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「【オンラインフォーラム】今、瀬戸内から宇沢弘文 ~自然・アートから考える社会的共通資本~」に参加しての感想

今、瀬戸内から宇沢弘文 ~自然・アートから考える社会的共通資本~【オンラインフォーラム】に参加しました。インスピレーションをもらうような楽しい会だったので、メモと考えたことを簡単に書いてみました。

登場人物の方々の情報はこちら

▼宇沢弘文
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250409_00000

▼渋澤健
https://www.youtube.com/watch?v=UJUvaXGNwmw&feature=share
https://www.commons30.jp/

▼鈴木寛
http://suzukan.net/chosaku.html

▼ドミニク・チェン
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19652
http://future.ephemere.io/

▼福武總一郎
http://kstyle.s57.xrea.com/2018/09/03/benesse_report_2018/

▼舩橋真俊
https://www.sonycsl.co.jp/tokyo/407/
https://synecoculture.org/

▼宮口あや
https://forbesjapan.com/articles/detail/29735

▼森田真生
http://choreographlife.jp/

▼占部まり
https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/orgnl/201805/555991.html

話されていたことの箇条書きのメモ

福武さんの話:
・「あるものを壊し新しいものを創る」から「あるものを活かし、新しいものを創る」へ

・可視化をすること / 見えていないものを可視化するものとしてのアート

セッション一つ目

鈴木寛さん:

・大事なものはお金にしてはいけない
・デジタルテクノロジーは容易に大量生産できる
・教育において「その子」にとってより良い公正なものを
・これからの教育は正しい答えを伝えるのではなく、問いを与えることでは
・教育が「正解」の呪縛を生み出しているのではないか
・問いかけには複数の人や物との関わりが必要
・アートは最高のプロジェクトベースドラーニング
・宇沢先生は、「直島をわからない」と表現されたのが素敵
・学校の現場で「わからない」と言いづらい。そこには権威の存在が
・プロジェクトを始めると必ずコンフリクトだらけに 
・近代化からの卒業とは?アンチ近代ではなく、卒近代。敬意を持ちつつも
 →大量生産・大量消費で経済的繁栄を遂げようという方向性だった
 →自然が破壊された経済で計れない変化も同時に起こった
・井上たつお先生の指摘「関係性の貧困だ」
・ゆたかな関係性をつくることにもっと開かれていっていいのではないか?
・卒近代しないと、今の問題を乗り超えていけないのではないか
・分かる=分ける、科学的に解決できるもの
・分からないものとの付き合い方が重要
・不安を煽るビジネスが儲かっている。でもそれではいけないのでは?
   

宮口さん:

・ブロックチェーンは分散的に信頼を作る技術(中央集権型に対比して)
 →情報の透明性、改竄不可能性
卒近代の話を受けて
・教育の見直し
・芸術・音楽・情緒を教育で育てていかないと

モデレーター:

・メジャメントすること
卒近代の話を受けて
・近代化からの卒業:効率からの卒業・合理性からの卒業
・プロジェクトチームで「タイトル」を付けない
・日本のあり方?「こういうのダメです!」というのが多いのでは?
ドミニクさんのやりたいことの話を受けて
・「わからん」時に、トランスレーションしていくということ / わからんを前提に
・分からないという余白を残すような、教育のあり方があるのではないか

ドミニクさん:

データで可視化することと、見えないことを可視化することはまた別の話なのでは / いいね、RT、承認、ポピュリズム。新たな権威主義的なものが現代に / 正解がどこかにあるという思考ではなく、価値は人と作品の数だけ正解が生まれる / ウェルビーイングの研究をしている。今世紀、心の充足の学問分野が盛り上がっている/ 技術を使う人間の考え方が成熟する必要がある。近代科学主義に対する謙虚な視点を再考する必要があるのでは /  
日本の社会でやりたいこと?の話を受けて
・『未来をつくる言葉』
・トランスレーションレーションズ展
・常に変動し続けるアイデンティティをもっと広めていきたい
 →正解思考から脱することができるのではないか?

