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布教とは、伝えることではなく、つながること

せっかくの縁を「正しさへの依存」が断ってしまう

先日、どうしても相手を「正しさ」でジャッジして刃物のような言葉で切り捨て、せっかくつながった縁を断ってしまうことに悩む、二十代の青年僧と出会いました。

「宗派の教義と違うことを檀家さんが言ったりすると、”それは違います”とか”宗祖の考えはこうです”と正そうとしてしまう。上から目線で押しつけてはいけないとわかってはいるんですけど。多分、自分がまだ若いが故に、人から舐められたくないとか、一人前と認められたいという気持ちが強いんだと思います」

確かに、若いお坊さんほど真面目で、学校や教団から教わってきたことをそのまま受け止めてしまいがちかもしれません。そして、教わったことをモノサシにして振り回し、他人を裁いてまわる「正しさへの依存」に陥ってしまうことも。かつて、私も今以上にそうでした。(「正しさへの依存」については、以前こちらの記事にも詳しく書きました)

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若さゆえの焦りや力みって、ありますよね。「仏法を伝え広める布教こそ、僧侶の本分」といった使命感に燃え、早く一人前になろうと焦るがあまり、空回りしてしまうようなことが。一生懸命なのはいいんですが、「この四十五分の法話でゴールを決めよう。ここで決めなければもうチャンスはない」みたいに力みすぎてしまうと、相手のことが見えなくなってしまいます。

人の人生には山あり谷あり。相手の価値観や感覚もその都度変わっていくものだし、同じものでも、欲しい時と欲しくない時、受け入れられる時と受けいられない時があります。ボールを持ったらいきなり相手のゴールに向かって一直線に走らなくても、焦らずじっくりパス回しをして、つなげていく余裕が大事なのかなと。

布教とは、伝えることではなく、つながることである。

そんな風に考えるようになってから、私は以前よりも「正しさへの依存」が軽くなったように思います。

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藤田一照さんに教わったFinite GameとInfinite Game

掃除本の取材対談で、藤田一照さんからこんなお話を聞きました。

・世の中には「Finite Game(終わりのあるゲーム、勝敗のつくゲーム)」「Infinite Game(終わりのないゲーム、勝敗のつかないゲーム)」がある。
・パッと見、悟りというゴールを目指すFinite Gameに見えるけど、仏道は実はInfinite Gameである。

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