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サウナの満たした潜在需要(私たちを取り囲む優しき世界)

週に一度か二度はサウナに入る。最近は通勤途中で下車して立ち寄る「かるまる池袋」がお気に入りだ。

もしサウナがなかったら、僕はいま人生に迷っていたんじゃないかという気がする。
いまも全く迷っていないとは言い切れないので「より迷っていた」という表現が的確かもしれないけれど、でもまあとにかくサウナは、自分の人生の方向性を整えるために役立っている。

そして、実はそういう人って多いんじゃないかなと思っている。サウナがこれだけ流行っていて、一時のブームとして下火になっていく兆しが見えないのは、サウナがなんらかの潜在需要を満たしているからなんじゃないだろうか。


サウナ欲が生まれるとき

どうしようもなく日常に疲れを感じるときがある。
精神の消耗は、主に人と人とのコンフリクトによって起きる。その多くは努力によって回避することが難しく、回避が正解にならないケース(どうせぶつかるのなら早急にぶつけてしまった方がいいという場合)も多い。

そんな日々が積み重なってくると、サウナに行かなければならないという切迫感のようなものが芽生えはじめる。長く潜水しているとき、水面の酸素を欲するみたいに。

端的に言えば、もちろん「安らぎを求めて」ということになるのだけれど、サウナには「安らぎ」という言葉で簡単にまとめられないような何かがある。

たとえばこんな感じに表現するとしっくりくる。

『我々は日々を過ごすことで、少しずつ何かを失っている。しかしサウナによって、それを取り戻すことができる』

我々は日々、何を失っているのか。
そして、安らぎを経て何を取り戻しているのだろうか。


我々が日々失っているものたち

先日テラスハウスを見ていて、ある女の子が号泣している姿が強く心に残った。
番組で放映された、その幾分悪意ある編集によって描かれている過去の自分自身を見て、そして追撃のようにネット上で叩かれたことに対して「この家つらすぎる」と泣いていたのだ。

どんなことになっているのかなとSNSを検索してみると、そこには本人だったら耐え難いような言葉がたくさん並んでいたのだった。

いま世の中は、こういった類の厳しさに満ちている。

批判を避ける位置に陣取って、批判を受けない場所から攻撃をするのが、みんな上手だ。

実際に叩かれている人たちは言う。
叩いてる人は軽い気持ちで書いてるんだよ。だから気にしてたらキリがないし、重く受け止める必要はないよ、と。

確かにそうだ。そうなのだけれど、やっぱり言葉の持つ直接的な鋭さって奴はあって、それは確実な身体的痛みを与えてくるのである。

身体は痛い、でも心は平気。
そうして身体と心が乖離していく。


SNSだけの話ではない

人は成長する。たとえば30歳の頃には「そうだよね!」と互いに共感できていた共同体も、30代後半になると、そう簡単には動かなくなる。

それぞれに、それぞれの専門分野が出来てくると、その専門分野に基づいて否定しあうことが多くなる。日常は否定に満ちていく。そしてそれは、正しい成長の証でもある。

否定されたからといって、傷ついていてはいけない。だってそれは正しいことなんだから。議論は交わされるべきだし、個々人の蓄積は正しく組織に生かされるべきだ。

身体は傷つく。
心は、傷ついてはいけないのだと我慢する。
そうして身体と心が乖離していく。


そこにサウナがある

サウナは熱く、水風呂は冷たい。
当たり前のように、身体的な熱さは心情的な熱さと結びつき、身体的な冷たさが心情的な冷たさと結びつく。

そう。サウナに入り、水風呂に入るという行為は、日常で乖離した身体と心をひとつに結びつける行為なのだ。

鬱は心の不感症のことだと思う。身体のつらさ(=本来的な心のつらさ)が、理性によって押さえつけられたとき、人は沈んでゆく。
どこまでも沈んでゆき、やがて伸びきったバネが壊れてしまうようにして、元の状態が分からなくなってしまうのだ。

水風呂に入った後は、寝転がって休む、いわゆる「ととのう」フェーズが待っている。
この瞬間に、我々は真理にたどり着くことができる。全ての条件が整ったときの「えも言われぬ快楽」の後、心と身体が一致した、完全なる一個人として、真の意味で「正しき思考」を巡らせることができるのだ。


僕のサウナの入り方

無理をせず何度でも、というのが僕のスタイルだ。

まずは風呂で(多くの場合は炭酸泉で)身体を温める。少し汗が滲んできたら、水を飲んでからサウナに入る。

サウナでは時間を見るのではなく、自分の身体と会話する。
汗が滲んできたら、おおよそ半分といったところ。
そこからしばらくして、水風呂へと向かう。

水風呂では、指先や足先の痺れと会話をする。
痺れてきたなと思ってから、しばらく我慢をして出る。

休憩フェーズでは、身体全体の感覚と視界の揺らぎを楽しみつつ、肌寒くなってきたら次のサイクルに移行する。

1サイクル目は各時間が短い。
3サイクル目になって、ようやくサウナ10分、水風呂60秒からの休憩、という自分にとって最もよい流れが成立する。

何にせよ、時間よりも自分の身体と会話することが重要だと思っている。
なぜなら「ととのい」は手段であって、目的ではないからだ。


私たちを取り囲む優しき世界

生きるというのは、それだけでときに厳しい。
しかし、世界は常に、私たちを優しく取り囲んでいる。

気づこうとしなければ、気づけないかもしれない。

だからといって、閉じこもっていてはいけない。
あなたを今日の闇から救い出す何かは、必ず日常の中に潜んでいる。

人によって、それはサウナかもしれない。
それは、ミニスカートかもしれない。
それは、ヨハン・シュトラウスかもしれない。

どうしようもなく落ち込むこともあるけれど、どうしようもなく沈み込むこともあるけれど、抜け出すきっかけは必ず、神さまによって与えられている。
だって全てに触れたなどとは到底言えないほどに、世界は未知の喜びに満ちているでしょう?

そう、生きるというのは、それだけでときに厳しいけれど、もしかしたら簡単なことなのかもしれない。

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