見出し画像

73.

練習を終えて仮眠を取ったあと、予定の5分前に、メイは手ぶらでスタジオに向かった。ディーデのワークショップは丁度終わったところらしく、ステージの前に並べられたパイプ椅子には男女合わせて20人ほどの外国人客が座っていて、やや興奮した様子で談笑している。久し振りに見る女性の姿に、メイは微かな緊張を覚えた。そう言えばずっと男ばかりの環境にいたんだな、俺は。


「おっ、メイくん!」チェロを抱えたディーデが、笑顔で声を掛けてくる。「初参加だね!」
「すみません、最初から来れればよかったんですが」
「いいよいいよ、ボクの講義は基礎的な内容がメインだし、どっちかって言うとクラシック奏者対象だから。気にしないで」
「よかった。ちゃんと来てくれたな」グランドピアノの前に座ったジョシュアが、右手を振ってくる。「楽器は?」
「えっ?」
「ノアに借りたエレベがあるだろ?」
「ジョシュが見学でもいいって言ったじゃないか」メイは、肩を竦めた。「YouTube見ながらちょこちょこ練習はしてるけど、まだとても人前で弾けるレベルじゃないしね」
「上手に弾けるようになってからなんて考えてたら、一生出来ないよ?」ディーデは、くすくす笑った。「ボクだってそうだもん。何年やってたってまだまだ未熟だし、勉強しなきゃいけないこといっぱいあるしね」
「そうそう」頷きながら、ジョシュアが付け加える。「ステージに上がって、失敗して大恥掻いて、共演者に迷惑かけて、助けて貰って。自分の出来なさ加減に死ぬほど落ち込んで、これじゃ駄目だってどん底から這い上がって。その繰り返しで、みんな上手くなってくんだよ」
「音楽ってもっと優雅な世界だと思ってたのに、意外と体育会系なんだな?」
「ある程度の水準以上に達したければ、皆通る道だ。まあ、最終的には自分との戦いになるけどな」
「確かに、その通り」ディーデはチェロをハードケースにしまって脇に置き、コントラバスに持ち替える。「さて、模範演奏何にしようかな?」
「徳さん来てからでいいだろ?」
「さっき見たらLINE来てて。人身事故で京浜東北線止まってるみたい」彼は、ふんわり笑って見せる。「間に合わないから、先に始めててくれって」
「なるほど。たまにはデュオで始めるのもいいな」
「そうだね。選曲はジョシュさんに任せるよ」
「メイ、何か聴きたいのはあるか?」
「わからないから。ジョシュが得意なやつやってくれよ」
「そしたら、速いのと遅いのと、2曲にするか」
「わかった。いつものやつね」彼は、にっこり笑った。「ジョシュさん、Aくれる?」
Copy了解!」

ジョシュアがA4の音を弾くと、ディーデはD線にフレンチボウを当て、フラジオレットを使って手際よく調弦していく。その段階でメイは彼が相当な実力者であることを察し、嫌でも気持ちが高ぶってくる。


2人のやり取りを聞いているうちに、セッションの参加者が楽器を手に続々と集まってきた。メイはアルトサックスを抱えた若い女性に最前列の椅子を譲り、一番後ろの椅子に座り直す。モニタースピーカーの中央付近、ベースとピアノの両方がちゃんと見渡せる位置だ。


開始1分前になると、ざわめきがぴたりと静まった。ディーデがマイクを取り、堪能な英語でMCを担当する。

「水曜ジャムセッションへようこそ。今日のホストはコントラバス担当のボク、ディーデと、ピアノ担当のレイナーさんです」

拍手が起こると、ジョシュアは愛想よく微笑んで、人差し指と中指のない左手をひらひら振って見せる。OD色のTシャツにリーバイスの505というラフな格好で、普段の彼のままだ。

「ドラムの徳田さんがちょっと遅れるそうなので、ホストバンドの演奏はデュオからスタートしますね。2曲終了後ちょっとだけ休憩を挟んですぐ演奏に入るので、楽器を準備して待っててください」

再びの拍手。メイは幾分張り詰めた気持ちで、ステージを注視していた。ディーデがマイクと弓を置き、指先にワセリンを擦り込んだのを確認したあと、ジョシュアはいきなり両手ユニゾンでイントロを弾き始めた。想像以上のボリュームとスピードで始まったのは、バド・パウエルのTempus Fugit。原曲よりさらに速い、320BPMほどのテンポだ。

( ──── ちょっと待て。嘘だろう?)

イントロの途中から、ディーデのベースが加わる。その時点で、全身に鳥肌が立った。一糸乱れぬスタートに、客席から大きな歓声が湧き起こる。速さもさることながら、2人の尋常ならざるテクニックと、場を支配する凄まじい緊張感に、メイはひたすら圧倒され続けていた。ディーデの正確な音程とモダンなベースライン、無駄のない美しい運指から目を離せない。

譜面は勿論アイ・コンタクトもない状況で、ジョシュアは鍵盤に視線を落としたまま、書き譜じゃないかと疑うレベルの見事なソロを繰り広げる。ヴォイシングやフレージングは勿論、タイムも完璧で、ドラム不在の演奏とは思えないほどだった。彼は速い曲が得意らしく、トラディッショナルなバップ・フレーズを難なく繰り出しながらもなお、余裕が感じられる。音だけ聴いていると、誰も左手にハンディキャップがあるとは気付かないだろう。石嶺のように正確無比にストレートを投げ込んでくるスタイルとは対照的な、自由自在に変化球を繰り出してくるスタイルだ。ジョシュアのアイディアとドライブ感溢れるパッセージにどんどん惹き込まれ、次は?その次は?と、身を乗り出さずにはいられない。
凄まじい速さにも関わらず、ディーデは汗ひとつかかず、指板も一切見ずに、ピアノの方を見詰めて微笑みながら、淡々とサポートに徹している。そんな2人の姿を交互に眺めつつ、メイは、王さんの店の行列に並んでいた時にジョシュアが話していたことを思い出す。

(音楽は怖いぞ。一緒に演奏すると、全て丸裸にされるから。どれだけ上っ面を綺麗に繕ってても、経歴を偽ってても、音出した瞬間に一発でバレるし)

本当にその通りだ、と、メイは思った。ジョシュアがピアノを弾いている姿を一度も見たことのなかった彼は、正直、どれほど上手いと言ってもせいぜい、日本のプロ程度だろうと高を括っていた。そのおごりと慢心を、彼の音は一瞬で吹き飛ばしてしまった。そして何より驚いたのは、想像を遥かに超えるディーデのうまさだ。

(ボクはスイスの音大出てしばらくプロやってたけど、食えなくて諦めたクチ)

以前彼が言っていたことを、メイは頭の中で何度も何度も反芻し、愕然としていた。このレベルの人が食えない・・・・・・・・・・・・って、一体どういうことだ?

これまで国内外でいろいろなプロミュージシャンの演奏を聴き、共演してきたメイだが、こんな体験は初めてだった。才能、という言葉が頭から離れていかない。クリスや石嶺さんと同じように、ジョシュもディーさんも本物・・なんだ、と、メイは瞬時に理解して、同時に、己の不明を心から恥じた。俺が世界だと思っていたものは、本当に狭いものでしかなかったんだな。ジョシュが言っていた通り、世の中にはとんでもないレベルの人が、無数に存在しているんだ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?