セッション2つ目

森田さん:

・人間活動に反応するように地球環境が変容している時代
・船橋さんの印象→「人間がいることによって、ゆたかな生態系をつくることができるのではないか?」という視点が

船橋さんの話を受けて
・具体的なことをやりながら、抽象的なことも思考するというあり方
・地球の状況、計算だけでは間に合わない時代にきているのではないか?
・response ability:応答する能力、船橋さんが🇧🇫に行ったのは、計算ではないのではないか?思わず手を差し伸べてしまうこと

船橋さん:

・研究者の人たちとの関わりで感じること「発見、早い者勝ち」。そのような状況が成り立ってしまっているが、森田さんの印象は「我の強さ」ではない、何か
・森田さんの印象→小さなものを散歩の中で見つけてきて、慈しむように、情緒のように / 情緒的なものに気づかせてくれるような印象
やりたいことは何か?という質問を受けて
・父親が環境社会学者→公害問題への焦点 / 苦しみを受ける人と、経済的な暴利を得る人。その分離。それに研究で取り組んでいた。水俣病の調査にも行っていた。
・父親が宇沢さんの本を持っている様子をみて、経済学と社会学の違いを感じた / 社会学は経済システムをも解明しようとする学問なのではと悟った
・親の世代でやったことを理解しつつも、僕たちがやるのは、また別のこと。経済一辺倒ではなく、具体論として経済の再構築を。
森田さんの responsibility の話を受けて
・アフリカにいくのは、日本国内をめぐるくらいのもの
・アフリカで人類が誕生した。
・ブルキナファソの砂漠での農業の話 / 日本の30〜40年後だと思っている
・巨人の肩に乗っているという認識がある
・協生農法というアプローチ

森田さん:

船橋さんの話を受けて
・島にやってきて、実際に景色を見る、聴く、感じるということはやはり、オンラインの活動とは違う何かを感じることができる

船橋さん:

・美術館の話。限られた経験。犬島は、違った。犬島の銅の精錬所の過去の歴史があった。区切ることができない体験。

森田さん:

・船橋さんの思考が、瞬時に過去とつながっている。それはエコロジカルな思考なのではないか。→目の前の事象が、1億年前と接続し、未来にもつながる。過去と未来と共にあるような時間の飛び方。
・土はローカルなようで、ローカルではないではないか?地球のあちこちにつながっている。完全なローカリティではなく、つながった世界。
・つながっちゃっているという感覚をどこまで深めていけるだろうか?その感覚は responsability につながっていくのでは
・船橋さんのエピソード→ 物は利他的なんだ、と気づいた。壊れたら壊れたまま。自然の法則にしたがっている。

船橋さん:

・利他性の貯金。
・ケトン体で動くということは、穀類から脱却できる可能性があるということ

森田さん:

・ただ理屈っぽく生きているということではなく、目に見えないものに支えられて生きているということを実感されながら生きている

モデレーター:

・協生農法。農業ではないのか
・どうやって、他の人たちにトランスレートできるのか

森田さん:

・閉じようと思っても、閉じることができない。外から入ってきてしまう
・対話の中に、外からの視点が染み込んでしまっている。
・閉じることができるということが機能不全を起こす考え方なのではないか

モデレーター:

・人間はモノカルチャー的にしてしまう。
・ゆたかな世界を生きることに実践が必要

船橋さん:

・別の世界のことは認識できない
・でも、すでに起こっている
・フンベルト。環世界。外から意図しないものが入ってくる。
・人間の認識には外から意図しないものが入ってくる。
・農法と農業の違い?
・経済と自然資本の再生産過程を再設計すればよい
・自然資本の再生産過程は、経済プロセスから排除されている
・何を見える価値とするかに限界がある。 
・商品、たとえば椅子、それが人間観に立脚している
・人工物。たとえば作品。風にそよぐ金属。経済的合理性はない。
・隠れた制約をあぶり出すアートの作品。それは問いである

森田さん:

・(StillというT-shirtsを着ていることに対して)Stillの意味は、じっとする、にもかかわらず、持続(まだ話してるよ〜みたいな)ニュアンスがある。
・樹木は Still のあり方
・人間は植物に学んだ方がいいのではないか?

