PTAの経済学

今学期が終わりました。夏のネパールでの調査の失敗が尾を引き、なかなかに酷い学期でしたが、来学期は遂にComprehensive Examなので、気を取り直していきたいものです。来年の夏の調査は上手くいくよう頑張りますので、NGOの支援の方もよろしくお願いします(NGOの方でとてもインフォーマティブな有料ブログを始めたのでそちらもぜひ→https://note.com/sarthakshiksha/m/mcfe0d7a92fb0)。

今学期はミクロ経済学の授業を受けていて(今更感がありますが…)、これはひょっとしてPTAを考察するモデルになるんじゃないかというトピックが最後の授業で出てきたので、ここ数年日本でも話題になっているPTAについて、そのモデルを基に私なりに考えたことを少し書き留めておこうと思います。

税の物納(In-kind tax)とは?

ミクロ経済学の授業の最後のトピックが労働供給でした。労働と余暇の選択が主なトピックではあるのですが、ここで税の物納の話も出てきます。

労働と税の物納なんて何の関係があるんだ?ましてやそれとPTAが何の関係があるんだ?と言いたくなるところでしょうが、モデルや行列・微積を使わずに簡単に話を進めていくので、少し我慢してお付き合いください。

まず最初の疑問、労働と税の物納ですが、歴史の授業はずっと寝ていたという人でなければピンと来るはずです。そうです、大化の改新の辺りで出てきた租庸調ですね。租が年貢、調が布ないしは特産品でしたが、庸は労役または代納物で、万葉集に出てくる防人詩はこの庸を象徴するものでした。

貨幣経済がそれほど発達していない地域では、例えば現代でも途上国の農村部で見られることもありますが、税として労役、すなわち労働力を納めることがあります。この労働力の使われ方は防人のような軍事であったり、道の普請のような公共事業であったり、学校のような公共物の管理運営だったりします。

現代にも存在する税の物納のたぐい

これだけ貨幣が世の中に広く行き渡った現在では、政府への税の物納は基本的に無くなりましたが、税の物納のたぐいは実は依然として存在しています。例を挙げてみましょう。

私は田舎の出身なのに、日本で働いた経験が無いので、ちょっと事例が分かりづらいものになっているかもしれませんが、今でも日本の田舎の方に行くと、町内会(自治会)による江浚いがあったりします。都会の人には聞きなれない単語かもしれませんが、どぶ掃除のことです。

もちろん、私の地元にもあります。うちは長男がずっと海外をほっつきまわっているため苦笑、還暦を無事に超えた母親が江浚いに駆り出されることになります。どぶ掃除は結構な重労働なので、お金を出してあげるから便利屋さんを頼んで代わりに行ってもらうと良いよと長男が申し出たら、バカな事をと一蹴されました。国連職員の様に年収が1千万を超えるならまだしも、田舎の中小企業の一般的な給与しかもらっていない母親のあなたがそんなに仕事に責任感を感じる必要も無く有給は労働者の権利なのでもっと自由に取れる物なんやでと長男が教えてあげたのに、バカな事をと一蹴して休むことなく働きづめの母親なので、長男と母親のどちらがバカなのか疑問に残る所もありますが、ここで重要なポイントは、金銭や他人による代替が不可能な労働力によるコミュニティへの貢献(税のようなもの)が求められることが、現代でも存在しているという点です。

ちなみにですが、私の地元ではお宮当番なる、江浚いとは別の税の物納のたぐいが存在しています。要は大晦日に地元の神社で何か色々やったり、神社の掃除をしたりする当番です。信仰の自由はどこに行った?、という感じもしますが日本の田舎の現実はそんなものでしょう。

話はミシガン州立大学の一教室(まあ、ここも田舎ですが)に飛びますが、ミクロ経済学の授業の先生によると、先進国で現在でも見られる税の物納の類というのは、主に学校と宗教(教会ですね)なのだそうです。ミシガンと岐阜の田舎は1万キロ以上離れていて、信仰も全く異なるのに、宗教関連で税の物納のたぐいが存在するという共通点を持つのはとても興味深いですね。

