アクアリウム~『私の人生の本』より
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アクアリウム~『私の人生の本』より

2021年9月に刊行しますアレクサンダル・へモン著、秋草俊一郎訳『私の人生の本』日本語版より、エッセイをひとつ公開いたします。(2021年10月10日までの期間限定公開です)

アレクサンダル・ヘモンは1964年、ユーゴスラヴィア(当時)出身。文化交流プログラムでアメリカに滞在中、故郷サラエヴォがセルビア人勢力によって包囲されて帰国できなくなり、そのままアメリカに留まります。第二言語の英語での執筆をはじめ、2002年には初の長編小説『ノーホエア・マン』(邦訳は岩本正恵訳、白水社刊)を発表、高い評価を得ました。以降は小説、エッセイ、映画やドラマ・シリーズの脚本など多ジャンルにわたって精力的な執筆活動を続けています。

『私の人生の本』は著者初のエッセイ集。ある決定的な出来事が、「それ」以前と以後で人生を分断したとき――いわば複数形になった《人生 lives》の、そのどちらをも受けとめながら、作家は言葉をつむいでいきます。

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アクアリウム


 二〇一〇年七月十五日、妻のテリと私は、下の娘のイサベルを定期健康診断に連れて行った。娘は九カ月でまったくどこも悪くないように見えた。最初の歯が生えてきて、家族と一緒にディナーテーブルについて、バブバブ言いながらお米のシリアルを口に放りこむようになっていた。元気なかわいい子で、人見知りもしない──冗談を言わせてもらえば、この性格は生来陰気な父親から遺伝しなかったものだろう。
 テリと私は、子供の健診には二人で一緒に行くようにしていた。今回はもうじき三歳になる上の娘のエラも連れていくことにした。ゴンザルズレス医師のオフィスの看護師は、イサベルの体温と体重と身長と頭囲を測った。エラは同じ関門をくぐらなくていいので得意気だった。G医師(そう呼んでいた)は、イサベルの呼吸音を聴き、眼と耳を調べた。コンピュータにイサベルの発育表を表示した。身長は標準値、体重はやや標準値に満たない。特に問題はない──二標準偏差を上回っている頭囲以外はなにも。G医師はこのことを気にかけた。イサベルをMRIに送るのをしぶり、次の日に超音波検査の予定を入れた。
 家に帰ってもイサベルは落ち着かず、いらいらしていた。寝つくまで大変だった。G医師のところに行かなければ、単に疲れているだけだと思ったろう。しかしすでに、恐怖に立脚した別の解釈のフレームワークが存在していた。その夜遅く、ぐずるイサベルを落ち着かせようとして、夫婦の寝室から連れだした(赤ちゃんといつもいっしょに寝ていたのだ)。キッチンで子守唄のレパートリーを一通り歌った。「ユー・アー・マイ・サンシャイン」、「きらきら星」、それにこどものころ習って奇跡的にボスニア語の歌詞を覚えていたモーツァルトの歌だ。普段、この三曲の子守唄を執拗に繰り返し歌っているとなんとかなるのだが、今回はイサベルが私の胸に頭を押しつけて静かになるまで、さほど時間はかからなかった。まるで、私を慰めてくれるかのよう、全部うまくいくよと言い聞かせるかのようだった。不安を抱えながら、いつか将来、この瞬間を思い出して、だれかに──多分、イサベル本人だ──を落ち着かせてくれたのはきみだったんだよ、と言う場面を想像した。娘はそう、私を気づかってくれたのだ。ほんの九カ月だったのに。
 翌朝、イサベルは頭の超音波検査を受けるあいだじゅうずっと、テリの腕の中で泣いていた。帰ってきてすぐ、G医師が電話をしてきて、超音波検査の結果、イサベルは水頭症で、すぐに救急部(エマージェンシールーム)に行かなくてはならないと告げられた。命の危険がある。
 シカゴ小児記念病院の救急部の検査室は灯りを落としてあった。イサベルにCTスキャンを受けさせるため、医師たちは麻酔をかけなくていいように、自然に寝つくまで待っていてくれた。しかし、つづけてMRIを受ける可能性があるので、なにも食べさせてもらえず、空腹でずっと泣いていた。研修医(レジデント)が派手な色の風車をかしてくれたので、吹いて気を散らそうとした。ぞっとするような可能性の薄闇で、私たちはこれから起こることをただ待っていた──その正体を想像できないほど怯えきっていたのだ。
 小児脳神経外科の部長のトミタ医師は、CTスキャンの結果を説明してくれた。イサベルの頭の脳室は大きく、液体で満たされている。髄液の流れを妨げているものがある。トミタ医師が言うには、「腫瘍の増大」だ。すぐにMRIが必要だ。
 麻酔が効くまで、テリはイサベルを両腕に抱いていた。イサベルの頭が、急にテリの胸にずしりと落ちたようになった。一時間に及ぶMRIのため、イサベルを看護師に手わたした。イサベルをまったくの他人にあずけるのはこの時がはじめてだった。知らせを聞くのが怖くてそそくさと立ち去った。病院の地下のカフェテリアは世界で一番悲しい場所だった──未来永劫そうだろう。気味の悪いネオンとグレーのテーブル、わが子の苦しみに背を向けてグリルチーズサンドイッチを食べる人々のうっすらとした気配。MRIの結果についてはあえて思いをいたさなかった。私たちはイマジネーションを遅延した。恐ろしくはあったが、それでもまだ未来へと延びていかない瞬間に係留したのだ。
 画像診断室に呼ばれ、私たちは照明のきつい廊下で、トミタ医師と出くわした。こう、告げられた──「イサベルには腫瘍があると思います」。トミタ医師はMRI画像をコンピュータで見せてくれた。イサベルの脳の中央の右側、小脳、脳幹、視床下部の真ん中に居座っているまあるいものがあった。ゴルフボールぐらいの大きさです──トミタ医師は言った。でも、私はゴルフなんてどうでもよかったし、医者の話からなにも思い描けなかった。彼が腫瘍を取り除いてくれて、そして病理報告が出てやっとそれがなんなのかわかるのだ。「でも奇形腫(テラトイド)みたいに見えるね」と医者が言った。テラトイドという言葉がなにを指すのかわからなかった。この言葉は私の言語と経験の外部にあって、想像不能かつ理解不能な領域に属していた──トミタ医師が私たちを導きいれた領域だ。
 イサベルは回復室で無邪気に眠っていた。テリと私は手と額にキスをした。二十四時間かそこらで、恐ろしいまでに、不可逆的に変わってしまった。イサベルのベッドのかたわらで、以前以後に私たちの生活を分けてしまった瞬間の内側で、私たちは泣いた──この瞬間のせいで「以前」からは締め出されてしまい、「以後」が果てしなく広がっていった──まるできらきら星が爆発して、苦痛の暗黒宇宙が広がっていくように。
