのオリジナルで、Degageでした」流暢な英語で、彼は続ける。「あと1曲ってもいいとピアニストからお許しが出たので、この機会に、日本の有名フェイマスな曲を演奏してみますね」


拍手が静まってから、石嶺は再び一礼してピアノ椅子に座り、美しいイントロを奏で始める。メイはすぐに曲名を察し、ピアノの左手に合わせてユニゾンでベースパターンを弾き始め、ブライアンも巧みなコンピングで全体のビートを支える。哀愁漂うメロディーと短調マイナーなコード進行の、ともするとウェットになりがちなこの曲を、石嶺はドライに、それでいながらドラマチックなアレンジに仕立てていく。

やっぱり凄いな、石嶺さんは。共に活動するようになってもう5年も経つというのに、演奏するたびに、メイはそう思わずにはいられない。この人に会えて、この人に選んで貰って、この人と一緒に演奏することが出来て。俺は本当に、幸せ者だ ──── 



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