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翻訳は、スタートライン。とある読書会より。


翻訳は、スタートライン。

「わたしたちは「よき祖先」になれるか?」
『グッド・アンセスター』が読者に投げかけるこの問いに、先祖供養の根付く文化においてこそ、広がりをもった議論で応答できるだろう。過去を振り返る営みにあってこそ、自らの存在もまた、いずれ振り返られるものとして捉えられるからだ。僕自身は、問いの答えをもっていない。ローマンが世に放ったものを、どう読み、受容し、応答していくかが僕が受け取っている縁なのだろう。

出版から3ヶ月あまり。想像以上に、「よき祖先」を巡る対話を様々な人と場面で行ってきた。テンプルモーニングの談話から、企業研修の場、ネット上の反応まで、毎回、みなさんから常に新しい発見やヒントをもらう。都度、咀嚼しながら共有していけるといい。著者のローマンも、フィードバックを心待ちにしてくれている。

先日は、『グッド・アンセスター』を題材にしたとある読書会に翻訳者としてお呼びいただいた。参加者の皆さんが声にしてくれた、とても貴重な感想の一部をここに紹介したい。


未来は、予測も制御も不可能である。不可能生を認識することによって生じる「免責感」が、よい方向にはたらいて、自ら引き受ける本当の責任を私たちにもたらすのではないか。本当の責任は、押し付けられるものではなく、感じるものであり、応答である。
*参考:國分功一郎 著、熊谷晋一郎 著『<責任>の生成』(新曜社)

「いまここ」を内省し、自然と調和した感性を養うことが、長期的な配慮に繋がるのだろう。短期思考と長期思考を対立軸で捉えることには違和感を感じる。いまここを感じる「感性」と、長期計画を立てる「思考」の関係性を考えてみたい。

「グッド・アンセスター」は、個人(私)と社会に橋をかける概念となり得る。政策決定の場に若者が参加する他国の事例(エストニアの「未来省」など)は、既に、「僕らもやってみよう」という具体的な行動への架け橋となっている。社会や地球を思う意識が若者たちの中から湧いている。私たち大人も明るい未来を描きたい。

読了時は、希望よりも不安を感じた。宗教や地域の共同体が失われている中で、どのように異なる世代へのチャンネルを開き、共感をもち続け、自分事にしていけるだろう。

長期思考の概念はわかった。しかし実態として自分自身はそこになく、消化不良を起こしているのが現状。今、自分に何ができるのか。自分ごととして取り組んでいくステップを考えたい。

「長期をみる」を<思考>でアプローチすると、極めて限られた人たちによる議論の内に収まってしまうのではないか。思考で7世代をみるのには限界がある。多様な<感覚・感性>で長期をみることこそ、その本質を広く人々と共有し得るんじゃないか。

「いまここにいない」存在は、大きな力をもっている。かつての上司の発言。歴史上の人物の物語。その究極が宗教であったと思う。かつては皆がカミを信じ、「いまここにいない」カミと共に生きていた。本書は、それに代わる「いまここにいない」存在として「未来世代」を提示している。

感情を共にするシンパシー(同情)というよりも、想像をして応接する「エンパシー」なんだろう。とはいえ、先祖や子孫にエンパシーを感じることはなかなか容易でない。同じ時代を生きる多様な存在へのエンパシーが、過去や未来へ繋がるだろう。


短期思考は場合によって、確かに長期思考と対立軸にあり、本書が示すような綱引きの状態にある。しかし、東洋思想にある「いま」は土地に根付く「祈り」と同じように、いまここにありながらも全方位に回向するものだ。対立軸はなく、過去も未来も「いま」に含まれている。それは、全てを<わかる>こととも違う。一方的に描く未来や抱く共感は、押し付けになりかねない。「未来のため」「誰かのため」と固定するほどに、その解体に手こずる姿を僕らはこれまでたくさんみてきた。作り上げられたものが、負の遺産となることもある。

