見出し画像

スポーツにおいての「エビデンス」との向き合い方

「科学的根拠」「エビデンス」という「響き」に騙されてはいけない。

トレーナー業界ではあるあるですが、処方するエクササイズの「エビデンス」=「根拠」について話題になることがよくあります。

エクササイズの頻度、重量、フォーム、順序、など、すべてに「根拠」がない場合は、良いエクササイズとは認められにくく、中には、エビデンスがないエクササイズは処方してはいけない。このような主張をするトレーナーさんもいらっしゃいます。皮肉をこめて「自分の勉強不足」という言葉を使うのをよく見かけます。

このような主張をする傾向は、「科学的根拠がある」=「正しい」という認識をもっている人に多く見られ、同時に、「科学的根拠がない」=「間違っている」という認識をしています。

トレーナー業界に限ったことではありませんが、その他の場面でも「科学的根拠」という言葉が持つ力は大きく、人の判断基準を大きく司ります。

しかし、「科学的根拠」や「科学」の意味合いをよく知らない方が多いのも事実だと思います。上記のような、「科学的根拠がある」=「正しい」という認識をしてしまうということは「科学」についてよく知らないことの表れでもあります。

「カガクテキコンキョ」という’響き’に騙されないように「科学」とは何かを分かりやすく説明していきます!

「科学的」とは?

「科学的」とは、わかりやすく言い換えれば「誰でも再現できる」という意味です。

例えば、「ゆで卵」をつくる際に、何分ゆでるのか?で、黄身の方さが変わってきます。「半熟のゆで卵にする」をテーマに「科学」するなら、何度も卵をゆでてみて、ゆで時間やお湯の温度、火加減など、様々な環境を調整すると、ある「傾向」が見えてきます。

「だいたい〇分茹でると、半熟になる。」ということが分かってきます。研究者がやっていることは、この実験の繰り返しとデータの取得です。そして、これをまとめて「論文」という形式で発表すると、料理する人は、「だいたい8分ゆでると半熟になる」ということが分かり、「誰でも半熟卵が再現」できます。

「論文」で発表されたということは、「約8分ゆでると半熟になる傾向がある」ということが、「エビデンス」として認められたということです。

もし「エビデンス」を知らずに、半熟卵を作ろうとしたらどうなるでしょうか?

卵の中の状態が分からないまま、なんとなくのゆで時間で引き上げるために、「10人が挑戦したら、10通りのゆで卵が出来上がる」でしょう。なかには黄身が固まり切っていたり、まだ白身も固まっていないゆで卵もあるかもしれません。この状態は、「だれでも再現できる」とは言えないので、「科学的」ではないということになります。

分かりやすさのために、「ゆで卵」を例に挙げましたが、これが、「チャーハン」、「ラーメン」、「肉野菜炒め」などになるにつれ、具材、調味料の種類、火加減、入れる順序、入れるタイミング、調味料の分量など、「変数」が多くなるので、複雑な実験ということになります。

したがって、「料理のレシピがある」ということは、「エビデンスがある」ということに近いです。レシピを見ながらその通りに料理すれば、だいたい同じ味に落ち着きます。これは「誰でも再現できる」=「科学的」ということに極めて近いです。※正確には「実験」と「データ」をとっていないレシピがほとんどなので「エビデンス」ではないです。

スポーツ、トレーニングにおいての「科学」とは?

「科学的」ということがどんなことかはなんとなく理解できたと思います。これをスポーツやトレーニングに当てはめていきましょう。

「ジャンプ力を上げる」というテーマがあるとして、どんなトレーニングを処方しますか?

「スクワットをやらせる」「垂直飛びをやらせる」「ボックスジャンプを繰り返す」など、ジャンプ力を上げるために役に立つであろう方法やアイデアはたくさん出ると思います。

しかしアイデアが出ただけでは、ゆで卵の例でいうところの、「半熟にするには、7分か?8分か?9分か?どれかであろう。」ということを羅列しただけと状況と同じです。どれも半熟になりそうだけど、何分が最適なのか?はやってみないと分からない。

スクワット、垂直飛び、ボックスジャンプ、どれもジャンプ力上がりそうだけど、どれが最適かは、やってみなければわからない。こんな状況の時に、「論文」が出ていたらどうでしょうか?「スクワットを体重の○○%で、週に○○回実行したところ、スクワットをやらなかった群よりも、垂直飛びの記録が○○%優位に高かった」のように、様々な研究論文が存在します。

これを参考にすれば、「やってみなければわからない」ことを、研究者がある程度近いことをやってくれているので、エクササイズに優先順位が付いたり、エクササイズの根拠ができ、トレーナーもクライアントも納得感が生まれます。

逆に、「エビデンス」を知らない場合、エクササイズを処方する根拠がないので、本当にジャンプ力が上がるのかは「やってみなければわからない」ということになります。

ここまでを理解すれば、序盤で言及したように、「エビデンスがないエクササイズは処方してはいけない。」という意見にも同意できるのではないでしょうか?

しかし、これに「完全同意」するのは少しちがうので注意が必要です。「科学」の本質を「誤解」していることになってしまいます。

鋭い方はもうお分かりだと思いますが、丁寧に説明していきます。

「科学」は「正解」ではない。

「エビデンス」は重要だ!「エビデンス」がないものは、「やってみなければわからない」ものだから無責任だ!