税の物納の非効率性パラドクス

勘の良い読者の方なら、私と母親のやり取りで気が付いたと思いますが、税の物納には非効率性が付きまといます。還暦を過ぎた母親の身体的な強さを考えれば、当然ですが母親が直接どぶ掃除に従事するよりも、同じ時間だけ働いた給与で便利屋さんを雇って、どぶ掃除を代わりにやってもらった方が圧倒的に効率が良いはずです(ここでは、お前が帰国すればええだけやん?、というツッコミはガン無視します)。

ここで話をより教育経済学的にしたいと思いますが、人的資本(ここではスキルと言い換えても良いでしょう)には、汎用性の高いものと、職種や企業に特化したものがあります。そして、人的資本は学校だけでなく、労働を通じても蓄積されるものなので、ほぼ全ての人がある程度は後者のタイプのスキルを蓄積しており、それが賃金に反映されているはずです。簡単のために例を使いましょう。

私の国連職員時代の時給が1万円だったとします(こんなに高くないですよ、念の為)。その内訳として、語学力や統計スキル、教育分野の専門性といった、国連の外へ行っても活用できるものに対して9千円が支払われていて、内部書類の書き方や内部プロセスへの精通度合いといったどうでもいい、どうでもいいなんて言ってはいけませんね、心底どうでもいいものに1千円が支払われているとします。

私がPTAに一時間参加したとします。前述の仮の話のように私は汎用性の高いスキルを持ち合わせているので、PTAへの参加で9千円分のバリューを出せます。しかし、1千円分のスキルは国連以外では使えないスキルなので、PTAへの参加ではこのスキルを活かすことが出来ません。

ここにPTAの専門家がいて、私と同様に時給1万円で働いてくれて、ちゃんと1万円分のバリューを出してくれるものとします。

この状況から分かるかと思いますが、特化型スキルの大きさ分だけ、私がPTAに1時間参加するよりも、私が国連で1時間働いて、そのお金でPTAの専門家を雇う方がベターな選択肢になります。

貧困対策には現金をあげるのが良い、というのは近年の国際協力の潮流ですが、どうしても物を納めたり配ったりすると、上記の例のような非効率さが存在してしまいます。この非効率さがある分だけ、やはり現金は強いということになります。

しかし、その先生曰く、ここでパラドクスが生じるようです。教会に対して現金で税のたぐいを支払う方がベターな選択肢であるにもかかわらず、一般的に教会に対して税のたぐいの労働による物納の方が好まれているらしいです。なぜ現金の方が効率が良いのに、労働による物納などと非効率なものに拘るパラドクスが生じるのでしょうか?

社会関係資本と税の物納の非効率性パラドクス

真っ先に思い浮かんだのが、バチです。自分が神様のために働かずに、代理に誰かを働かせるとバチが当たると考えるなんて米国人もカワイイなと思ったのですが、そんなわけあるかと2秒後に自分に突っ込みました。

次に思い浮かんだのが、Blood, Sweat, and Tearsです。日本語でそのまま血と汗と涙ですが、額に汗水たらして働くことは尊いというのは米国人の規範である、と学内の米国人から聞いた事があります。なるほど、神様への奉仕を金で済ますのではなく、額に汗水たらして奉仕することを貴ぶというわけかと納得しかけました。しかし、先に言及した日本の税の物納の事例を考えると、あまりこの血と汗と涙仮説は当てはまりが良くないことに気が付きました。

教会での奉仕活動・お宮当番・江浚い・学校運営、この4つに共通するものは何か?何でしょうか?

