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小説 ムジカ~合唱③

 散々、迷った挙句、私はCDプレーヤーを探すことにした。音楽を聴くこともなくなっていたので、まだあるのかどうかも定かではなかったが、とにかく家中のありそうだと目星をつけたところを徹底的に探した。探している間は、息をするのも忘れるくらい集中していた。
「ここにもない。どこにあるんだ……」
そう独り言を吐くと、家中をひっくり返すように探し回る。それの繰り返しだ。結局、日が暮れるまで、CDプレーヤーを探した。しかし、下した結論は「既に処分してしまった」だった。自分にはそんな記憶はない。きっと、美穂子の仕業だろう。私は途方に暮れ、散らかった部屋の真ん中で呆然と立ち尽くす。


 家へ帰っても、相変わらず美穂子はいない。まだ実家にいるのだ。自分が鬱なのだと伝えても、意に介さない様子で
「あっそう、それで会社には行けてるの?」
と聞いてくる。愕然として、それ以来連絡を取っていない。。
 次第に、彼女との直接的なやり取りは減っていき、義母を通してのメッセージのやり取りがされるようになっていった。離婚という言葉すら、頭を掠める。しかし真壁医師からは
「重要な決断は、今は行わない方がいいですよ」
と言われている。

 春前に休職の申請を行った。クレーム処理の仕事に限界を感じ、半年間という期間を設けることにしたのだ。もう有給休暇は残り2日しかなく、これ以上勤務するのは心身ともに危険だと判断したのだ。申請用紙に記入し、診断書を添えて、人事担当者に提出した。
「提出物に不備はありません」
と言われ、ほっとしたのを覚えている。そのあとから、付け足したように
「お大事にしてくださいね」
と言われたのが、最後の言葉になった。それ以来会社には行けていない。

 合唱団「たかひろグリークラブ」は月一回のペースで練習を進めていった。三月は下旬に行われたらしい。武藤泰輔は相変わらず、気合いの入った指導を行っていると梓から聞かされた。

「出だしをもっとはっきりと。あと、後から入るパートが音程低い」
そう言われると、皆一斉に修正に向けて動き出す。途中に中だるみすることもあるが、黒瀬が
「集中して、もう残り時間少ないよ」
と活を入れる。
 
 そういった、やり取りが繰り返されたという。

 私はというと、休職中の身分で合唱の練習なんて行けるかと三月の練習も休み、そのままフェードアウトしようと思っていた。そんな折、梓からメールが来た。
「まさか、今度の練習休もうなんて思ってない?」
図星だった。
「そのつもりだよ。会社を休職することになったし」
隠し事はしたくなかったし、そうしたところですぐに分かることだろうと感じたので、正直に答えた。
「別に休んでもいいんだよ。だけど、このままでいいのかなって思うよ」
「会社を休むのは仕方ないだろう。こっちだって、好き好んで休職したくはなかったよ」
梓の追及ともとれるようなメールに、ムッとなって反論してしまう。
「怒らせたらごめんね。会社は休んでもいいと思うけど、練習まで来なくなるのはこっちとしても淋しいし、タナケンのためにもならないと思うんだ」
梓としても、トーンダウンしたもののまだ練習については諦めていないらしかった。さらに彼女は続ける。
「楽しくなかったら、練習に無理していく必要ないと思うけど、この前の練習でも楽しそうに歌ってたと思うよ。顔はしけてたけどね(笑)。自分には正直になって」

 「自分に正直になる」
 今の自分には最も遠いことだと感じた。本当に自分に正直になったら、きっと何もせず、一日を無為に過ごすだけの人間に成り下がってしまうだろう。それでも、今の自分が最も渇望していることであるという事実からも、目を背けることはできなかった。

 梓とはそのようなメールのやりとりが続いた。春があっという間に去っていき、ゴールデンウイークを迎えた。四月の終わりに練習があるのだという。場所は梓からのメールで教えてもらった。休職している間、「自分に正直になる」ということをずっと考えていた。ふと、「斎太郎節」の楽譜が目に付いたので見てみると、あの日練習した記憶が蘇った。確かに、あの時間は仲間に囲まれて楽しかった。でも、楽しさを自分の都合で楽しくないと変換してしまったのではないだろうか。

 そう考えると、居ても立っても居られない。すぐに準備をして、家を飛び出した。集合時間にギリギリ間に合う電車に乗り込み、練習会場へ向かった。
「きっと、練習からも取り残されるかもしれない。でも、きっと楽しいものになるからいいんだ。自
分に正直に、それでいいんだ」
言い聞かせるように、心の中で念じる私がいた。

 真壁先生も言っていた。
「今は休養が大事です。自分にとって栄養になることをしてください」
今になって気が付いた。先生の言うことは抽象的過ぎてよく分からなかったが、自分にとっての栄養は単に休んで寝転がることだけではないことに。

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