という意見は一見正しく見えます。事実「エビデンス」が役に立つケースは多くあるので、多くの「エビデンス」を知っておくことは非常に良いことです。

しかし、「エビデンスがある」=「正しい」、「エビデンスがない」=「間違っている」という見方は、実は大きな間違いです。しかし、多くの方が、このように認識してしまっています。

「科学」=「データから導かれた正しい事実」

一見正しい解釈に見えてしましますが、実は、2つの間違いが含まれています。

1つ目は、「正しい事実」という解釈です。

ゆで卵を例にとれば、ちょうどよい半熟にするには、実験を重ねた結果、「だいたい8分くらい」だったのが事実です。なので、厳密に言えば、「約8分くらいで半熟になる可能性が高い」ということが分かったということです。必ず8分ということではなく、だいたい8分という「傾向」が分かっただけです。

あくまで、「科学」というのは「傾向」を示すもので、「正解」(絶対的なもの)を示したことにはなりません。

したがって、科学的根拠があるというのは、「正しい事実」ではなく、「だいたいの傾向がある」というニュアンスで使うのが正解です。

2つ目の間違いは、「データから導かれた」という部分です。

「科学」というのは、実験してそのデータを基に、「事実」が導かれると認識している方が多いですが、これは「科学」ではありません。

「科学」というのは、まずはじめに「仮説」があり、その「仮説」をどうにか証明するために、実験してデータを取っています。

分かりやすく言えば、「仮説」というのは、「8分くらいゆでれば、ちょうど半熟になるんじゃね?」という予測のことです。

これを証明するためには、いろいろな時間でゆで卵を作り(実験)、何分茹でたら、どのくらいの固さになったのかを記録します(データ)。このデータをまとめて、「8分くらいゆでれば、ちょうど半熟になるんじゃね?」という「仮説」が、「8分くらいゆでれば、ちょうど半熟になる確率が高い(傾向がある)」という、「信憑性の高い仮説」に昇格します。この状況を「エビデンスがある」と表現しています。

「仮説」がなければ「科学」ではなく、「仮説」はどこまで行こうと「仮説」の域を出られないということです。

データから導くというのは誤解で、自分の仮説に信憑性を持たせるためにデータを取っているのです。

また、「仮説」はあくまで「仮説」なので「定説」になることはありません。ゆで卵も、卵の大きさが時代とともに変化すれば、「9分で半熟」に変わる可能性があります。

常識や教科書の内容が常に変わるのはこのためです。より有力な仮説が証明されれば、今まで「エビデンス」があり、「正しい」とされてきたことが一転、「間違っている」と認識されることがあります。

すなわち、「根拠」というのは、「絶対的な事実」ではなく、優位に証明された「仮説」。

もっと優しく言えば、「たぶん○○効果的だと思っていろいろ実験したら、やっぱり○○が効果的な確率は高かったよ!」というお話です。

なので、「スクワットしたら垂直飛びが絶対に伸びる」のではなく、「スクワットしたら垂直飛びが伸びる可能性は高い」という解釈が正解です。

「エビデンス」との距離感

「エビデンス」があるというのは、言い換えれば、「確率が高い方法である」ということなので、「一つの方法として引き出しに入れる」のが良い距離感です。

距離感が近すぎると、「エビデンス」=「正しい事実」と解釈してしまい、ある「仮説」を妄信する状態になるので、逆に望むような成果を導きにくくなったり、疑うことができず「鵜呑みにする」思考停止を招きます。

また、場合によっては「エビデンス」がないことを「悪」とみなしてしまいます。「エビデンス」も「仮説」にすぎないことを忘れている証です。

距離感が遠すぎると、すべてが「感覚」「経験則」での判断になるので、成果を導くのにかなりの「才能」「センス」が必要です。

想像してみてください。いきなり自由に絵をかかせて、誰もが認めるほどの絵を描ける人はまれだと思います。まずは、いろいろな方法論(有力な仮説)を学んでから絵が上達すると思います。人に説明する際も、「根拠」「要素(重要なポイント)」などを伝えにくいです。

有名なところでいえば、長嶋茂雄さんの指導での「ガッといってバッとやるんだよ」のような感覚的すぎる指導では、伸びる選手と伸びない選手が大きく分かれると思います。

選手としてはどう解釈するのがベスト?

どの練習をしたらどのような能力が向上するのか?

これは、複雑な要素が絡み合っているので、ポイントだけ明確にすることはできません。

「エビデンス」(確率の高い方向性)はたくさん知っておいて損はないので、それに沿った練習を軸にすれば、「大きく間違った方向」に進むことはないのではないかと思います。

しかし、同時に「エビデンス」が自分の理想に連れて行ってくれることを「保証」するものでもないので、「可能性」の模索、試行錯誤を繰り返すことも忘れてはいけないと思います。

「エビデンス」では○○と言われていても、実際に○○が自分の感覚と合わなかったりする部分はあると思います。

ひとつ言えることは、無意識の状況でのパフォーマンスの方が、何かを意識しているときよりも高いのは事実です。立ち止まって考えることも大切ですが、同時に「感じる」ことも大切です。

練習ではあれこれ試行錯誤し、試合では、「楽しむ」ことに重きをおくと、うまくいく確率は上がるのではないかと思います。

まとめ

「科学的根拠がある」=「正しい」ではない。

科学的混世は、確率の高い「仮説」

「仮説」は「定説」にはなりえない。

「仮説」はひっくり返る。(今日の常識は明日の非常識)

「科学的根拠」は引き出しに入れて参考にするくらいがちょうどいい。

結局は「仮説」なので、その時代の「流行りの考え方」





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?