・・・そう、開発経済学でもおなじみのSocial Capital (社会関係資本)です。社会関係資本とは何ぞやというのを説明しだすと文字数を恐ろしく喰うので詳細はググってもらうとして、物凄くザックリと社会関係資本の蓄積を説明すると、人間関係がより密になることによって生産性が高まることを指します。

あまりにもザックリし過ぎだと反省したので具体例を出してみます。ここに人間関係が希薄な農村が存在したとします。このような農村では、例えばAさんがインフルエンザに罹ってしまった時に田んぼは荒れ果ててしまいますし、耕運機が故障したら新しいものが来るまでに土地が荒れてしまうかもしれません。しかし、人間関係が密な農村であった場合、Aさんがインフルエンザに罹った時に、困った時はお互い様だとBさんとCさんが助けてくれて収穫量を維持できるかもしれませんし、耕運機が故障してしまっても新しいものが来るまで、Bさん・Cさんが耕運機を使用していない時間にAさんに貸してあげて、土地の劣化を防いで収穫量を落とさずに済むかもしれません。

例に挙げた4種類の税の物納を考えると、それぞれが人と人が顔を突き合わせて共通の利益(要は公共財)をどうするか議論して人間関係を密にする働きがあります。

再び畠山とPTAの例に話を戻すと、確かに畠山単独では国連に特化した1千円分のスキルの存在により、税の物納よりも現金で納めた方が効率が良いのですが、仮にこの社会関係資本のバリューが1千円を僅かにでも超えるものであれば、現金で納めるよりも物納の方がベターな選択肢となります。これが正しいのであれば、PTAへの参加を現金で代えるのではなく、半ば強制的に参加を促してくる労働力の物納メカニズムが存在するのもうっすらと理解できます。

PTAの経済学ー日本で繰り広げられている議論の妥当性

社会関係資本仮説が当たっているものとして、ここからは仮定の話を進めていきます。

日本でPTAに関する議論というと、木村草太先生が著名です。同じくシノドスに寄稿していますし、幅広いトピックで厳密な議論を積み重ねられている凄い先生です。ググっただけでもPTAに関してシノドスを含めて次のような議論をされています。

どこからがアウト? 法律からみたPTA――憲法学者・木村草太さんに聞く

憲法学者・木村草太氏がPTA問題に答える(上)「PTAフォーラム」で参加者との間で交わされた質疑を紹介します

憲法学者・木村草太がPTA問題に答える(下)「PTAフォーラム」で参加者との間で交わされた質疑を紹介します

この3つの記事の真ん中の物の4ページ目に、木村先生の議論の核心に触れている箇所があります。

近代憲法学では、「離脱不能な身分集団から個人を解放する」ということが最重要の課題です。(中略)離脱不能な集団は、個人に不合理なことを押し付けがちです。PTA が離脱不能な集団になってしまっていることが、パワハラとか、登校班問題とか、多様な症例を生んでいると言えるでしょう。離脱が可能な集団であれば、あまりに不合理な運営をすれば、みんな離れていくので、運営する側も魅力的な集団になるように努力せざるを得ません。

この議論、全くもってその通りだと思います。しかし、それと同時に、PTAが社会関係資本を生み出す装置であったとすると、木村先生の議論だとその点がさほど考慮されていないので、制度設計をちゃんとした上で任意加入ではない形のPTA制度を存続させなければならないとも考えられます。

実際に、日本人が大好きな「ハーバード式・シリコンバレー式教育」の歪みと闇という原稿でも米国の教育システムを説明しましたが、米国の学校の基本はneighboring schoolであり、直訳すると分かるように、近所の人達が顔を突き合わせて議論して学校運営を決めるというシステムで、まさに社会関係資本の蓄積に資する、というよりもそれを目的とした共同体の中の学校であることが分かります。

しかし、このPTAの制度設計、パラメータを少しいじれば結果が全然異なることから分かるように、全国画一的な制度ではまずもって機能しないことが分かります。

まず、人口の流動性が高い場合、人の入れ替わりが激しいがために、PTA活動を通じて顔を突き合わせていても社会関係資本が蓄積される前にリセットが起こってしまいます。これは米国が都心部を中心にチャータースクールなどを導入して、脱neighboring schoolを進めていることからも読み取れることです。

