Sense of Wonder
「人新世」を前提とした環境保護のメッセージが、人間中心主義を助長することとなり、逆説的に、人類文明の崩壊を加速することになるのではないか、という話を、書いてみる。
マルクス研究者の斎藤幸平さんの本のおかげで、「人新世」という言葉がずいぶん広まった。ひとしんせい、とか、じんしんせい、とか、今のところどちらの読み方でも通用しているようだ。
「人新世」が語られる場面では、多くの場合、人類の活動が地球環境に及ぼす影響が極めて大きくなっていること、そして、従来のように地球環境への影響を無視した人間の生き方や政治経済の仕組みを改め、地球環境を配慮した人類の活動へとシフトチェンジする必要があるということ、が併せて指摘される。
しかし、この「人新世」を強調しすぎると、かえって「地球環境に配慮しなければならない(なぜなら、今や人間が地球の支配者であるのだから)」というプロパガンダを暗に強化してしまうことにもなりかねないと、危惧している。その結果、皮肉にも、地球環境をも変えられるほど支配的な力を持っていると勘違いした人間が、ますます増長して、人間同士の事柄にばかり拘泥する危険性もあるように思う。
それは、人間中心主義を助長することでもある。
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『崩壊5段階説: 生き残る者の知恵』(ドミートリー オルロフ 著、大谷 正幸 訳、新評論)という本を読んでいる。
金融に始まり、商業、政治、社会、そして文化の崩壊という、現代人の生存基盤が段階的に崩壊していく様を丁寧に描き出した論考だ。マイナーな本だけれど、著者の研究成果や実体験も併せて丁寧に語られており、読者は崩壊をリアルに感じられる面白さ(と怖さ)がある。
この本では主に、人間によって生み出されたシステムの崩壊が描かれているけれど、それとて長い年月をかけて高度に複雑化して、もはや誰か個人(もしくは集団であっても)がその全体像を確かに把握して、壊れた時に修復できる道筋を示せるようなことは、期待できない。ましてや、未だ自分の体内の細菌のことさえコントロールできない人間が、この複雑で精緻や生命システム全体のコントロールなど、できようはずがない。
僕たちが皆それに依り、自らもその一部を構成している、この生命システム全体は、極めて微妙なバランスで成り立っていて、思いがけないことが崩壊へのトリガーを引くことにもなる。
100年以上も前にエコロジーの概念を日本で提唱したことで知られる孤高の天才、粘菌学者の南方熊楠もそのことを説き、命懸けでそれを守ろうとした。今、人新世という名の人間中心主義が強まる時代において、熊楠のように、人間を中心に置かない(かといって、粘菌など、何か他の種が中心というわけでも、もちろんない)世界観におけるエコロジー思想が、世界にとって大事なのだと思う。その時の「世界」はもちろん、人類世界ではなく、生命世界のことだ。
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人間中心主義が強化された結果、必然的にもたらされるものがある。陰謀論だ。
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