<思考>で長期をみると、ロジックに沿った計画や契約に縛られる。変わりゆく状況に応じ得るしなやかさと瞬発力は、短期思考とは異なる「いまここ」の感覚から生じている。その感覚をもって広がる視野のもと、深い思考を重ねたい。「いまここ」を見つめる過程で、僕らはどれだけ、無数の、そして無名の祖先たちから受け取っている恵みに気付くだろう。そして、オードリーが「Life is Goodで生きよう、Better Ancestors(よりよい祖先)になっていこう」と言うように、まずは自分たちの素手で触れられる世界を、存分に生きることだ。

あとは、未来や過去や遠くの存在に託して祈りたい。「祈り」は、「Solitude(孤)とSolitude(孤)がSalute(敬意を表)する」関係性で存在を繋ぐ。縛られることのない、"よろこびの長い眼差し" はここから湧き上がってくる。

山に入った時など、地球規模の問題を自分ごとに感じられることもある。けれど、日常に戻ってしばらくすれば、都会暮らしに親しむ自分もいる。自分の中にも異なる様々な分人がいて、なかなか統合することは難しい。異なる分人同士を自分の中に共存させて、対話を続けることが、多様性を受け入れることになるのかもしれない。

一方で、大きく振り子を振るようなことがなければ、変化は起きず現状維持に留まりやすい。分人が対話しながらも、時に振り子を振り切るぐらいのことが必要に思う。その時、怒りによって分人を否定しては、変化もうまい具合にはいかないだろう。


振り子を "振り切る" 必要性は、確かにあると感じた。僕らはともすると、「古きよき日本の○○」という懐古主義的な文脈に甘んじてしまいがちだ。本来そうであったのだから、学び直そう、思い出そうというのでは慰め合っているだけだ。「私たちにこそ、本当の長期思考があったはず」。それは「あったはず」であって、現代の日本社会とそこに生きる多くの僕らには、もはや無いと言っていい。それを自覚することからはじめたい。ヨーロッパの友人たちの話を聞いていて思うのは、未来を見据えて行動している市民レベルの層が厚いということだ。僕らが溜飲を下げて現状に留まっていては、ここに必要な変化は起こらない。今を明らかに見て、ここからどうしていくかである。「僕らは失くしてしまった」そんな振り子を、振ってみる必要があるかもしれない。

その時生まれるであろう、「私」を超えて長く遠くへと意識を向けられる分人と、そうではない分人。自らの中に生じるものは、等しく社会の中にも生じている。異なる分人たちを分断せずに、「エンパシー」で共にやっていきたい。それでもやはり、相手のことはわからない。本当のところはわからない「悲しみ」を含んでもなお、共にあろう。

それを、慈悲というんだろうか。


経験は、感性や思考の幅を広げる。自分の中の分人が増え、想像力は自然と養われる。横に移動するだけでなく、全方位的に様々な立場を経験することは、振り子を振るためにも必要だろう。具体的な方法の一つを最後に紹介したい。

それは、「演劇」というアプローチ。「フューチャーデザイン」のワークショップは、自分が未来世代になって、現代の人と意見を交わす。うっすらではあるが、演劇の要素が組み込まれている。これをさらに深めていくことは、ディープタイムへ誘うだろう。

安易な共感や利他は、善意の押し付けになり兼ねない。その果てしなさを埋める一つの手法が「演劇」にあるのではないか。実感をもって他者を理解するということの難しさを体験しながら、それでもそこに近づいていこうとする学びは、届かぬ存在を包摂して生きることに繋がっていく。専門的な演劇世界に閉じ込めず、「誰もが触れることのできる演劇」が、教育から医療まで、社会の様々な場面に取り入れられていくといい。

友人に、「シアターワーク」という演劇的手法を用いた身体ワークを実践する小木戸利光さんがいる。イギリスの大学で学んだものに、自らの実践による学びを交え、オリジナルのプログラムを創っている。学生から経営者まで集まる人の層は広い。異なる分人を深く感じ、受け入れていくことが、そのまま他者を受け入れることになる。押し込めた生きづらさ解くヒントが、演劇の要素の中にもありそうだ。


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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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