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赤ちゃんが若くてかわいいお姉さんだとよく懐くというのはルッキズムではなく自然なこと

(こちらの記事の続きとなります)

 男の子は小さいときからきれいなお姉さんが好きだとか、赤ちゃんでも、かわいい若いお姉さんだとよく懐くとよくいわれていたりとかする。

 保育園や幼稚園の職場体験で中学生や高校生の男女がきた場合も、子供たちはまず最初に見た目のいいお兄さんお姉さんのところに群がるらしい。

 そして、だんだんと一生懸命遊んでくれるお兄さんお姉さんが人気になってくるけれど、見た目のいいひとが積極的に遊んであげていれば、やっぱりそのひとが一番人気になるらしい。

 職場体験の場合は、子供たちからすると遊び相手として楽しそうなひとに寄っていくのだろうし、男女ともに見た目のいいひとに群がるというのは、容姿がいいからと言うよりは、みんなの人気者であるようなひとに吸い寄せられているというのが実際のところなのだろう。

 けれど、そうだとしても、保育園や幼稚園の職員のひとの視点では、見た目のいいさわやかなお兄さんお姉さんに群がっているように見えてしまうということなのだ。

 それは残酷なことのようにも思うけれど、そこにひとが何人もいて、かわいくて笑顔が柔らかいひとを見て、その隣のそうでもないひとを見たときには、見比べての気分の違いがあるのだ。

 相手をしてもらえるひとを選べるのなら、子供なんだし、自分の集団内での序列を考えて自分の身の程にあった相手を選ぼうとなんてしないだろう。

 大人の男だって、遊んでもらえるわけでもなく、ただスーパーで会計してもらうだけでも、容姿のいいひとのレジの行列に並ぼうとする。

 幼稚園くらいだと、もう誰がかわいいとか、誰が格好いいということを子供同士で言い合っていたりするんだろうし、誰のことが好きだといって、抱きついたりキスしようとするようなませた子もいるくらいなんだろうし、もう充分にかわいいのがえらくて、かわいくないのはえらくないということをわかっているのだろう。

 テレビを見ていても、見た目のいいひとたちが画面の真ん中で何かをやっていて、見た目がいいわけではないひとたちはその後ろにいて、ほとんど喋る機会も与えられないのだ。

 アニメなんかを見ていても、かっこいいキャラや、かわいいキャラや、面白いキャラにはそれぞれの顔があるけれど、その他大勢の役は、その他大勢役の顔がついている。

 職場体験にきてくれたお兄さんお姉さんたちの中で、いつもテレビで見ているきらきらしたひとたちみたいな感じで格好よかったりかわいいひとがいて、自分たちと遊んでくれるとなったのなら、どうしたってうれしくなってしまうだろうし、その他大勢役の顔のひとにわざわざ近寄っていきはしないだろう。

 赤ちゃんがかわいいお姉さんになら機嫌よくあやされているとか、誰が誰なのかわかっていないくらい小さくてもかわいいお姉さんに近付いていくのだから、もっと動物的なレベルで引き寄せられているというのが土台としてあるのだろう。

 そのレベルで既に見た目のいいひとは他のひとよりも接していて心地のいい存在になっていて、そのうえで、成長していくと、見た目がいいことにもうれしくなるし、見た目のいいひとのリラックスした自然な優しさやさわやかさにもうれしくなるようになっていくということなのだろう。

 子供はそうやって成長していくにつれて、きれいなひとに生理的にうれしくなりながら、だんだんと世間では見た目がいいことこそがすごいことだということになっているというのを知っていくし、自分がみんなの中でどれくらいの見た目なのかということを、みんなから扱われ方で突きつけられるようにもなっていくのだ。

 そんなふうに幼児期を過ごすのだから、子供たちが外見至上主義的な価値観を持つこと自体は当然のことなのだろう。

 そもそも生まれながらに外見至上主義的に接したいひとを選り好みするところからスタートしているという感じですらあるのだ。

 そして、それは生まれつきの性質だから、たいていのまわりにいるひとも同じような感覚を持っているし、社会も全体としては似たような感覚が普通の感覚となっているのがわかるし、自分の選り好みを反省してそういう感じ方を自分で抑圧しようとするきっかけなど、他人から押し付けられないかぎり、いつまでもやってくるわけがないのだ。

 もちろん、子供は自分が生まれ持った感覚だけで生きているわけではなく、自分で世間を見て、世間ではどういうことが当たり前になっているのかということを学んでいくのだろう。

