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高校時代 大きな挫折と自分の無力感

僕は努力が認められその成果もあり、
晴れて高校サッカーの名門高校である中京大中京高校に進学した。
父と兄は神奈川県藤沢市の自宅で、僕と母は名古屋で暮らす、
二重生活の始まりだ。

入学して早々、
チームのレベルの高さに圧倒された。

身体能力の高さが異常だ。

僕は、同じポジションのメンバーの中で一番足が遅かった
中学時代までは足が速い選手としてやってきたのに、そのような状況になるなんて今まで想像したことがなかった。
とにかく、これまでのものは一切通用しないことがわかった。

その頃の自分は、名門校の中京大中京高校に入学できたことに一定程度の満足感を得てしまっていたと思う。
頑張って練習して認められて、さまざまなサポートを得て全国大会常連校に「入学」できた。
地元に残らず、挑戦するために県外へ出た。

「なんとなくの特別感」

を感じていた。
まだ、何も成し遂げていないのに。

あっという間に一年は過ぎ去り、ずっと部活内の下位チーム。
今の自分の実力では、一切トップチームに上がれる感じがしない。
そのような状況にも関わらず、ふつうの高校生活を満喫してしまっていた。

そして高校2年生、

気付けば年下が入学。
有望な選手は早々にトップチームに上がっていった。
このままではずっと下位チームのままだという危機感を覚えるようになった。

遅いながらにその時から大きく意識が変わり、自主練を通して自分のポジションに求められている技術の習得に費やす時間を増やした。
僕はパンチ力(キック力)がないため、シュートレンジ(確率高くシュートがゴールに入る距離)が狭くサイドチェンジをするためのロングフィードを蹴るのも難しかった。

そして、足が遅い。

ボールの運ぶテクニックだけで、縦へ突破するのは難しい。
ワイド広くポジションを取って、シンプルなスピード勝負では勝てない。
内側に入り近くでボールを受けてさばきつつ、縦と中に入る駆け引きがとても重要だった。
特に、中央でボールを受けた際のボールタッチを徹底した。
そのような中で、縦へ突破できてもクロスボールがなかなか遠くのファーサイドまで飛ばない。
クロスボールを上げる際の足の入れ方蹴り方を日々試行錯誤し、両足でクロスボールがあがるよう何度も繰り返した。
シュートレンジが狭いのも、ボールの中心をとらえることができていれば解決に近づく。
ロングフィードを蹴るためにも、ボールの回転と軌道を意識して繰り返した。

力がなくとも、徐々に形になっていたと思う。

しかし、

高校2年生の間、
ずっとトップチームに上がれず、
夏の全国高校総体も冬の全国高校サッカー選手権大会もメンバー外。

無力感に包まれていた。
僕は来年、全国大会のピッチでサッカーをすることができるのか?

今のままじゃきっと出れない。
「やるしかない」という気持ちと「無理なのではないか?」という気持ちが入り混じりながらも無我夢中で練習していた。


とうとう最後の年である高校3年生に。

サッカー部のトップチームのメンバーは授業を早く切り上げて練習に向かっている中、自分は学校内に残っているということが起こるようになった。

「あれ、サッカー部、行かなくていいの?」
「いや、俺はメンバー外だから」
「あ、そうなんだ」

死ぬほど惨めだった、今すぐ逃げ出しかった。
サッカー部の1学年の人数は20名ほど。
3年生になって学内に残っているのは僕を含めて数人だけ。
また、学校には寮がなくサッカー部のメンバーは愛知もしくは岐阜あたりの出身。県外からきているのは自分以外ほとんどいない。


わざわざ神奈川からきたのにメンバー外?
なんのために名古屋まできたの?


心底悔しかったし苦しかった。

毎日のように、誰よりも遅くまで残り練習した。
だけど結果は出ない。
状況はピークだった。

父は仕事が大変でうつ病になった。
二人で神奈川に住む父と兄は大喧嘩して、兄は家出をした。
兄は、もう父親とは暮らせない、名古屋に来ると言っている。
一時的に、母は東京に戻った。

自分のせいで、家族はめちゃくちゃになった。

そんな中、自分はサッカーで一切結果を残せず、ベンチにすら入れないメンバー外。

いつも何事もなかったように、変わらずご飯を作って待ってくれている母。

僕が地元を離れて中京大中京高校に行くことになり家計の負担は倍増。
母が不在で金銭的にも精神的にも大変ながらも
頑張って働いてくれている父。
本来いるはずの家族は家にいない、
父とぶつかりながらも自分の思いや考えを我慢し俺を送り出してくれた兄。
自分が中京大中京に行きたいと言って、
そのためにたくさん動いてくれた広山さんのサポート、
動いてくれた関係者の方々。



これまでたくさん助けてくれて、サポートしてくれた人たちに対して、自分はなにも恩返しをすることができない。


毎日泣きながら自転車を漕ぎ、帰る日々だった。
当時の自分には、暗い感情を見せずに家に帰ることだけで精一杯だった。

結果的に高校3年間、
僕はずっとメンバー外で全国大会のピッチに立つことはなかった。
最後の全国高校サッカー選手権大会、スタンドで噛みしめていた。

この経験があったから、
家族や自分をサポートしてくれる人たちに対する感謝が強く芽生えた。
家族の大切さを実感した。
感謝の気持ちがあるから、自分の力以上に頑張れるのだとわかった。

しかし、

結果がすべて。

エンターテインメントでない限り、頑張った感動エピソードなど意味がない。
その厳しさを学んだ。


中学から伸び悩み、高校サッカーでは一切活躍ができない。
苦しい悔しい経験と引き換えに、自分の価値観が強く作られた数年間だった。
この頃のことを思い出すと、10年以上経った今でも涙で溢れる。

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