モデレーター:

・コモンズ投信でFor goodという言葉を掲げている。持続する / 永続するという意味合いがstillと重なる。
・経済。民を救うという意味合いがある。

森田:

・ティモシーモートンのエコノミーの定義の話→そこから着想、エコノミーは、全ての存在の喜びのマネジメントなのでは
・経済的制約の視点だけでは、地球の問題が解けない

船橋:

・資本主義。
・エコロジー。
・生態系サービス。在る時はいくらでもある。ない時は、需要がどんなにあっても、お金を積んでも得られない。
・コロナの影響。ウイルス。生態系が直接市場に介入した。人間以外の生命体が、介入してきた。
・サイエンスは、過去のことを深堀りしていくことはやってきた。それは得意分野。でも未来にも適応できるのではないか?
・拡張生態系。私たちの想像力によって、生態系をよりゆたかにすることもできる。

モデレーター:

・我々は、いかに生きるべきか?

森田さん:

・コンピューターでシュミレーションできる。でもフランス革命は計算でわからない。
・未来に引き継いでいけるようなものを作っていこう。自分たちも罪悪感を持たず存在していい。
・シミュレーションではなく、想像力と共に、Response していく。
・想像力の重要さ。人間しか持っていない能力とは?体感してないこと。時空を超える。イマジネーション。

船橋さん:

・(音声の都合で聞き取れず...)

他のブログ、感想

モデレーターを務めてらっしゃった渋澤健さんの「わからん」をテーマにしたブログ。

Noteの検索で見つけた「りすみん」さんの投稿。

ゲストの船橋さんの記事。超、読み応えあります。

私が受け取ったこと・考えたこと

以下、話が正しいかどうかではなく、私自身がどういう部分を受け取り、どういうインスピレーションや発想を得たのか、どういうふうに活動につなげていこうかということについて書きます。

発想が広がったきっかけ:セッション1つ目の「正解」にまつわる話

「正解」という発想自体から抜け出ていくことは大事。特に、高度経済成長期に作られてきた、地球自然に負担をかける経済的合理性を作り上げている「正解」を問い直していくことはとっても重要なことだと思いました。

セッション1は教育についてのお話だったのですが、話されていることは、「特に目新しいものではない」という感じではありましたが、共感する内容でした。

現在の教育の大きな流れとしては、「情報伝達から学習へ(Learning)」という流れがあると思っています。生涯学習の専門家の方とも時折話しますが、その潮流の意味合いは「意味付けをすること」に流れがち。ここの話で扱われなかった点でいうと、過度に意味付けをすることに依存してしまうことによって、自分自身の思考フレームを強固にしてしまい、他の人たちとの協調性がむしろ失われる可能性もあると思っています。

意味付けをすることは大事なのは言うまでもないけれど、自分が定めてしまう意味の枠内でしか世界を認識できなくなるのはとってももったないことだなぁと思います。お寺が教育事業に関与していくとしたら、身体的、もしくは言語的な理解以上の学びを提供できるところに可能性があると思うし、むしろその部分を宗教というカテゴリーではなく、文化という切り口で届けていった方がいいのではないかと思います。

ドミニクチェンさんが、ウェルビーイングの話を出したり、ドミニクさんが探究されている「関係性」や「アイデンティティ」にまつわることがとっても示唆深いと思っていて、そのあたりの話をもっと聴きたかったなぁというのがセッション1の印象でした。 

ウェルビーイングと文化セクターの視点も、今後、探究していきたいことの一つです。

発想が広がったきっかけ:常に変動し続けるアイデンティティをもっと広めていきたい→正解思考から脱することができるのではないか?というドミニクさんの話

ドミニクさんが、アイデンティティの話を出したところに特に面白さを感じました。私自身、よくアイデンティティで悩んできているので、もともとドミニクさんの動き方に共感しているのは、この関心の重なりがあるのかもしれない...☺️ 

ドミニクさんのプロフィールや活動はこちらを参考に:
INTERVIEW: ドミニク・チェン「ディープテックとは、他者との共在感覚を延伸する技法を編み出すこと」

フランスと日本の二重国籍を持ちながら、アメリカの教育やフランスの教育を受けた経験、現在、日本に住んでいることなど、「一つ」にアイデンティティを定めることができない感じがドミニクさんからは漂います。

思えば、近代社会は、生まれた土地から人が自由になりうるという可能性を見せてくれたものだと思います。アイデンティティから土地性が距離を取れることになったと思います。