 トミタ医師の発した言葉がなんなのか、はっきりしないまま、私はインターネットで脳腫瘍を調べ、イサベルの脳のものとほぼ同じ腫瘍の図を見つけた。そいつを見つけた瞬間、テラトイドがなんなのかわかった。正式名称は非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍(AT/RT)とあった。これは、極めて悪性度の高い、非常に稀な、百万人に三人しか発生しない腫瘍で、小児脳腫瘍の約三パーセントがこれにあたる。三歳未満の小児の生存率は十パーセント以下。ほかにもまだ検討すると気がくじけそうになる統計データがあったが、画面から身をもぎはなした。かわりにイサベルの医師たちとだけ話をし、彼らを信頼することに決めた。もう二度とインターネットでイサベルの病気を調べるのはやめだ。自分が知ってしまったことをテリに話すのは大変だった。おぞましい可能性から妻を護ってやりたかったのだ。正気を失わないためには知識とイマジネーションを制御する必要があると、私にはもうわかっていたのだ。
 七月十七日土曜日、トミタ医師とその脳神経外科チームはイサベルの脳にオンマヤリザーバーを埋めこんだ。溜まった脳脊髄液(CSF)を排出することで、周囲を圧迫するのを緩和するためだ。脳神経外科の病床に戻ってきたとき、いつもと同じように、イサベルは毛布を蹴りだしてしまっていた。これをいい兆候と思うことにした。長い旅路の希望に満ちた第一歩だと。週末に予定された腫瘍除去の手術を待つために、月曜日に病院から出された。自宅に戻って待機した。
 テリの両親は街にいた。テリの妹がイサベルの健診の日に二人目の息子を出産したからだ。イサベルの病気で忙しく、家族に新しい命が加わったことまで気がまわらなかった。そして、エラは週末を祖父母といっしょに過ごしていた。家族になにか大変なことが持ちあがり、両親がいないのはそれと関係しているとはうすうす感づいてはいるようだった。うららかな火曜日の午後、みなで散歩に出かけた。イサベルはテリのお腹に括りつけていた。その日の晩、イサベルが熱を出したので、救急部に駆けこんだ。発熱は感染症を併発したことを意味していて、異物(この場合、オンマヤリザーバー)を幼児の頭部に挿入した場合には珍しくない事態だった。
 イサベルは抗生物質を投与され、スキャンを一、二度受けた。オンマヤリザーバーは取り外された。水曜日の午後、エラと過ごすため病院から家に戻った。近所のファーマーズマーケットに連れていくと約束していたのだ。約束を守ることは、破局が進行しつつあるただ中にあって、大切なことだった。ブルーベリーと桃を買った。家に帰る途中、いきつけのパン屋でとびきりのカンノーロを買った。エラにイサベルが病気なこと、腫瘍のことを説明し、今晩おばあちゃんといっしょにいなくてはならないと言った。エラは文句も言わなければ、泣きもしなかった。三歳児ができる範囲で苦難に理解をしめしてくれた。
 カンノーロを手に病院に戻ろうと、車にむかって歩いていると、とにかく急いで病院に来てくれとテリが電話してきた。イサベルの腫瘍が出血したのだ。緊急手術が必要だ。イサベルと手術室に入る前に、トミタ医師が話をするために待っていてくれるという。病院までは十五分かかった。交通はまったく別の時空に属していた──人々は道を急いでわたることもなく、幼児の命が危険にさらされることもない。万事、災厄から免れて悠然自適としていた。
 病室で、カンノーロの箱を持ったまま、私が見たのはイサベルに覆いかぶさって泣くテリの姿だった。イサベルの顔は死人のように真っ白だった。トミタ医師もそこにいた。コンピュータの画面にはすでに画像が映しだされていて、脳内の出血の様子がわかった。ひとたびCSFが流れ出てしまうと、腫瘍が空いたスペースに広がって血管が破裂したのだ。一刻も早い腫瘍の除去が唯一の希望だが、イサベルが失血死する危険が目に見えてある。これくらいのこどもには一パイントの血もないのです──トミタ医師は言った。輸血をしつづけてもうまくいかないかもしれない。
 イサベルを手術準備室まで付き添う前に、カンノーロを病室の冷蔵庫にしまった。その行為があまりに計算高かったので、即座に罪の意識が芽生えた。あとになってはじめてわかったが、この馬鹿げた行為こそ、どんなに絶望的な状況でもなにか望みをつなごうという意識のあらわれだったのだ。カンノーロは私たちが将来生き延びるために必要だったのだ。
 手術は四、六時間もかかるものだった。トミタ医師のアシスタントが都度知らせをくれる。私たちはイサベルの紙のように白いおでこにキスをして、マスクをした見知らぬ人々の集団によってストレッチャーで娘が未知なる世界に運ばれていくのを見ていた。テリと私は部屋に戻って、自分の子がその夜を生き延びられるのか固唾を呑んで待つことになった。私たちは交互に泣いては黙り、始終抱き合っていた。数時間後にアシスタントが電話してきてイサベルはよくなったと言った。祝うためではなく、なんとかやっていくためにカンノーロを分けあった。食事も睡眠もまったく足りていなかったのだ。部屋の電気は薄暗かった。私たちはカーテンで間仕切りされたベッドに座っていた。なぜだか、誰かに煩わされるということはなかった。私たちは世界から遠くはなれていた──ファーマーズマーケットやブルーベリーがある世界から、看護師が勤務を交替して噂話を交わしあう世界から、他のこどもたちが命を授かって生きていく世界から、祖母が孫を寝かしつける世界から遠くはなれていた。生まれてこの方、その晩の妻ほど誰かを近くに感じたことはなかった。私が感じたことを月並みな表現にあてはめるなら、超越的な愛というのがまさにそれだった。
 深夜十二時を少しまわったころ、アシスタントが電話で、イサベルが手術をのり越えたと伝えてくれた。トミタ医師に会ったのは、待合室の外だった──その中では、また別の不運な親が居心地の悪いベッドで寝て、自分自身の悪夢に絡めとられていたのだ。トミタ医師の意見では、腫瘍の大部分を除去できたという。幸いにして、腫瘍は破裂せず、脳に血が流れだすことはなかった。もしそうなっていたら、致命的だったろう。イサベルはよくがんばり、ICUに一時的に移されるので、そこで会えると言われた。思い返せば、この瞬間は相対的に幸せなときだった。イサベルは生きている。差しあたっての結果だけが、当座の問題だ。私たちが望めるのは──それがなんであれ──次のステップに辿りつけるかどうかだけだった。未来なんてくそくらえだ。イサベルはいま生きている。これ以上のものなんてなにもない。
 ICUには、点滴のチューブと、モニターのワイヤーに絡めとられているイサベルがいた。自分で気管チューブを引きはがしてしまわないよう、ロクロニウム(そこの人間はみな「ロック」と呼んでいた)で昏睡させられていた。その夜はイサベルを見守りつつ、ぐったりした手の指にキスをして、歌ったり、本を読んであげたりして過ごした。次の日、iPodドックを設置して、音楽をかけた。音楽がダメージを受けた脳を回復させるという都合のいい迷信だけではなく、心をくじくような病院の音を迎え撃つためだ。モニターがビーッと鳴る音、人工呼吸器のぜいぜいいう音、廊下の看護師の無神経なおしゃべり、患者の容体が突如悪化するごとに突如として鳴り響くサイレン。バッハのチェロ・コンチェルトかミンガスのピアノ曲の伴奏にあわせて、私はイサベルの心拍数の降下を、血圧の上下を漏らさず心に刻んだ。モニター上の、残酷なまでに揺れ動く数値から目が離せなかった──じっと凝視していれば、結果も変わるかのように。私たちにできるのは、待つことだけだった。