 子供たちがかわいいひとをもてはやして、ブサイクなひとをバカにするのは、テレビを見ていたり、大人が陰口を言っているのを聞いて、そんなふうに振る舞うものなのだと学習するからというのも大きいのだろう。

 けれど、そこで学習されているのは、どんなふうにブスをいじると面白いのかということについての文化であって、差別心自体が世間を観察する中で生み出されるわけではないのだろうと思う。

 どうしたところで、外見至上主義的感覚自体は学習された差別ではなく、人間としての自然な感覚からできているものなのだろう。

 ただ、その感覚が、集団で活動する中で自然と序列を作ってしまう人間の習性と結びついたときに、特定の美しさが権威化されてしまう。

 その権威によって、一部の特定の美しさを強く持つひとが特別にえらいことになって、多くのひとがそれをもてはやすという構造になることで、その権威からしたときに劣位になったひとが、不条理に蔑まれることになってしまう。

 問題は、何かしらを権威化して誰かをちやほやしたがるような、不平等さを求める人間の本性のようなものをみんなが自重できないことなのだろう。

 フェティシズムとか、権威化されたものへのフェティシズムで興奮しているのではなく、相手の美しさによいものを感じさせてもらえたことで、そのひとを特別な存在に感じてしまうことは、誰に教わってそうしているわけでもないし、誰の真似をしながら身に付けた感覚というわけでもないものなのだ。

 けれど、ひとはフェティシズム的に何かを好きになりたがるものだし、ひとは集団内で地位の高いものをよいものだと思ってしまう。

 美しさへの特別な感情は、そういうものと混ざり合っていて、どこからが自然な感情の動きで、どこからが自分がいい気分になるために他人の容姿を利用しているのか、はっきりしなくなっているのだろう。

 だからこそ、差別問題としてのルッキズムが非難されて、社会問題としては改善されていっていても、むしろ、ルッキズム的なものの見方は、携帯電話とSNSによって毎日たくさんの顔を見る社会になったことで、より多くのひとの他人への眼差しを支配するようになっているのだろう。

 差別問題だからと非難されたからといって、外見至上主義をやめられるわけではなく、非難されないようにマナーを守るようになるだけで、見た目へのフェティシズムを蓄え続けて、それによっていろんなものを見て楽しくなっているひとたちは、自分にも他人にももっと外見至上主義的な目で見るようになっていくことになるのだろう。

 外見至上主義的な感じ方というのは、まだこれからも強まっていくのだろう。

 世の中のマナーとして、プライベートなレベルでも、ボディシェイミングやルッキズム的な発言は禁じられていくだろうし、公的な場所ではルッキズム的な発想だと非難されうる物言いで何かを語ること自体が難しくはなっていくのだろう。

 それでも、結局のところ、人間にとって大事なのは集団内での自分の地位なのだし、人間はまわりのひとたちと一体感が維持できる範囲で振る舞おうとするものだし、そうすると、まわりのひとたちが楽しんでいるものを自分も一緒に楽しめるように自分の感じ方を調整していくことになる。

 そうしたときに、情報化社会によって、みんながさらに生活の内容や考えることが似通ってきてしまって、違うのは外見くらいになっているのに、外見へのこだわりが下がるわけがないだろうと思う。

 世の中で見た目について言われることにしても、建前としては、ルッキズムにはとらわれていないかのように、世間できれいだと言われているひとみたいになりたいんじゃなくて、自分らしく美しくなりたいというように語るのがマナーのようになっているのだろうけれど、結局のところは、ダサいひとたちは、ダサいと思われないためにみんなと同じようにしておきたいというのが本音だし、自分の見た目に野心があるひとたちも、みんなの人気者みたいになりたいとか、みんなから好意的に扱ってもらえるようになりたいというのが動機になって行動するのは変わらない。

 太っていても痩せていても、みんなが美人だと感じる系統の顔でも、そういう系統ではない顔であっても、見た目がどうであれ、世の中で人気があるひとはかわいかったり、格好いいのも変わらない。

 きれいになりたいと思っていなくても、みんなの人気者になりたいと思っている時点で、かわいいとか格好いいと思われる状態になるしかない。

 ルッキズム的な差別がなくなったあとも、人気のあるひとと人気のないひとがいるのには変わりはないし、みんなよりダサいとみんなより劣った存在だと思われるのも変わらないのだ。


(続き)

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