一方で、根無草として、ルーツを喪失する不安感を抱きやすくなる時代でもあると思います。

そして現在、デジタルツールを活用して、いろんなところで働き、暮らし、生きる可能性が広がったところで、一箇所で住まなくてはいけないというしばりはどうしても難しい。

だから、私たちは(少なくとも私は)アイデンティティの認識自体が、変化していった方が楽しく生きれるのではないかと感じています。それがドミニクさんのおっしゃる「常に変動し続けるアイデンティティをもっと広めていきたい→正解思考から脱することができるのではないか?」という発言だと解釈しました。

このあたりは、仏教思想やトランジションの概念を参照にしながら、よく考えます。自分は確固とした変わらない存在として捉えるのではなく、諸行無常で、移り変わる存在だ、という認識を持っていた方が生きるのが楽だし、それはこう生きるべきという正解思考からの脱却として、現代では機能するのだと思います。

発想が広がったきっかけ:セッション1の「わからないこと」と権威にまつわる話

セッション1を聞いていて、大まかな流れとしては、ブロックチェーンが使用される社会のように、分散型の社会が作られていく社会の流れはより加速していくだろうなぁと思いました。

その時、いわゆる既存の権威の影響力が相対的に小さくなっていくと思います。SNS等の影響で、もうすでに、そうなりつつありますね。それに代わって台頭していくデジタルに強い新しい権威主義に関しては気を付けたいところだなぁと思いました。

権威主義という枠組み自体を乗り越えていけないだろうか?そんなことを思う次第です。

この権威の話が、「わからないこと」という話とセットで出てきたのはなるほどなぁと思いました。権威が担保していた「わかる」ということの確からしさ。それが権威なき世界になっていけばいくほど、相対的に「わからない」世界になっていきますよね。

そんな時に、権威は完全に誕生しないのか?というと、ブロックチェーン上で可視化できる観点のポイントが稼げる人が新興の権威として表出するのだろうか〜と思ったりしました。

人間同士での上下、権威と非権威という区分けではない、相互作用の起こり方はどのように測定したり、可視化するのが好ましいだろうか?という問いは、これから向き合ってみることにします...。


アートについて

今回の話の中では、アートがわからないものの象徴として話の中で扱われていました。ここでの直島のアートは、その場所でしか見て・体験できないサイト・スペシフィックであることが前提になっていると思います。私自身、この時代において、そのような自然と切り離されない形でのアートというものは影響力を増していくだろうと思うし、アート業界にもエコロジー、サステナビリティ、地球が一つであるということなどの観念は流れ込んでいき続けるのではないかと思いました。

ただ、この視点以外からも「アート」を見つめ直したいなぁと率直に思いました。

たしかに経済的合理性から視点を外してくれるものとしてアート作品は成立しうると思うのですが、作家側の視点に立つと、「わかってほしい何か」がある場合もあると思うんですよね。それを単純に経済合理性の枠組みから外れるために、アート、というふうに扱ってしまうのは、そのアート作品の持っている文脈のようなものが削ぎ落とされてしまうような心地がして、ほんの少し、今回の話での「アート」モヤッとしました。

とはいえ、話の中で、経済合理性の思考フレームから私たちを自由にしてくれるかもしれない「わからない存在」になりがちなアートの効用はたしかにあると思います。その点は、共感します。

アートを手段として捉える視点のあり方?が気になっているのかなぁ。同じような違和感を抱く人、いませんでしたか?

物事に目的と手段を見出していく思考のあり方はとっても大事だと思いますが、同時に、物を手段化してしまうことで見えなくなってしまうことがあると思うんです。

アート作品が「わからなさ」をもたらしてくれるものとして消費される状況は、なんだか、それだけがアート作品のもたらすものではないなぁと思いました。

直島は、アートによって再興した島です。他の瀬戸内芸術祭の舞台になる手島や豊島も、そのような流れにあります。それらの作品たちは、人を島に連れてきます。そして、そこにきた人たちは消費をしていきます。観光産業として、とっても大事な機能を果たしているのではないでしょうか。(以前、直島には行きました。)

このフレーム自体が、消費的な位置に置かれてしまうアート作品というのを浮かび上がらせているような心地がしています。(けど、明確に言葉にならずにもどかしい...)