 人間の心には一種のメカニズムがあるのだと、私は信じるようになった。それがあるおかげで、自分自身の死を想像せずにいられる。覚醒から無に移行する瞬間を、その完全なる絶望につきまとう恐怖や無力感まで全部、ありありと想像できてしまえば、生きるのは難しい。生を構成する一切に死は刻印されていて、私たちの存在の一瞬一瞬は最後の瞬間と紙一重でしかないのは、耐えがたいほど明白なのだから。その不可避の瞬間は、間断なく私たちを圧倒し、打ちのめしてしまうので、賢くも心は考えるのを拒んだのだ。それでも、私たちは死へと成熟し、恐怖にひりつく足先をそろそろと虚無に浸すのだ──精神がなんとか死を和らげ、非在の闇の奥へと赴く瞬間に、神かなにか他の鎮痛剤が用をなすことを望みながら。
 しかし、どうやってわが子の死を和らげるなんてことができるというのだろう。ひとつには、それは自分が無に帰してからかなり後に起こるものだからだ。子供は自分よりも数十年は長生きし、そのあいだ幸福にも親の存在という重荷なしに自分自身の生を生き、最終的に自分の両親と同じ死への軌道をまっとうする。忘却、否認、恐怖、終わり。子供たちは自分自身の死を処理するはずで、その点で(自分が死ぬことで死に向きあわせる以外には)親にできることはなにもない──死は理科の実習ではないのだ。もし仮にわが子の死を想像できるとしたら、なんだってそんなことをするんだろう?
 しかし私は、強迫的な、破滅的な想像力に呪われてきた。そして心ならずも最悪の事態を想像することもよくあった。道を横断するときには車に轢かれるところを思い描いた。ホイールが自分の頭蓋骨を砕く瞬間の、車軸に積もった埃の層にいたるまでありありとだ。地下鉄の車内で電気が消えて身動きがとれなくなれば、列車にむかって火の海がトンネル一杯に押しよせてくるところを想像した。テリに会ってまもなく、私は苦痛を生み出す想像力をコントロールするようになった。子供たちが生まれてからは、なにか恐ろしいことが起こるのではというヴィジョンをすぐに消去することを学んだ。イサベルが癌と診断される二、三週間前、私は娘の頭が大きく、若干非対称なのに気づいて、疑問がよぎったのだ。脳腫瘍があったらどうしよう? しかし、私の頭がおぞましい可能性を持ち去る前に、そんなことを考えるなと自分に命じた。イサベルはどこも悪くない。もし仮にわが子がゆゆしき病に冒されていると想像するとしたら、なんだってそんなことをするんだろう?

