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77.

23:00。準夜勤のパイと夜勤のジョシュアが交代する時間だ。

フロントで愛想よく接客している彼の声を遠くに聞きながら、メイはすぐにでも問いただしたい気持ちをこらえていた。しかし、そんな不穏な感情とは裏腹に、彼に会いたい、話したいと願う自分がいる。


( ──── 何なんだよ、一体。俺は、どうしたんだ?どうしたいんだ?ジョシュと、どうなりたいんだ?)


ジョシュアの言動に振り回されることに苛立ちを感じ、メイは溜め息をつく。その一方で、いい加減認めなければならない事実があった。自分自身を誤魔化し切れないところまで、彼の存在が大きくなってきていることを。
それとは別に、今の自分では現役のピアニストであるジョシュアの実力には遠く及ばず、相応ふさわしくないこともすでにわかっていた。いつか彼と同じステージに立って、対等に戦いたい。音の世界で打ち解け合って、奪い合って、与え合って、身も心も全て捧げた上で、とことん通じ合いたい。かつて、石嶺とそうしていたように。腑抜けた恋情より、そんな思いの方がずっと強かった。




日付が変わる直前、いつものようにドアが開いた。メイはベッドの上に胡座あぐらをかいたまま、彼を一瞥する。

「お疲れ」
「ああ。起きてたのか」
「あんなことされて、眠れる訳ないだろう?」

ジョシュアは長い前髪を掻き上げ、ばつの悪そうな顔をする。しばらくの沈黙のあと、彼はベッドに歩み寄り、メイの隣に腰を下ろそうとする。

「駄目だ」彼は、椅子を指差して言う。「そっち」
「やれやれ」素直に従いながら、ジョシュアは長い脚を組む。「よっぽど怒ってるんだな?」
「文化的な齟齬そごだよ。外国人あんた達は告白もなしで、雰囲気とノリで寝て、気に入れば付き合うみたいな、それが普通なんだろうけど。日本人は武道と同じく、礼に始まり礼に終わるんだ」
「わかった。あれはフライングだった。それは認めるよ」ジョシュアは両手を挙げて降参する。「どうしたら許して貰える?」
「正直言うと、俺の中でのジョシュに対する信頼が揺らいでるんだ。いろいろ矛盾し過ぎだろう?」
「俺がゲイじゃないって話か?」
「それもある」
「ひょっとして、エリックや南くんにも、俺が同じことをしたって思ってるのか?」
「したのか?」
「する訳ないだろ?男としたのはあんたが初めてだ」

真っ直ぐに見詰めてくる淡いブルーの瞳から、彼は目を逸らせずにいた。真剣な表情を見ている限り、その言葉が嘘とは思えない。根拠もなく、そんなことを思った。

「でも、どうして ──── 」
「あんたは慎み深い性格だから、もし仮にその気があっても・・・・・・・・、俺の過去に気兼ねして、踏み出せずに苦しい思いをするだろうからな」
「どういう意味?」
「俺から接近アプローチした方が、楽になるんじゃないかと思って」
「ジョシュ、何か勘違いしてないか?」
「してるか?」
「いつ俺が、ジョシュのこと ──── 」
「わかりやすいんだよ、あんたは」彼は、被せるように言う。「自分でも、気付いてるんだろう?」

やっぱり、バレてたか。
今度は、メイが降参する番だった。

「 ──── だとしても。何であの場でいきなりだったんだ?」
「こんな状況だと、信じて貰えなくても仕方ないけどな」ジョシュアは、深々と溜め息をつく。「真っ直ぐに俺を見上げてくるあんたが愛しくて、つい、何て言うか ──── 」
「魔が差した?」
「そう、それ」彼は、額に右手を当てて項垂うなだれる。「自制が利かなくなった」
「あのさ。俺が嫌がるとか、死ぬ気で抵抗するとか、騒いで大声出すとか。思わなかったのか?」
「それは、まあ、思ったけどな」彼は、がりがりと頭を掻く。「そんなに嫌だったか?」
「嫌って言うか ──── 」メイは、視線を逸らして言い淀む。「まあ、今だから言うけど、かなり怖かったよ。徳さん来なかったら、そのまま犯されるかと思った」
「悪かった。あんたが嫌なら、もうあんなことしないから」
「とりあえず、パールハーバーはやめてくれ」
「ほんとに悪かった。ちゃんと宣戦布告してからにするよ」
「今からでも、遅くはないけど」
「えっ?」
「フライングなしで。きちんと言葉で伝えてくれよ」

平坦な声で言い放ったあと、彼は、ベッドの上を平手でぽんぽんと叩く。ジョシュアはすぐに察して立ち上がり、隣に腰を下ろす。


「 ──── あんたを愛してる。心から。これでいいか?」
「男なのに?」
「何度も言っただろ?あんたは俺にとって、特別な存在だって」
「冗談だと思ってたよ。本気で言ってくれてたのか」
「メイは、どうなんだ?」
「これまで好きになった相手は何人かいたけど」彼は、足元に視線を落としながら答える。「こんなに全部持ってかれた・・・・・・のは、生まれて初めてだ」
「よかった。光栄だよ。あんたに愛して貰えて」
「バレてるなら、もっと早く言えばよかった。ただでさえ、俺には時間がないのに」
「て言うか、いつからそんな風に?」
「いつからだろう ──── 一番最初は、あんたがソファで寝てた時からかな」
「えっ。意外と早かったな?」
「免疫ないんだよ。優しくされることに」
「あとは?」
「あとは ──── 発作起こした夜か」
「あの時はさすがに慌てたし、俺の方が死ぬかと思ったぞ」彼は、くすくす笑った。「でも、真っ先に俺を頼ってくれて。嬉しかったよ」
「決定的だったのは、ジョシュのピアノ聴いたことだよ。子供の頃から俺は、才能のある人に強く惹かれるんだ」
「へえ。それは素直に嬉しいな」
「だから。俺がちゃんと弾けるようになるまで、待ってて欲しいんだ」
「待つって、何を?」
「詳しいことは話せないけど、俺は今、体のことの他に、深刻シリアス致命的クリティカルな問題を抱えてるから。それと向き合って克服してからじゃないと、先へは進めないんだ」
「それは、俺と関係あることか?」
「いや、ない。ジョシュには関係ないことだし、何の責任もない、俺自身の個人的な事情だよ。だからこそ、俺にしか解決出来ない」

