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「日本のお寺は二階建て」のリフォーム案

※本記事はnoteマガジン「松本紹圭の方丈庵」の定期購読者限定記事として執筆していますが、これからのお寺や宗教に携わる人にとって特に読んで欲しい内容なので、5/25まで期間限定で特別一般公開します。いつも定期購読してくださっている方には、改めて感謝申し上げます。

これまでたびたび「日本のお寺は二階建て」論を語ってきたけれど、この度、翻訳中の『The Good Ancestor』からインスピレーションを得て、その二階建てをどのようにリフォームしていけばいいのかという方向性について見えてきたものがあるので、語ってみたい。

※「日本のお寺は二階建て」論に関して3年前に僕が「彼岸寺」で書いた記事がいくつかあるので、参考までにリンクも載せておく

「Post-religion」(2018/5/16)
https://higan.net/hijiri/2018/05/post-religion/

「Post-religionとこれからの日本仏教」(2018/5/26)
https://higan.net/hijiri/2018/05/buddhism_path/

「お寺の新しいエコシステムを創造する」(2018/6/3)
https://higan.net/hijiri/2018/06/ecosystem/

「死にゆく宗教」と「お布施2.0」(2018/6/19)
https://higan.net/hijiri/2018/06/religion_is_dead/

「お寺に仏教はない!?動的なお寺のとらえ方」(2018/7/12)
https://higan.net/hijiri/2018/07/otera_dynamic/

まず、今の自分として改めて、「日本のお寺は二階建て」論について振り返ってみようと思うが、昨今、日本のお寺を取り巻く環境として、2つの流れがある。

1つ目は、「お寺離れ」だ。寄付の依頼など負担が大きいから檀家にはなりたくないとか、田舎の墓を守るのが難しいから墓仕舞いをしたいとか、お葬式に見ず知らずのお坊さんが来て高いお布施を求められるくらいなら直葬でいいんじゃないかとか、週刊ダイヤモンドや東洋経済で定期的に特集されるようなテーマを思い浮かべてもらえばわかりやすいかと思う。

これは、実際のところは宗教的な問題というより、イエ意識の急速な低下という社会構造的な問題であり、また高齢者に富が偏在して後継者世代に余力がないという経済的な問題であったりする。

2つ目は、「仏教ブーム」だ。もっとも、ここ30年くらいずっと「静かな仏教ブーム」が続いているという話もあるが、近年はっきりと変化があるのは、マインドフルネスへの注目だろう。元々は仏教の伝統にあった瞑想実践を取り出して宗教性を脱色したマインドフルネスプラクティスは、社会人から学生まで幅広く精神性向上のために役立てられている。

いわゆる従来の「檀家」や「信者」という枠の外にいるような人が、坐禅会や法話会、僕のやっているテンプルモーニングの掃除などに自分で興味を持って参加される若い人も少なくない。

さて、この「お寺離れ」と「仏教ブーム」という一見相反するように見えるものが、同じ一つの仏教のお寺に包含されるのを、どう整理すればいいのだろうか。その問いに答えるのが、「日本のお寺は二階建て」フレームワークだ。

どういうことか。日本のお寺は「仏教」という看板を出しながら、内実、「先祖教」と「仏道」という、性質の異なる二種類の空間を提供しているように見える。

1つ目の「先祖教」は、死者を中心とした空間だ。ここに来る人たちは、自分の家族や親族、親しい人を亡くしたことをきっかけに、出入りを始めることになる。逆に言うと、自分が個人的に向き合いたい死者を持たない人にとっては、入るきっかけのない空間でもある。

この空間は主として、近代では「イエ」のつながりを軸に受け継がれており、世襲制の雰囲気が強い。また、江戸時代の寺請制度から明治に入っての西洋のReligion概念の受容といった歴史的経緯もあって、「うちの菩提寺はxx寺」「うちの家系はxx宗」といったように、イエの宗教としては、1つの決まった所属を受け継ぐことが信仰ということになっている。