 最初の切除の数日後、MRIで脳に腫瘍のかけらが残っていることがわかった。さらに癌を取り去ることができれば、生存率は上昇する。それでイサベルはもう一度手術を受けなくてはならなかった。そのあとでICUに戻された。さらにICUから脳神経外科に移されたのちも、CSFは排出されなかった。髄液排除のため、脳に外科的に経路が開けられ、脳室ドレーン(EVD)が挿入された。また発熱があった。EVDは除去された。イサベルの脳室は髄液で膨張し、ふたたび命の危険にさらされた。血圧は下降していった。追加の緊急スキャンが実施され、MRIのトンネルであおむけにさせられたので、イサベルは口から泡を吹いて嘔吐し、もう少しで窒息するところだった。最終的にシャントが外科手術で埋めこまれ、CSFが直接腹腔に流れこむようになった。三週間とたたないうちにイサベルは手術を二度受けた。左右の大脳半球のあいだから、脳幹と松果体、小脳が合わさる病変部にトミタ医師が到達し、腫瘍をすくいだした。加えて、CSFの排出不全に対処するため、六度の手術がおこなわれた。化学療法の薬を血流に直接投与するため、胸にチューブが埋めこまれた。なにより、手術不能のピーナッツ大の腫瘍が前頭葉に認められる。病理報告は、癌はAT/RTだと明言した。化学療法は、最初の健診の一か月後、八月十七日に開始が予定された。担当の腫瘍内科医のファングサロ医師とルラ医師は予後について話そうとしなかった。私たちがあえて説明を求めることはなかった。

 イサベルの診察のあと二、三週間は、食事も睡眠も十分にとれなかった。大部分の時間をテリと私は病院でイサベルにつきそって過ごした。エラとも時間を過ごそうとした。エラはICUには入れなかったが、脳神経外科の病室には出入りでき、いっしょにいるときにはいつもイサベルを笑顔にしてくれた。エラは災難とうまく付き合っていた。サポーティヴ・ファミリーや親切な友人たちが家に来て、エラと遊んでくれ、長引く不在を埋めあわせる手伝いをしてくれた。イサベルの病気について話すと、エラは目を大きく開けて聞き入り、戸惑いながらも心配してくれた。
 この試練がはじまって最初の数週間、ときおりエラは想像上の兄弟(イマジナリー・ブラザー)に話しかけるようになった。突如、吹き荒れるエラの言葉の嵐の中から、物語を汲みとってみた。ブラザーは一歳だったり、高校生だったりし、時折あまりはっきりしない理由でシアトルやカリフォルニアまで旅に出たかと思えば、結局シカゴに戻ってきてエラが独語する別の冒険物語に顔を出すのだ。
 もちろん、エラの年頃の子供にイマジナリーフレンドやイマジナリーシブリング(きょうだい)がいるのは珍しくない。私が思うに、イマジナリーキャラクターの創造は、獲得したばかりの言語能力の爆発に起因するのだ。その能力は二歳から四歳のうちに発現し、経験にそぐわないほどの言語の過剰を生みだしてしまう。子供は不意に手に入れた言葉を使ってみようとして、架空の物語を創ってしまうのだ。エラはカリフォルニアという言葉を覚えてはみたものの、自分の経験には関連するものはなにもなかったし、かといって抽象的に、いわばカリフォルニア性なるものを概念化することもできなかった。そこでエラは自分のイマジナリーブラザーをカリフォルニア州(サニーステイト)に配備することで、見てきたようにくわしく話せるようにしたのだ──つまりは獲得した言葉がこの物語を要請し、その言語が虚構の風景を必要としたのだ。同時にこの年齢での言語のうねりは、外部と内部の区別をつくりだした。子供の内部はいまや表現可能になり、それゆえ外部化できるようになった。世界が二倍になるのだ。エラは、ここにあるものと、別のところにあるものについて話ができるようになった。言語によって、ここここではないどこかを、時間上でも空間上でも結びつけたのだ。一度、夕食の席で、いまブラザーはどこにいるのとエラに訊いてみたことがある。部屋にいるの──癇癪をおこして、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
 当初、エラのブラザーには名前がなく、身体的な特徴しかなかった。名前はなんていうの、と訊ねると、こんな返事が返ってきた──「グーグー・ガガー」。それはエラがなついていた五歳のいとこのマルコムが、言いたい言葉が出てこないときに使う意味のない音だった。チャーリー・ミンガスが我が家では神のような存在だったので、エラにミンガスなんてどうかとさりげなく言ってみると、名前はミンガスになった。そのあとでマルコムにもらったゴム製のエイリアン人形を、エラは存在があやふやなミンガスの依代(よりしろ)にした。エラはパンパンに膨らませたブラザーとよく遊んでいたが、エイリアンの物理的な存在は、ミンガスに親じみた命令をしたり、その大冒険物語を話すのにかならずしも必要だったわけではなかった。私たちの世界が不断の死の、閉所恐怖症になりそうな規模にまで縮小しつつある一方で、エラの世界は拡張しつづけていた。

