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新物理はどこへ?

2022年も終わりが近づき、欧米の研究者らがクリスマス休暇に向けて店じまいを始めていた12月20日になって、素粒子物理学者にとってちょっと衝撃的なニュースが飛び込んできた。今回新しく発表されたLHCb実験の結果は、これまでに同じグループが報告してきた結果を完全に否定するものだったのだ。素粒子の標準模型では説明できない、何か新しい法則が顔を出していると期待されていた実験データは幻だった。素粒子物理は再び先の見えない霧の中を進もうとしている。

この実験は、B中間子の稀な崩壊を調べるものだ。高エネルギー加速器研究機構(KEK)で進めているBファクトリー実験で行われているものと同様だが、KEKでは電子陽電子衝突でB中間子を作るのに対して、CERNのLHCb実験では陽子陽子衝突を利用するおかげではるかに多くのB中間子を生成することができる。その分、欲しくない反応も多数生成されるので、見たい反応だけを抽出して測定する高度な技術が必要になる。これに成功したLHCb実験は、その圧倒的な統計量を生かしてこれまでに数々の興味深い結果を発表してきた。$${R_K}$$と呼ばれる今回の測定もその一つだ。

B中間子はボトムクォークを中に含む粒子で、ボトムクォークの崩壊に伴ってさまざまな粒子に壊れる。多くの場合、ボトムクォークはチャームクォークに壊れるが、ごく稀にストレンジクォークに壊れる場合がある。この崩壊はループ効果、つまりトップクォークなどの重い粒子が仮想的に寄与する過程、を経る必要があるのでめったに起こらない。また、仮想的に寄与する重い粒子はトップクォークだけではなく、まだ見ぬ新粒子もあるかもしれない。そういうわけで、標準模型の枠を越える現象が起こるとしたらこういう崩壊パターンに現れるのではないかと期待されていた。まさにそこで出てきた異常、ということで多くの注目を集めてきたわけだ。

$${R_K}$$は、ある種の崩壊確率の比を意味する。(ちなみにRは「比」を意味する"ratio"のRなので、たいていの比はRと呼ばれることになり、大変まぎらわしい。)具体的には、ストレンジクォークに加えてミューオン対($${\mu^+\mu^-}$$)が出る場合と、ストレンジクォークの他に電子陽電子対($${e^+e^-}$$)が出る場合の比ということになる。標準模型では、両者はほとんど同じ確率で起こるので、この比はほぼ正確に1になる。そこからのずれが見つかったら「ビンゴ!」、新物理の証拠というわけだ。

LHCb実験がこれまでに報告してきた値は1に対して15%ほども小さく、誤差を含めても明らかに1から離れていた。この比を考えることによる強みは、他の多くの場合に問題になる標準模型の予言に対する理論的な誤差がほぼゼロだという点にある。だから言い訳は効かない。そういうわけで、ここには何かあるに違いない。この結果を説明するために、標準模型を越える「新物理」の模型がいくつも理論家から提案されていた。ところが、今回のLHCb実験による発表では、測定値はほぼ正確に1。理論家があれこれ考えてこしらえた模型はすべて雲散霧消したことになる。

いったい何が起こったのか。いつの場合もそうだが、実験は難しい。今回の問題は、電子陽電子対の事象を数えるときに他の事象がまぎれこんでしまったことにあるらしい。測定器のなかで電子を同定するには、強い磁場をかけてそのなかを走る電子が曲がる様子を測定すればよい。最終的に粒子を止めてエネルギーを測定する。原理はそれでいいのだが、電荷をもった軽い粒子はどれも電子と同じように見えてしまう。例えば荷電パイ中間子は電子よりもかなり重いのだが、LHCbで起こる高エネルギー衝突では非常に大きな運動量をもつために質量の違いは比較的小さく見え、電子と区別しにくくなる。こうした問題は当然わかっていたのだが、データ量が増えたことで同定を間違える確率をより正確に見積もることができるようになった。それが今回の測定値の違いにつながったわけだ。これまでの測定での誤差の見積もりが甘かったと言えばそれまでだろう。だが、系統誤差というのは、わからないから系統誤差なのであって、その見積もりはいつも難しいものだ。むしろ、自ら誤りを見つけて正した、その誠実さを称賛したい。実験科学の健全さを示した例だと言ってもいいのではないか。

ともあれ、素粒子標準模型からのずれをしめす最有力の候補は消えた。他にもいくつか残っているが、それぞれに問題を抱えていて明白な証拠とは言い難い。例えば、ミューオンの異常磁気能率。理論と実験のズレは見られるが、理論計算のほうは量子色力学のせいで難しく、ある実験値をインプットした現象論的評価と格子QCDシミュレーションによる結果が食い違っており、どちらが正しいか今のところわからない。他にもB中間子のタウレプトンを含む崩壊があるが、これは最低でもニュートリノが2つ出る事象なので実験が非常に難しい。Wボソンの質量のズレという話もあったが、それこそ量子色力学の難しさに起因する問題を解決できているようにはとても見えない。いずれも難しい問題が待ち構えている。

素粒子物理学者は2022年の年の瀬を落胆して迎えるべきなのか。必ずしもそうではないだろう。問題が山積みだということは、やるべきことがいくらでもあるということでもある。地味で細かい問題かもしれないが、「悪魔は細部に宿る」。細かいことを一つ一つ理解していくことこそ研究の楽しみなのだから。

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