と、このようなモヤっと感は残っているのですが、アート作品を体験する側とアート作品の間で解釈が生まれ、その多義性が許されるという感覚になりやすいアート作品は、社会の中では大事だと強く思います。

何にしろ、自分の世界が圧倒的に広がってしまうような毒 / もしくは解毒剤にもなりうるアートは、いいですね。好きです。


大筋、共感。一部、疑問、という感じでした。

発想が広がったきっかけ:ティモシーゴートンのエコノミーの定義の話→エコノミーは、全ての存在の喜びのマネジメントなのではという森田さんの発言

この定義、素敵ー!と思いました。Ecoという言葉が頭についているエコノミー(Economy)。何だか、現代で悪魔のような存在になっていて、それを捉え直していきたいと思っているので、この喜びのマネジメントという言葉は震えました。いいなぁ、この定義。

全ての存在の喜びにつながる、という時の全てには人間以外の存在も入ってきます。私たちの喜びだけではなく、動物も植物も、菌類も、さまざまな関係性が豊かになっていく方向性を見出していきたいなぁ。

これは、とっても思考の枠が広がる、ありがたい視点でした!ありがとうございます!

発想が広がったきっかけ:目の前の事象をエコロジカルに捉えるということ / 時間軸が過去と未来に接続すること

これもすごく大事な視点だと思いました。時間軸の話。

エコロジカルな思考、と聞くと、なぜ、それをエコロジカルという言葉で表現するのかもっと深堀したいなと思いましたが、未来と過去に接続された時間軸に飛ぶことができることは肌感覚でとっても大事なことだと感じています。

過去。

これまでの経緯というか、これまでの地球の積み重ねがあって、今自分が現在に立っていると思うと、それには途方もないあれこれがあったはず。

仏教の世界でいうと、2500年の時をすぐに飛ぶし、地球の誕生という意味では46億年くらいは過去に飛べるし、宇宙の誕生という意味では138億年くらい過去に飛ぶことができます。

あまりにも過去に振り返ってしまうと、もう壮大すぎて、どうしようもないのですが、こういうふうに、これまでのことを知るということ自体が、現在を謙虚に生きることにつながっていくのではないかと感じました。

そういう意味では、話の中心の骨子にもあった、「資本主義だから悪」ではなく、それをもう起こってしまったこととして受け入れつつ、だからといって、同じやり方を選択するか否かは謙虚に吟味していくという過去からの resposibility を発揮していくことが必要だと思いました。

謙虚にその存在を受け入れるということ、まだまだ自分はできていない。今の状態だと、自分が違うな〜と思っている思想や表現の仕方をしている人たちをゆたかに受け入れるということがしづらいなぁと思っています。

相互作用を起こすには、相手の視点も受け取らなくてはいけない。悩ましいところです。

さらに、未来。自分たちが享受できる生態系や地球、宇宙からの恵みを、未来の世代にも味わってもらえるように、継続、再生、発展させていくことが大事だと思いました。未来の声に対する responsibility。それも意識していきたいと思います。

仏教思想に触れ始めて、自分自身がびっくりしたことの一つも、この過去と未来に開かれたエコロジカルな時間軸のあり方だったなぁと思い出します。

今は過去と現在と切り分けられているわけではなく、今は過去と未来を含み込んでいて、過去を継承するという現在も生じるし、未来が出現するという現在も生じる。

そのような含み込んだ現在を生きることって、それ自体が尊いなと思います。

発想が広がったきっかけ:閉じることができるということが機能不全を起こす考え方なのではないかという話

これまでの経済の得意技の一つ、それは囲い込みです。それは言い換えると閉じた生態系を作ってきたということかもしれません。今回、「閉じることができるという考え方が機能不全を起こしている」というセッション2のどなたかの発言を聞いて、なるほどなーと感じました。

そもそも閉じることができるということ自体が一種の自分たちが作り出した幻想だったのかもしれない。

何か自分にやってくる影響に対し、コントロールできると思っちゃいがちです、私。「すでに流れているものがやってくること」という記事を今日の朝に書いているので、それなりに「やってくること」に意識を、身体を開いていけたらと試行錯誤していますが、現実には、やってくると嫌なものはたくさんあります。笑