 非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍は症例が非常に少ないため、専用にデザインされた化学療法のプロトコルがほとんどなかった。臨床試験に耐えられるほど大きい罹患者の子供の集団を集めるのが難しいということもあった。参照可能なプロトコルの多くは、髄芽腫とほかの脳腫瘍への処方を流用しつつ、凶悪な腫瘍であるAT/RTに対処すべく毒性を高めたものだった。こうしたプロトコルの中には局所的な放射線治療を伴うものもあったが、イサベルの年齢の幼児には重大かつ有害な影響を発達に与えてしまいかねない。イサベルの腫瘍内科医が決定したプロトコルはきわめて毒性の高いもので、六つのサイクルからなり、最後のものがもっとも強かった。実際、早い段階でイサベル自身の未成熟な血液細胞を抽出しておき、最後のサイクルのあとで再注入して(いわゆる幹細胞治療と呼ばれるプロセス)、消耗した骨髄を回復させなくてはならないほどだった。
 化学治療のあいだ、イサベルは血小板と赤血球の輸血を受けなくてはならなかった。白血球数はその都度自力で回復させる必要もあった。イサベルの免疫システムは一時的に無効化され、回復するとすぐ別の化学療法のサイクルが開始された。脳を広範囲に手術したせいで、イサベルはもう立つことも座ることもできなくなってしまった。化学療法の合間に作業療法と理学療法もこなさなくてはならなかった。はっきりしない未来のどこかで、イサベルは自分の年齢にあった発育段階に戻れるだろうと言われた。
 最初の化学療法のサイクルがはじまった時点で、イサベルは十カ月で、体重は十六ポンドしかなかった。体調のいい日には、イサベルはヒーローみたいににっこり笑ってみせた。いままで見たどんな子よりも、今後見るだろうどんな子よりもいい笑顔だった。調子のいい日はごくわずかだったが、そんな日にはイサベルと私たち家族にとっての未来図を描くことができた。イサベルの作業療法と理学療法の予約を入れた。友人や家族に何日に来てもらえると都合がいいと連絡をとることができた。次の数週間の予定をカレンダーに書き入れておくことができた。だが、未来はイサベルの健康同様あてにはならなかった──ただ次の、なんとか到達可能なステージに伸びているだけだ。サイクルの終わり。白血球数の回復。次のサイクルがはじまる前の数日間は、可能なかぎり健康に近づいてはいた。それ以上のことをイマジネーションが思い浮かべるのをやめさせた──病の結果、イサベルがどうなるのか、いずれの選択肢も考えるのを拒否したのだ。こと切れる瞬間のイサベルの小さな手を握りしめる場面を、自分が思い描こうものなら、そのヴィジョンを消去した。声に出して「だめだ! だめだ! だめだ! だめだ!」と言って、テリをびっくりさせることもしばしばだった。私はもう一方の結果──助かること──を想像するのもブロックした。少し前から、自分が望むことはまさに自分がそう望んだからという理由で起こらないのではないかと、私は思うようになっていたからだ。良い結果が出るように、一切の煩悩を消し去るよう心をコントロールする術を編みだした──あたかも私の願いのせいで、この情け容赦のない宇宙を作りあげた敵意と悪意に満ちた力に自身が曝されてしまうかのように。私はイサベルが助かるところをあえて想像しなかった。そんなことをすれば、げんが悪いではないか。

 イサベルの化学療法の第一サイクルがはじまって少したってから、心配した友人が電話をかけてきてくれた。最初に訊かれたのは「それで、いろいろとルーティンに落ち着いたかしら?」というものだった。イサベルの化学療法は実際、見かけ上は予測可能なパターンがあった。化学療法のサイクルは元来反復する構造をもっていた。化学療法の薬物が、決められたスケジュールで同じ順番で投与される。反応も予想できる。嘔吐、食欲減退、免疫システムの崩壊。食事がとれないためTPN(高カロリー輸液)を静脈に投与。制吐薬、抗真菌剤、抗生物質を定期的に投与。輸血の必要。発熱による緊急救命室への搬送数回。血球数の増加によって緩やかな回復が観測される。自宅で数日間穏やかな日々を過ごす。それから病院に戻って次のサイクルがはじまる。
 イサベルとテリ(めったに娘のそばを離れなかった)が化学療法のために病院にいれば、私はエラと自宅で夜を過ごし、保育園まで送っていき、それからコーヒーと朝食を妻に届けた。そのあいだ妻はシャワーを浴び、娘に歌を歌ってやったり、いっしょに遊んだりしていた。私はイサベルが吐いたものを片づけ、おしめを交換したが、看護師が重さを測れるようにとっておいた。テリと私は、前夜のことやその日なにをしなくてはならないかを専門用語もどきを使って話し合った。医者の回診を待ち、自分たちではわからない疑問点を訊ねた。
 「落ち着く」という人間の感覚は、勝手知ったる行動の繰り返しから生まれる──私たちの心と体は、前もって想定した状況に自分を適応させようとするものなのだ。しかし、イサベルに長続きするルーティンを確立することはできなかった。AT/RTのような病気は、生物学的にも、感情的にも、家庭的にもあらゆるルーティンを瓦解させてしまう。なにごとも予想通りになんてならないし、ましてや願った通りになるなんて望むべくもない。TPNがはじまって一日か二日経ったとき、突然イサベルにアナフィラキシーショック症状が出てしまい、全身がたちまち腫れあがって呼吸困難になってしまったことがあった。私たちは自宅にいたのだが、急いで緊急救命室に駆けつけることになった。突然やってくる危機のほかにも、日常的な地獄もあった。咳はほとんど途切れることがなく、そのせいでしょっちゅう嘔吐した。発疹ができたり、便秘にもなったりした。イサベルは意欲が減退し、ぐったりしてしまった。発熱の初期兆候があると緊急救命室に行った。イサベルによくなるよとは絶対に言えなかった。こんなこと、いくら繰り返そうが慣れるなんてできるはずがない。ルーティンの落ち着きは、外の世界に属していた。
 ある日の早朝、車を病院に走らせていると、いかにも壮健で快活なランナーの一群が目にはいった。フラートン・アヴェニューを、うららかな湖畔にむかって歩を進めているのだ。そのとき、自分がアクアリウムの中にいるという強烈に身体的な感覚に襲われた。私は外を見ているが、外の人々は内側にいる私を見ている(もし気にとめればの話だが)。だが、私たちが生き、呼吸している環境はまったく別物なのだ。イサベルの病気と私たちの苦闘は、外の世界とほとんど関係がなかったし、ましてやなんの影響も与えていなかった。テリと私が収集していた情報は、眼をそむけたくなるような、望ましくないもので、外の世界ではどこにも持っていき場がなく、誰の関心も惹かないものだった──ランナーたちはのろのろ走って自己研鑽に励んでいた。人々は揺るぎない日々の生活を享受していた。拷問役人の馬は相変わらず無心な尻を木にこすりつけている。
 イサベルのAT/RTは、内側にある私たちの生活のすべてを、強烈なまでに重々しく、リアルなものにしてしまった。外側のものすべては、非現実と言うよりは、理解可能な実質を欠いたように映った。イサベルの病気を知らないひとから「最近なにかあったかい」と訊かれて話をしたとたん、彼らは自分の生活に猛烈な勢いで退却してしまうのだ──その生活が宿る遠い地平線では、価値観がまったくちがっていた。税理士にイサベルが重い病気なんだと告げると、こう言われた──「でも、あなたは健康じゃないですか。それが一番です!」静かに航行する世界は、気の利いた言い回しやクリシェに立脚していて、私たちの禍いとは一切の論理的、概念的な繋がりをもたなかった。
 善意の人々と話すのは大変だったが、その話を聴くのはさらに大変だった。彼らは親切で、協力的だったので、テリと私はそのおしゃべりも嫌な顔をせずに我慢していた。なにを話したらいいかわからないだけなのだから。虚しい、使い古した言語の手なりの領域に引きこもることで、私たちの困難から身を守っていたのだ。だが、賢明にも言葉によるサポートに手を出さない人々と付き合う方がずっと楽だった。そして、ごく親しい友人たちはそうした方がいいとよくわかっていた。大切なことがなにか教えてくれるルラ医師やファングサロ医師と話をするほうが、「踏みとどまれ(ハング・イン・ゼア)」と言われるよりもずっとましだった(その言葉を言われるたび、「踏みとどまる場所がないよ」と答えるようにしていた)。私たちは、究極の決まり文句で慰めてこようとする人間から距離をとった──その言葉とは神だ。病院付きの司祭は、周囲には一切近寄らせないことにした。
 一番よく耳にした決まり文句は「言葉がない」だった。だが、テリと私にとって言葉がないどころではなかったのだ。私たちの体験を表現できないというのは、まったくのまちがいだった。テリと私には今起こっていることを語り合うだけの言葉が山ほどあったし、実際そうしたのだ。ファングサロ医師とルラ医師の言葉は常に痛いほど正鵠を射ていたし、言葉がないなんてことはなかった。コミュニケーションに問題があるとすれば、むしろ言葉がありすぎることだった。それは他人に背負わせるには、あまりに重く、特殊に過ぎたのだ(イサベルの化学療法の薬を例にとってみよう──ビンクリスチン、メトトレキサート、エトポシド、シクロホスファミド、シスプラチン──最悪の禁忌目録に名を連ねる魑魅魍魎ども)。もしなにかないものがあるとすれば、それはルーティンや気の利いた言い回しの機能性だった──クリシェの座りのよさがいまや不適当かつゴミ同然のものになった。本能的に私たちは、自分の知識から他人を保護した。他人には言葉がないと思わせておくことにした。彼らには、私たちが日々使っているボキャブラリーに親しんでほしくなかったからだ。彼らは私たちの知っていることを知りたがらないと信じていたし、私たちの方でも知りたいとは思わなかった。
 私たちのいる内側には、ほかに誰もいなかった(そして、話ができるからといって、誰か、子供がAT/RTになった親がいてほしいなんてちらりとも思ったこともない)。「こどもが脳腫瘍・脊髄腫瘍になったときのリソース・ガイド」──わが子の脳腫瘍と向き合うために病院がくれた──には、AT/RTはごくまれな腫瘍のため、「議論が深まっていない」と書かれていた。事実上、完全に無視されていたのだ。私たちは、ごく小規模な、小児癌患者の家族のグループとすら交流できなかった。私たちが踏みとどまっていたアクアリウムの壁は、他人の言葉でできていたのだ。