次に、住民の不労所得が高いような地域でも、PTAはあまり合理的ではない選択肢になる可能性があります。住民が2万円/時稼いでいて、その内訳が汎用的スキルに拠るものが9千円、非汎用的人的資本に拠るものが1千円、不労所得(非人的資本)に拠るものが1万円だったとします。そして、PTAが生み出す社会関係資本のバリューが2千円だったとします。この場合、PTAに参加することによって、1.1万円のバリューが生み出されますが、2万円で専門家を雇った方がより効率的になります。

また逆に、不労所得の多い豊かな地域であっても、そもそも専門家の労働市場が無い地域もあるでしょう。例えば、私の地元では最近太陽光発電がブームで、不労所得が多そうな人たちを見かけますが、あんな田舎に教育マネージメントの専門家なんていないですし、私が川島屋の草餅に誘われて帰国でもしない限りまず専門家もこないでしょう(同級生のお店ですが、本当に美味しいので、おちょぼ稲荷参拝の際には是非!)。

ザックリまとめると、栄えている都心部ほどPTAという制度は機能しづらくなるはずですし、逆に田舎ではPTA制度を改善した上で存続させる方が吉であるケースが多いはずです。

PTAの経済学ー途上国での参加型学校運営

国際教育協力の文脈で言うと、参加型学校運営がこの議論に当てはまるはずです。参加型学校運営とは、要は住民による学校運営のことで、政府が全部やってあげるよりも、住民が学校建築などに参加した方が、自分達の物であるという意識が芽生えてより良い学校運営になるというものです。

参加型学校運営への批判として、本来そのコストは政府が負担するべきものであり、このような運営形態はネオリベ的な搾取に過ぎないというものです。

確かにこの批判は、参加型学校運営が上からの押し付けで、学校運営によって住民たちの間に社会関係資本が蓄積されない場合、妥当なものとなります。そんなことあり得るのかと思う方もいるかもしれませんが、全然あり得ます。

分かりやすい例が、Naidoo (2005)の議論です。このNaidoo論文はGSICS在学中に読んだのですが、その時は、後にユニセフ本部で彼と同僚になり、教育統計を教えてあげることになるとは夢にも思いませんでした苦笑。それはさておき、貧しい地域ほど、住民の教育水準は低くなります。そのため、そのような地域で住民参加型の学校運営、すなわちPTAを促進したとしても、教育水準の高い教員や校長が議論を独占するという現象が起こりやすくなります。そして、この現象が起こってしまった場合、住民は議論に参加することなくただただ取り残されるだけなため、社会関係資本が蓄積されることが望み薄となってしまいます。

また、コミュニティの中に既に存在する力関係が学校運営に持ち込まれてしまった場合にも(例えばやたらと強い村長や、宗教リーダーなどがしゃしゃり過ぎてしまう場合)、コミュニティメンバー間での対話が阻害されるので、社会関係資本の蓄積に学校が貢献することは難しくなります。

もちろん、参加型学校運営によって教育の質そのものが改善するという点が最重要ではありますが、ネオリベ型搾取へと堕させないためには、如何にすれば住民学校運営が社会関係資本の蓄積に貢献するのか?というのも一つの重要なポイントとなるでしょう。


特にまとめることもありませんが、普段とてもお世話になっている大学院の先輩が、途上国の学校に対するin-kind subsidyをpublic-private partnershipの観点から研究をされていて、変わったトピックで研究しているなと思っていたのですが、今回改めてin-kind(物納)の面白さと深さに気が付いたので、この場を借りて変わっているなと思っていたことを謝罪したいと思います笑。

あと最後になりましたが、念の為。今回の記事で出てくるPTAは、Parent-Teacher Associationの略であり、パフュームのファンクラブの話ではないので、念の為。

サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。