建前上、掛け持ちNGであり、それも含めて伝統仏教教団側の、実際にはさしたる伝統も根拠もない理論がまかり通っている、旧態依然とした窮屈な空間でもある。だから、イエ意識が薄くなれば、衰退するのは当然の空間だ。人が死者を弔いたい気持ちが減っているわけではないと思うけれど、今は特にコロナもあって、今まで通りの弔い方ができなくなっているからこそ、この空間のアップデートが急ぎ待たれる。

2つ目の「仏道」は、生者を中心とした空間だ。そこへ来る人は、坐禅会であれ、法話会であれ、基本的に自分のために出入りを始める。たとえば、テンプルモーニングに来る人たちも、早起きや掃除で自分の生活習慣を整えるためであったり、何かしら自分の普段の生活にはないものを求めてやってくるようだ。

お寺の檀家であるとか信者であるとか関係なく、それこそその人の宗教だって関係なく、いろんな人が出入りする空間となっている。もちろん、掛け持ちもOK。平日の朝はテンプルモーニングをしに光明寺へ行って、土日はまた自分の好きなお寺や神社や教会に行く、というのも良い。来られる人に、僕は「あなたのたくさんの依存先の一つにしてもらえれば、それでいい」とお伝えすることがあるように、その人の求める距離感で、その人の生活の一部にしてもらえれば、良いと思っている。

とはいえコロナ禍のご時世では、実際に集まって生活実践を共有することが難しくなった。僕がポッドキャスト「Temple Morning Radio」を始めたように、この「仏道」空間では、オフラインとオンラインを上手にミックスして活用していくことがますます盛んになっていくのではないか。

日本のお寺は、ばくっと大きな「仏教」の看板の下、この「先祖教」と「仏道」の両方ひっくるめてなんとなくやってきた。しかし、求める人の動機やタイミングが異なる以上、ある程度その空間を分けて捉えることで、もう少しお寺を経営していく住職の視点が整理されるのではないか。

お寺を経営する住職の視点という意味では、あえてこの空間を、1階の「先祖教」と2階の「仏道」に位置付けてみると、さらにわかりやすくなる。お寺の経済は実のところ、1階で繰り広げられる「お布施経済」によってその大部分を賄っている。一方、2階は多少の収入があるとしてもほんのわずかばかりで、むしろ無料の持ち出しでボランタリーにやっている坐禅会や法話会が大部分だと思う。そのように「1階がなければ2階は成り立たない」というお寺の経済構造をも、この2階建てで表現できるのではないかと考えた。

また、多くのお寺では「1階にしか玄関がついていない」という状況もある。100%、檀家制度を前提としたお寺の場合、1階も2階も利用できるのは檀家のみということになる。しかし、檀家になるには、「弔うべき死者を持つ」ことが前提となる。依頼する法事や葬式もないのにどこかの寺の檀家になるということは、基本的にあり得ない。とすると、2階の「仏道」を求めて新たにお寺を訪ねる人のための入り口がないということになる。だから、僕は、誰でもダイレクトに2階にアクセスできる外階段を、お寺につけるべきだと言っている。そして、この2階は掛け持ちOKのエリアなので、違うお寺同士、空中回廊で2階をつなげてしまえばいいとも思っている。

以上が、これまでの日本のお寺の二階建て構造。もちろん、お寺の全てがそれで語り切れるわけではない。けれど、例えば、現世利益のための祈願祈祷や地域のためのコミュニティ機能など、他の宗教も含めた宗教一般が備える基礎機能を除いた日本仏教に固有のユニークなところに注目するなら、大事な部分はカバーできているのではないかと思う。

今、日本のお寺が直面しているチャレンジは、檀家制度亡き後の新しい会員制度とエコシステムの開発だ。

さて、新時代の二階建てはどうなるのか。「三階建てにしてみたらどうか?」とか「地下を掘ってみたら?」とか、二階建てという比喩に乗っかっていろんな提案をしてくださる方もある。

では、自分はどう考えているかというと、『The Good Ancestor』がとても大きな視点をくれたと思っている。タイトルを日本語に訳せば「よき祖先」ということになるが、イギリスの哲学者で僕の友人でもある著者ローマンの意図は、「我々の祖先の良し悪しを断ぜよ」ということではなくて、「我々も皆全て、いずれは未来に生まれてくる人たちにとっての祖先になる。その時に、未来の人たちに、我々は良き祖先と思ってもらえるかどうか? 負の遺産を残した悪い祖先として記憶されないよう、良き祖先になるには今どう行動すれば良いのか?」というものであり、過去を振り返りつつも、未来を志向した本になっている。