 一方、ミンガスはエラの、言語能力の向上と拡大のきっかけになった。友だちにもなり、やすらぎも与えてくれた──どちらもテリと私がなかなかやれないものだった。朝、保育園に車で送っていく途中、エラはずっとミンガスの話を切れ目なくしゃべっていたが、物語のプロットは難渋をきわめ、ほとばしる言葉の奔流の奥深くに埋もれてしまっていた。ときおり、エラがミンガス(エイリアンでも、完全に想像上(イマジナリー)の存在でも)に架空の薬をあたえ、体温を測るのを目にするようになった。それだけでなく、エラは病院や、両親の会話から収集したイサベルの病気についてのボキャブラリーを使って遊んでいた。エラはミンガスは癌で、検査を受けているが、二週間以内によくなると言った。一度、ミンガスにはイサベルという小さな妹がいたこともあった──エラ自身の妹とはまったくちがっていた──この子も癌があったが、やはり二週間でよくなるのだった(思うに二週間が、テリと私にとって当時想定可能な未来の範囲だったのだろう)。イサベルの病気についてなにか耳にはさんだり、両親の会話から覚えた言葉があれば、エラはいちいち自分のイマジナリーブラザーを使って処理していた。エラははっきりと妹を恋しがっていたので、その点でもミンガスは慰めになった。エラは家族がひとつになってほしいと心から思っていた──それこそがおそらく、ある日ミンガスが自分自身の両親をえて、いっしょに「すぐそば」に引っ越し、翌日また戻ってきた理由なのだろう。エラは自分の複雑な感情をミンガスにあてがうことで外部化し、ミンガスがその感情にしたがって行動したのだ。
 ある日の朝食で、オートミールを食べながら、エラはミンガスのことを熱をこめていつまでもぶつぶつしゃべっていた。そのとき、エラは私が作家として何年もやってきたことをそっくりなぞっているのだと閃いてバツが悪くなった。私の本の架空の登場人物たちは、私が自分では理解できないことを理解させてくれた(つまりは、これまでのところほとんどあらゆる事象についてなのだが)。エラとそっくり同じように、私には言葉がありあまっていて、その量ときたら私自身の惨めな伝記に収まりきるものではまるでなかった。私には自分を拡張してくれる物語空間(ナラティヴ・スペース)が必要だった。私には人生ももっとたくさん必要だった。形而上的な癇癪をぶつけるために、私にも両親がもう一組必要だったし、自分以外の誰かが必要だった。そんなアバターたちを、私は融通無碍な自己像のスープを煮こんでこしらえたのだが、もちろん彼らは私ではない──私がやらないし、できないことを彼らはやるのだ。エラがミンガスの話の風呂敷をどこまでも広げていくのを聞いていて、物語を話したいという欲求は、私たちの精神に深く埋めこまれているのだとわかった。それは言語を生成し、吸収するプロセスと分かちがたく絡み合っているのだ。物語の想像力(ナラティヴ・イマジネーション)──ひいてはフィクション──は、生き残るために必要な進化論的手段だった。私たちは物語を語ることで世界を紡ぎ、想像上の自分とつきあうことで人たる知恵を生み出したのだ。
 しかし凡庸な作家である私が、キャリアの中で培ってきた知恵なんてものは、AT/RTアクアリウムの内側では何の価値もなかった。私には、いま目の前で起こっていることを把握する役に立つ物語を書くことができなかった。イサベルの病気を前に、私の想像力は発揮の余地なく蹂躙されてしまった。私の関心事は、こちらの胸元に頭を押しつけてイサベルがたてる息づかいの堅固なリアリティ、子守唄を三曲歌う間に眠りに落ちるこの具象性だけだった。私は、イサベルの笑顔と笑い声のほかには何も望まなかったし、想像すらしなかった──このイサベルの苦しみに満ちた、だがそれでもなお美しい命のほかには何も。

