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四方よし

先日、長年親しくしている 一般社団法人 寺子屋経営塾 主催の勉強会で、経営者の方々向けにお話しする機会をいただいた。いただいたテーマは「産業層が語るグッド・アンセスター」だったが、最近考えていることやこれまでのことを整理するとてもよい機会になった。この機会を通じて考えたりしゃべったりしたことを、あらためて言語化してみたい。

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人生100年と言われる時代。この世に滞在する時間が長くなった分、僕らはゆったりと構えて人生を生きているだろうか。どうしたものか、僕はまったくそんな気がしない。より多くのものごとが、より小刻みに迫ってくるような感覚がある。

そんな毎日を生きていて、はたして広い視野で世界を捉えることができるだろうか。目に見える、自分の日常の範囲の向こう。想像できる、自分の人生の範囲の向こう。圧倒的にひろがっている、普段意識している世界の外側をどう捉えるか。それについて『グッド・アンセスター』は、主に時間軸をテーマに問いかけている。

著者のローマン氏は、本書を通して単に「思考の時間軸を広げ、長期思考で世界を捉えよ」と提言しているわけではない。その必要性を問いながら、多様な思想家や政治・経済活動の事例を紹介する一方で、極めてパーソナルな一人ひとりの意識の変化の重要性、個人の内側に湧く感覚の大切さを伝えている。

自分の子どもや、孫やひ孫の未来を想う。先人たちの手がけた創造物の数々に触れる。足元の道に、時代を超えて人々が歩いてきた痕跡をみる。トライ&エラーを繰り返しながら果たされてきた歴史を知る。今、自分が受け取っている恵みの背景に思いを馳せる。そうした身近な体験の中で、時空を超えた人々の祈りや願いを感じたり、発見したりすることがある。この日、勉強会に参加していた経営者の一人は「うまい鰻を今日も食べられる」ことを、一つの大切な恵みとしてシェアしてくれた。うまい鰻について話をしながら、絶滅を危惧されるなか、環境を生き繋いできた種の存在と、これまで品種改良を重ねてきた無名の人々の努力を想う。

「うまい鰻をいただく」ことを起点に、そこには、どこかで区切ることのできない「私たち(=仲間)」が広がっている。僕らは日々、目の前の日常に追われながら、課された役割と責任に必死になって応じているように感じられる。けれど、いついかなる地点においても、そこから眺める過去と未来、地平の向こうと共に生きていることには変わりない。自分が立っている「いま×ここ」は、「今ここ」だけのものではない。共にある過去も未来も地平の向こうも、私たちの一部で「仲間」であるということだ。


振り返ってみれば、自分がこれまで行ってきたことも、ローマンが表現する世界の一端であったように思う。

仏法を人に伝える際の切り口として、自分が扱ってきたテーマの「掃除」は、身の周りのモノを含めた環境、つまり、世界とよい関係を続けていくひとつの方法である。誰にでもできる日々の営みで、道具ややり方に違いはあれど、優劣はない。競争を持ち込もうにも、競うことが意味を成さない。誰かと一緒にやっても気が楽で、いつもとは異なる場所へ赴いて、その場の住人と共にやるのもいい。掃除させてもらうことは、敵意がないことの表明にもなる。仲間の範囲は、何かを一緒に「構築」するわけでない、むしろ、ほどいて分解していく行為からもひろがっていく。

お寺の朝掃除の会『テンプルモーニング』は、「掃除をすること」が目的ではない。告知されたタイミングに集まる方々と、ただお墓やお寺の掃除をし、お経を読み、話をする1時間を繰り返してきた。何気なくその場、その時間を共にする者同士、気の向くままに、ことばを交わしたり交わさなかったりする。掃除する足元や頭上に季節の変化を感じたり、死者を想う日もあれば、何も感じない時もある。参加者それぞれが、それぞれに自由な体験をして過ごしている。僕自身その一人として、『テンプルモーニング』を通して、定義も約束も必要のない、曖昧で緩やかな仲間の存在を感じきたのかもしれない。

ここ1年ほど特に注目している「ヒューマン・コンポスティング」は、微生物の力を借りて、人間の遺体を堆肥化するという葬送法だ。バイオテクノロジーを用いるという点で土葬とは異なるものの、里での暮らしを終えて山へ還っていくというような、かつての日本の風土にあった死生観を、最新の技術をもって取り戻していく動きとも言えるだろう。超高温、超高速で効率的に焼骨し、家の名が刻まれた直線的な墓石に収める現代の死の扱い方は、どうだろう。どこか、生死のあいだ、隣人とのあいだ、血縁の内と外が分断されているような感覚を覚えるのは自分だけだろうか。身体が微生物のはたらきにより、分解されて土となり、いずれ大地に還っていくという死後のあり方は、自己と世界の捉え方や、「今をいかに生きるか」を変えていくだろう。その時、僕らは「仲間」の範囲にどんな広がりを感じるだろう。

最後に、現在取り組んでいる「産業僧事業」では、常に競争に晒される中、獲得や達成の目的意識に追われる経営者の方々や、企業の現場で働く人々と「背負った荷物をいったん下ろす(課された役割からいったん降りる)」時間を共にしている。一人の人間のもつ関係性や、存在価値の発揮される場は無数にあって、仕事場や所属先は、そのうちの一つに過ぎない。わかりやすい社会的役割を降りたときに見えてくる、足元にひろがる開かれた領域を思い出してほしい。

家族、勤務先、暮らす町、さらには私の一生も、一つの仲間の枠に過ぎない。仲間の範囲、世界との関係性は、どこまでも広げることもできるし、狭めることもできる。つながる縁に、限りはないのだ。


日々、死を扱ってきた僧侶が「そこ」に関わることで、生じる変化があるように思う。少し乱暴なことを言ってしまえば、「僧侶の姿」をしているだけでも起こるはたらきがあるだろう。世界の老舗企業の7割が日本に存在すると言われるが、神社仏閣も、僧侶の存在も老舗の一部と言えるだろう。「いかにして自分の預かるもの(価値)を次世代に渡していくか」。預かりものの中身や価値は多種多様ながら、どの時代においても、私たちがそれぞれに取り組んできた普遍的で本能的なテーマである。このテーマの連鎖は、更新され続ける歴史そのものかもしれない。私たちの誰もが歴史の一部、「アンセスター」としてこの世を形成している。

「三方よし」(買い手よし、売り手よし、世間よし)とは多くの老舗を支えてきた近江商人の精神だが、地元滋賀で商いを手掛ける人生の大先輩から「近江の地では、実は "四方よし" と言われてきたんや」と伺った。「三方に "仏法よし" が加わったのが "四方よし" らしいのだが、どういうことかは僧侶のお前が考えてくれ。」と。大先輩からの問いかけに、自分なりに考えている。これは、神仏たる大いなるはたらきを敬うということであると同時に、亡くなって往生する(仏となる)死者を敬い、先祖に問うて判断するということ、さらには「山川草木悉皆成仏(人間のみならず、すべては仏の現われである)」というように、"四方よし" の先は万物に向けられているということではないか。つまり、仲間の範囲を、過去から未来、見えるものから見えないものまで、種を超えてどこまでもひろげていくことではないか。

私として、僧侶として、私たちとして、あちらこちらへ赴き、様々に役割を変えながら問いに答えていきたいと思う。近く、ローマンを訪ねる予定だ。出版後の現在進行形の展開を、ぜひゆっくりと語り合いたい。



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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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