先日、たまたま僕は台湾のデジタル大臣であるオードリー・タンに質問する幸運を得た。「これからの人類にとって本質的に重要な問いは何だと思いますか?」と尋ねたところ、「どうしたら、よき祖先になれるか、ということです」と答えられたので、あまりにもタイムリーで驚いた。やはり、これほど地球規模の課題が蔓延する時代においては、テクノロジー進化のスピードが早まる一方、私たちには自分個人の人生を超えた時間軸で自分の存在を捉えて行動するための、ローマンの言葉を借りれば「Deep-time」視点が必要なのだ。

先祖供養の習慣が特にあるわけではないイギリスから「Ancestor」というテーマが出てくるところに面白さと新しさがあるのだが、翻って、日本には伝統的に先祖をとても大切にしてきた文化がある。それを一手に担ってきたのがお寺であり、もっといえば、お寺の一階部分ということになる。

では、一階と二階を時間軸で見てみると、どうなるか? 面白いことが浮かび上がってくる。

一階の先祖教空間に流れているのは、自分の人生をはるかに超えた時間軸の長さで果てしなくご先祖とつながっていくDeep-timeであるのに対し、二階の仏道空間に流れているのは、そこは今風に言えばマインドフルネス空間であり「今ここ」空間、坐禅のMomentである。時間的には、お寺の一階はDeep-time、二階はMoment、と整理できる。

「お寺の一階は先祖教」と言ってしまうと、「釈迦牟尼ブッダも、親鸞聖人も、お墓や葬式を大事にしろとは言ってないから、一階は本来の仏教とはあまり関係ない」というニュアンスが漂うが、こうしてお寺の一階をDeep-time空間として見ると、また別の見方もできる。「私」という存在を、自分が生まれてから死ぬまでの時間限定的な存在に閉じ込めるのではなく、未生から死後まで連綿と続く時間の中に照らした上で、生老病死を避けられない自己存在に向き合うという、メメント・モリ空間としての積極的な意味合いが出てくる。浄土真宗では「後生の一大事」と言うが、他者の死を通じて自分の死を真剣に想うところにこそ、信心がはたらいてくる。

そのように考えると、お寺の一階と二階を瞑想軸で捉えることもできるのではないか。二階の仏道空間あるいはマインドフルネス空間においては、言うまでもなく、例えば「Body Scan Meditation(自分の心身と外界の境界線に意識を行き渡らせる瞑想)」などを通じて、私がふだん「私」と当たり前に思っているものの境界を揺さぶることで、自他を溶解させ、自他を切り分ける一般常識的な分別智から離れた「無分別智」へのアクセスを促す。

では、一階は瞑想とは関係ないかといえば、Body Scanになぞらえて表現するなら、「Time Scan Meditation(Deep-time空間に身を浸し、先祖とのつながりを感じるなどして自分の人生を超えた存在に拡張する瞑想)」ともいえる、墓参りや法事といったプラクティスが実践され続けてきたのではないか。マインドフルネスのBody Scanが、私という存在を「皮膚に閉じ込められた何か」から解き放つのと同じように、Time Scanは、私という存在を「誕生から死去までの時間に閉じ込められた何か」から解き放つものとして、実は機能してきたのではないかとも思える。

お寺の一階は、Time Scan MeditationがなされるDeep-time空間で、二階は、Body Scan MeditationがなされるMoment空間、という整理になる。

今回の記事はこの辺で。核心に迫る下記の続編記事も、お読みください!

<お寺の方、宗教者の方へ>
未来の住職塾NEXT R-3は、5/25まで受講生を募集しています。プログラムの中では、この記事で紹介した「日本のお寺は二階建て」フレームワークも活用しつつ、それぞれのお寺固有の現在地と未来の目的地を見定め、その道筋を具体的に描いて行きます。受講期間中には、私(塾長)と塾生のOne-on-one(一対一)のオンライン面談セッションもあります。一緒に未来へダイブしましょう!

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