 イサベルが第三サイクルの最後の薬(シスプラチン)を投与されたのは、十月の日曜日の午後だった。イサベルが月曜の朝に自宅に帰って、なんとか二、三日はいられればいいと思っていた。エラはその日の午後見舞いに来て、いつもするみたいにほっぺたを少しつまみとって食べるふりをして笑わせてくれた。エラが帰ったあと、イサベルは興奮していた。むずがっているイサベルにパターンがあるのに気がついた。部屋の大きな時計の長針を見て、イサベルが約三十秒ごとに身をよじり、べそをかくのに気がついた。テリが看護師を呼び、看護師が腫瘍内科医に電話で連絡し、腫瘍内科医が神経科医に連絡し、神経科医がほかのだれかに連絡した。ごく軽い発作ではないかというのが彼らの意見だったが、原因は不明だった。それから本格的な発作がきた。痙攣しながら、イサベルは眼をむき、口から泡を吹いた。テリと私はイサベルの手を握り、話しかけたが、私たちのことがわからなくなっていた。イサベルはICUに緊急搬送された。
 ICUでイサベルにどんな薬が投与されたのか、どんな処置を受けたのか、あの夜のほかの出来事同様いまとなってははっきりしない。想像できないことは思い出せないのだ。イサベルの血中ナトリウム値は急激に低下しており、そのせいで発作が起きていたのだ。それをくい止めるために、あらゆる手が尽くされた。気管チューブが挿入され、ロックがふたたび投与された。イサベルはICUに宿泊して、血中ナトリウム値を安定させることになった。
 しかし、そうはならなかった。二、三日すると、ロックの投与をやめ、気管チューブが取り外された。TPNを犠牲にして塩化ナトリウム溶液を持続的に投与したが、血中ナトリウム値はもう正常値に戻らなかった。ハロウィーンに、テリがエラを近所にトリックオアトリートに連れていっているあいだ(前からの約束だったのだ)、イサベルは私の胸元でそわそわしていた。前日の晩はエラと家で過ごしたのだが、腕の中のイサベルが不意に痛みを感じたみたいにびくっと反り返って、とり落としてしまう夢をみた。地面に激突する瞬間、叫び声をあげて夢から抜けだした。ICUで、イサベルをなんとか落ち着かせようとして、私は三曲の子守唄を何度もしゃにむに繰り返した。イサベルがなんとか眠りにつくときでさえ、私はその呼吸が一度止まってしまい、びっくりするくらい間が開いたあとでまたはじまったように感じられた。当直の看護師によれば、入眠時無呼吸は赤ん坊にはよくあるそうだが、そんな見え見えの噓を吐かれてもいらいらするどころか恐怖のどん底に突き落とされてしまった。看護師は当直の医師に連絡し、記録すべきことを時間通りに記録した。そのあとすぐ、私はテリと交代して、エラのいる自宅に戻った。
 真夜中に電話が鳴った。テリがファングサロ医師に電話を替わった。血圧を維持するのが「非常に困難」だという。一刻も早く病院に駆けつけなくてはならない。
 エラを義理の妹の家で降ろし、私は病院に急いだ。イサベルの部屋の前にはICUのスタッフで人だかりができていて、みな中をのぞきこんでいた。そこではイサベルが医師と看護師の一団に取り囲まれていた。イサベルはむくみ、まぶたは腫れていた。小さな両腕には針が何本も刺され、血圧を押し上げるための薬が投与されていた。ファングサロ医師とルラ医師は私たちを座らせて、イサベルは危篤だと告げた。イサベルを救命するためにできることは全部やってほしいかと問われた。私たちはイエスと答えた。いつそれをやめるのか、医師に伝えるのは私たち自身なのだということを、二人ははっきりさせたのだ。
 そして、記憶は崩壊した。
 テリは隅に座ってずっと静かにすすり泣いている。その顔に浮かんだ恐怖は文字通り言いあらわせない。白髪頭の受持医(あれからずっと、その顔がこちらを見つめているのに、名前はどこかに消えてしまった)は、研修医にイサベルの胸を交替で押すように命じている。心臓が鼓動をやめてしまったのだ。私が「ぼくの赤ちゃんが! ぼくの赤ちゃんが! ぼくの赤ちゃんが!……」と泣いていると、医師たちがイサベルを連れ戻す。テリと私は別の決断をしなくてはならない。イサベルの腎臓は機能を停止してしまったのだ。透析が必要であり、そのためには直ちに外科的介入をしてイサベルと人工透析機をつながなくてはならない──イサベルが手術に耐えられない可能性はかなり高い。私たちはイエスと言う。イサベルの心臓は再び停止し、研修医が胸を押す。外の廊下では、知らない人々が集まってイサベルを応援している。中には目に涙を浮かべているひともいる。「ぼくの赤ちゃんが! ぼくの赤ちゃんが! ぼくの赤ちゃんが!……」──私はずっと泣き叫んでいる。私はテリとハグをする。イサベルの心臓がふたたび動きはじめる。白髪頭の医師が振り返って言う──「十二分だ」。私には何の話か理解できない。しかし、しばらくして悟る──イサベルは十二分間、医学的に死んでいたのだ。それから再び心臓が動くのをやめる。若い研修医が、気のりしない様子で胸を押しつづけている──やめてくれと言われるのを待っているのだ。私たちはやめてくれと言う。彼女はやめる。