メイが話している間、ジョシュアは茶化すことも余計な口を挟むことなく、黙って耳を傾けていた。その事情の重さと深刻さが、彼の言葉の端々から嫌でも伝わってきたからだ。

「 ──── それとは別に、あの時話したように、俺はジョシュと、音楽的にもきちんと向き合っていきたいから。今の俺では力不足過ぎて、向き合うどころの話じゃないからね。追いつくのは無理だとしても、せめてジョシュの足を引っ張らないレベルまでは行きたいし。そこの部分を端折って、ジョシュの優しさに甘えて、なし崩しにのりを超えたくないんだ。だからちょっと、時間が欲しい」
「なるほど、そういう理由か。あんたらしいな」
「ごめん。いろいろめんどくさくて」
「いいよ。そこまで俺のピアノに惚れて貰えたら本望だ」
「ほんとごめん」メイは、右手で彼の左手を握る。「せっかくジョシュがきっかけを作ってくれたのに」
「気にしなくていい。どうせ今日まで待ったんだ。あんたの好きなようにしてくれ」
「それにしても、一生に一度の告白なのに。色気のない会話ばっかりしてるな?」
「まあ、そういうのもありなんじゃないか?お互い初めてなんだし」
「それもそうか」
「で、何処までならいい?」
「えっ?」
「段階があるだろ?」
「それは ──── 」
「今までみたいに、一緒に寝るのはOK?」
「勿論」
「それ以上は?」

握っている右手の上に、ジョシュアの右手が重なってくる。首筋に唇を当てられたメイは、思わず身震いする。

「ちょっと待って。それは駄目だ」
「なかなか難しいな?」ジョシュアは、呆れた顔をした。「普通にするのは?」
「普通にって?」
「キスしていいか?」

メイは深呼吸してから、頷いた。再び唇が重ねられてから数秒ののち、メイはこらえ切れず、彼を押しのける。

「 ──── どうした?」
「長いんだよ、ジョシュは」メイは、息を切らせて言う。「窒息するだろ?」
「別に、息すりゃいいだろ?」
「していいのか?」
「していいのかって。しなきゃ死んじゃうだろ?」
「えっ?普通はキスするとき、息するものなの?」
「ひょっとして知らなかったのか?」
「誰も教えてくれなかったぞ?そんなこと」

真顔で答えると、ジョシュアはベッドに倒れ込み、声を上げて笑い始めた。メイは憮然として、その肩をぱたく。

「そんなに笑うことないだろ?」
「マジかよ?」彼は、涙を拭っている。「あんた幾つだ?」
「うるさいなあ」メイは、そっぽを向く。「しょうがないだろ?俺はジョシュほど遊んでないんだし」
「歴代の彼女から文句言われなかったか?」
「特に言われなかったよ。皆、変だなと思ってたかもしれないけど」
「それにしても」彼はまだ、笑い続けている。「どれだけうぶなんだ、あんた」
「ほっといてくれ」メイは、顔を赤らめる。「世間知らずだって言っただろ?」
「まあ、そういうところも可愛いけどな?」
「可愛いって言うなよ。傷付くから」
「愛しいよ。何もかも」
「ありがとう」彼は、素っ気なく言う。「そういやジョシュは、触れるだけなんだな?」
「ああ。日本人は嫌がるだろう?濃厚な接吻baiserは」
「俺は別に ──── 嫌じゃないけど」
「了解」寝転んだまま、ジョシュアは両手を差し伸べてくる。「じゃあ。試してみるか?」

やれやれと首を横に振ったあと、メイはその隣に体を滑り込ませる。いつものように横向きに抱き合ってから、あらためてキスをする。目を閉じて全てを任せ、広い背に両腕を回して強く抱き締めながら、ハリウッド映画みたいだな、と、メイは思った。初めての時も今も、懸念したような抵抗感も生理的な嫌悪感も一切なかった。それどころか、これまで一度も感じたことのない種類の高揚感さえあった。速まる呼吸と激しい動悸に、壊れかけた心臓がつのだろうかと不安になったものの、途中からはもう、どうでもよくなっていた。俺はきっと、この人のためなら何でもしてしまうだろう。互いに求め合いながら、そんな確信が今更のように浮かんでくる。

長い口づけの途中、ジョシュアの右手がTシャツの下に潜り込み、直接肌に触れてきた時、なけなしの理性が全て吹き飛びそうになる。ああ、もういいよ。どうせ俺は、知ってしまった・・・・・・・んだから ──── 



刹那、ベルの音が聞こえた。フロントの呼び出しベルだ。2人は咄嗟に体を離し、肩で息をしながら見詰め合う。

「 ──── ほら、ジョシュ!仕事だ仕事!」メイはもう、笑うしかない。「仕事が優先!」
「全く」ジョシュアは両手をついて立ち上がり、手櫛で髪を整え、頭を横に振る。「あんたには、ロマンティックな雰囲気になれない呪いがかかってるな?」




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