自分が好きなものだけやってきてほしいという点では、自分はまだまだ、コントロール志向なのだと思います。謙虚にそこには向き合っていきたいです。周りの関係性をコントロール(つまり固定化)するということは違うかもしれないけど、一方で、周りにより良く関わっていく能力はどんどん伸ばすことができると思っています。その時の関与能力はいいとして、それだけでなく、気にするべきことの一つは「前提にあるOS」だと思いました。

自分が採用し、よく参照するのは、「苦を抜いて、楽を与える(抜苦与楽)」というものです。ただ、それを実践するのは、一筋縄ではいかないし、これからも、探究し続けると思います。OSと実践のアップデートは常に...。そしてOSや実践が違うと思ったら、それを手放していくこともまた、必要かもしれません。

そして、このOSの話は次の想像力と倫理観の話につながります。
 

発想が広がったきっかけ:イマジネーションの話

想像力の重要さ。同感です。

そして、欲を言うと、もう一歩踏み込んだ話を聴きたかったと思いました。

地球を豊かに破壊することを想像することも想像力に為せる。逆に、地球がより良く繁栄していく寄与をする想像力も私たちは働かせることができると思いました。想像力と、語られていましたが、その内実をもう少しトークの中で聴きたかったなぁと思いました。

自分たちが過剰な欲望を満たすような想像力のあり方が、人を本当に幸せにするのか?ということには、私は疑問を持っています。資本主義をドライブしてきたものの一つは想像力だと思います。あくなき欲望の追求でした。

一方で、現在、おこなうべきは、地球や自然との関わり方を変えていくことであり、主催側の占部さんが話していた「高い倫理観」に結びついていくのだろうなぁ、と。

最近では、スペキュラティブ・デザインなどのキーワードが日本でも流行るようになってきて、新規事業系の方々でそれに興味を持っている方、そういう未来のフィクション性のあるものから現在の発想を覆すような思考態度をビジネスに導入していこうとする人たちが増えてきているように思います。

ただ、これが、これまでの経済合理性一辺倒の思考フレームの中で、それをただただ促進していくためのツールとして扱われていくならば、それはこれまでの延長上の打開策にすぎないようになってしまうのではないかと思っています。

とはいえ、想像性は大事です。想像をすること、アイデアを作り出すこと、それを通して、物事に変化を生じさせていくことができるという感覚を持った私たちだからこそ、できることはあるし、それを前向きに思考し、トライしていきたいなと思いました!

そういう意味では、ネイチャーとクリエイティビティの両立を図りながら、自然をゆたかに、人のこころをゆたかにしていくような創造活動が重要になってくるのかもしれないと思いました。

仏教思想を探究していく中で、だんだんと私も、話が環境倫理や社会性の倫理観に行き着くことが多くなっています。そのベースになるのは、人間をどう見るか、自然を見るか、という人間観、自然観の問い直しです。

もう一つ考えたいのは、過剰な想像力を持つことが、人を苦しめてしまうことの可能性についてです。想像力は、物語を生み出します。頭の中のフィクショナルな要素が、外に外在化していくことになりますが、物語的思考は、「思い通りにいかない」という状況を増やすことにもつながります。

そのような状況を乗り越えていくためには、思い通りにいかないことはいっぱいあるけれど、それでもなお、何かをなしていくことができるというマインドセット、および、自己効力感を養っていく必要があると思っています。

そのような学習が社会で、教育現場で起っていくには、自分は何に寄与できるのだろう...と問いをいただきました。
 
コントロール(固定化)から相互関与へ。引き続き、探究していきます。

さいごに

もっとこちらの話題を深掘りしてほしい、、、とか、もう一つ深まった視点がほしい、、、とかいろいろ思いましたが、運営側の準備と手配、そして何よりイベントを作ってくださったことに感謝しています。ありがとうございました!本当におつかれさまでした✨

時間を共に過ごすことができて、そして、未来の希望を感じるセッションの数々で、嬉しかったです。

自分なりにも、エッセンスを学び、活かしながら、次の当たり前を作っていくべく、命を使っていきたいなと思いました。

どう形にしていくかー。特に文化の領域の方々、協力しながら、文化の世界からできることを、次の社会モデルを構想しつつ、想像的に、創造的に、遊びながら形にしていきましょ〜😇 

では!




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