 必死に押さえこもうとした(でも間に合わなかった)ヴィジョンの中で、私はわが子の死の瞬間を予見していた。しかし、想像しまいと必死に努力した挙句、私が想像していたのは、静かで映画的とも言える瞬間だった──テリと私が安らかに息を引き取ったイサベルの手を握るという。私にはあのとき感じたほどの強烈な痛みを、あえて想像するということはできなかったのだ──看護師がチューブとワイヤーをすべて取り外し、部屋から誰もいなくなり、テリとともに死んだわが子を抱いたときに感じたほどの痛みを。私たちの美しい、笑顔を絶やさない娘の身体は、投与された液体でむくみ、散々押されたせいで痛めつけられている──その頰とつま先にキスをした。その瞬間のことは完全な、痛烈なまでの明晰さで覚えているが、それでもまだ私にとっては想像できないままなのだ。
 そんな瞬間からどうやって抜け出せるのだろう? どうして死んだわが子を置いて、あの生活と呼んでいるそらぞらしいルーティンだかに戻っていけるのだろう? 私たちはイサベルをベッドに降ろし、シーツをかけた。サインしなくてはならない書類にみんなサインした。荷物をまとめた。イサベルのおもちゃ、自分たちの衣類、iPodドック、食事のタッパー……「以前」の残骸だ。部屋の外で誰かがついたてを立てて、外から見えないようにしてくれていた。イサベルを応援してくれていた善い人々はみんなどこかに行ってしまった。物を詰めこんだ大きなビニール袋を抱えて──難民みたいだ──道を渡ったところにある駐車場まで歩いていった。そして車に乗りこむと、無意味な道を走って義理の妹の家に向かった。
 死を受け入れるのにどれほどの精神力が必要なのかわからないが──そして(もしそんな風になっているとしての話だが)何歳ごろそれを獲得するのかわからないが──エラにはそれがあるようだった。妹が死んだと告げられると、エラの顔にはそのことをはっきりと理解した表情がふっと浮かんだ。エラは泣きだしたが、その泣き方は子供らしくないとしか言いようがなかった。そしてこう言った──「イサベルって名前の妹がもうひとりほしい」。この言葉の意味は、まだ解析中だ。
 テリ、エラ、私──ひとり欠けた家族──は、家に帰った。十一月一日。「死者の日」だった。イサベルが健診を受けてから百八日が経過していた。

 宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。イサベルはまずまちがいなく、昇天してどこかいい場所に行ったわけではないだろう──イサベルにとってテリの腕の中、エラのとなり、私の腕の中よりもいい場所なんてどこにもなかった。イサベルがいなくなって、テリと私は持って行き場のない愛の大洋に取り残されてしまった。イサベルにつぎこんでいた膨大な時間が余っていることに気がついた。私たちは、イサベルでしか埋めることができない虚無を内側に抱えたまま生きるしかなくなった。イサベルの消せない不在は、いまや私たちの身体の一器官になった──その器官の唯一の機能は、ただ哀しみを分泌しつづけることだ。
 エラはイサベルのことをよく話している。イサベルの死について話すとき、エラはとても真剣で、その言葉は胸を打つ。エラはなにが起こったのか、それがどんな意味を持つのかよくわかっている。エラが抱えている問いと願いは私たちのものと同じだ。一度、眠る前に、こう訊かれたことがある──「なんでイサベルは死んだの?」こう言われたこともある──「死にたくないの」。ごく最近には、エラはテリに、イサベルの手をもう一度握りたいこと、イサベルの笑い声が恋しいことを突然語りだしたことがあった。何度か、私たちがイサベルがいなくて寂しいかと訊ねると、エラは答えるのを拒み、いらいらした様子を見せたが、その理由が私たちにはよくわかった──どうしてそんなわかりきったことを言わなくちゃならないんだ、という。
 ミンガスは健在で、存在代行業を着実にこなしている。ミンガスはうちにしょっちゅう泊まりにくるが、住んでいるのは前と同じ「すぐそば」のところで、自分の両親と、その都度人数の変わるきょうだいたちと暮らしている。ついこの前は弟のジャッコンとクリフに、妹のピカデリーだった。ミンガスには自分の子供もできた──(ある時聞いた話では)息子が三人いて、うちひとりはアンディという名前だそうだ。家族でスキーに行ったときには、ミンガスはスノーボード派だった。クリスマスに家族でロンドンに行ったときには、ミンガスはネブラスカに行った。ミンガスはチェス(エラの言葉だと「チェスト」)がとても上手いらしい。ミンガスはエラになにかを大声で言うこともあれば(「ミンガス黙って!」と怒鳴り返されている)、自分の声がないときもある。でも、あとからイサベルの声音で話すこともある。ミンガスは腕のいいマジシャンでもある。ミンガスが魔法の杖を一振りすれば──エラはそう言うのだけど──イサベルはまた現れるのだ。

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