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言葉が生まれる手前で、起こっていること。

先日、SNS関係の講座での同期の「はっちさん」とメッセージをやり取りしたときのこと。

はっちさんが、Instagramのアカウント名についてアンケートを取られていたので、「いいな」と思ったものをポチッとタップしてお返事しました。

はっちさんは当初、医療・介護・福祉関係のお仕事の方々の「お話をする場」を運営されようとしていて、「こういう場所を必要としている方が、きっとたくさんいるだろうな」と、わたし自身も、講座で一緒だったみんなも思っていました。

ただ、今回はっちさんは、この「お話の場」の言葉を、再考されたいご様子。

候補に挙げていらしたキーワードのうち、「保健室」を選んだわたしへ、理由を教えてもらいたいとご連絡をいただき、こんなメッセージをお送りしました。


ノートを書きつつ、メッセージをお送りしました。


こんなメッセージを送りました。

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「保健室」を選んだ理由は、医療・介護・福祉職の方々の疲れを、少し癒したり、少し吐き出せたりする場をイメージしたときに、「手当ての場」のように感じたからです。
お話することだけに限定しない、黙ってそこにいるだけでも安心できる場のような。
はっちさんの場にいるだけで、なんだかホッとするから足が向く、っていう感じですね。

なんとなく、お話したいけど、お話が難しい方っている気がするんですよね。

説明のつかなさ
言い淀んでしまう状態

こういうものを、抱えたままでいさせてくれる環境は、おそらくかなり貴重かな、と。
説明のつかないこととか、うまく言葉にできなくて言い淀んでしまうことって、人間相手のお仕事の方々なら、なおさらあるような気がして。
上手く片付かない気持ちを、片付けようとする前に、ひと呼吸、ふた呼吸置けると、「片付けようとしていたこと」が、ずいぶん違うものに見えてきて、場合によっては片付けなくてよくなったりするような。

大人がそうだから、今の子どもなんて、もっとそんな感じじゃないかな、って勝手に想像しています。

あ、脱線しちゃいました。笑
話を戻しますと…

説明のつかなさとか、言い淀んでいる状態は、人間の知性が最も活性化されていると同時に、とてもinnocentな状態で、脆弱だと思います。

それを、そのままでいることを許されることが、どれほどの安堵を生むだろう…と感じて、はっちさんの今なさっていることの貴さを「保健室」という言葉に託しました。

この保健室、とても美しいものだと思っているので、じっくり、ゆっくり、はっちさんのカタチにしていかれること、応援しています。

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このメッセージを書いた背景として、「言葉が生まれる手前で起こっていること」を、少し付け加えて書いておきたいと思います。


説明のつかなさ、言い淀み。

自分が本当に言いたいことって、今まで誰も口にしていない言葉だったり、今まで自分も聞いたことがないようなことだったりすることも、人間にはあります。

言葉がこれだけ溢れた世の中になっても、それらで賄いきれないほど、人間の心の機微は、無限の様相を呈するのが、現実で起こっているように感じるのです。

医療や介護、福祉の現場では、巷で囁かれる「人間とはこういうもの(らしい)」ということには括れない現実や、専門職としての知識も技術も、重ね続けた研鑽をもってしてでも、初めて目にする事例が目の前に立ちはだかることも少なくないことは、容易に想像できます。

そんな現実を生き抜いている人たちが、感じたことや目の前で起こったことを語るためには、ご自身の中で言葉を生成する時間が必要です。

生成するよりも、もう少し手前の、説明のつかなさや、言い淀んでしまう時間。

それは、人間の中で知性が最も活性化していて、星雲状態のものから、自分の実感に根差した言葉を見つけ出そうとしている時間。

こういうとき、人の内的活動は、大変innocentで、無防備な状態で行われていて、その分とっても脆弱で、傷つきやすいのです。

だから、言葉にする、言語化を急ぐのではなく、黙ってそのままでいさせてもらえることが、とっても大事なことなんです。


森に佇むように、口籠もることだってある。


黙ったままでいさせてもらった経験。

わたし自身は、医療関係者でも介護や福祉業界に従事していませんが、この「説明のつかなさ」「言い淀んでしまう状態」になった時に、「黙ってそのままでいさせてもらう」という経験を、これまで何度も体験してきました。

黙ってそのままでいさせてくださったのは、恩師の内田先生です。
大学時代のゼミの時間でもそうでしたし、卒業してからも、内田先生は教え子の拙い話に、本当に文字通り、静かに耳を傾けてくださいます。
教え子から発されようとしている、言葉にならない言葉を、声にならない声を、じっと聴き続けてくださいます。

逆の言い方をすると、

「あ、それはさ、こういうことなんじゃない?」
「違うよ、それはこうだよ」

なんて、水を差すような、上から目線のニュアンスの言葉を、わたしは内田先生から一度も聞いたことがありません。

言葉が生まれつつある状態の貴さと、自分の身体実感から言葉が生まれることの喜びを、内田先生ご自身もずっと体験してこられて、深く確信されているからこそ、このような姿勢で、教え子を含めたあらゆる方々の「言葉が生まれつつある瞬間」に、立ち会ってこられたのだと思います。
そして、この瞬間に立ち会うことを、内田先生ご自身の喜びとされているように感じています。

生まれたての言葉は、本当に囁くような小さな声で発せられます。
その声を聴こうとするなら、静かに耳を傾けること。
「黙ってそこにいさせてもらえる」という安堵は、「聞いてくれる人」がそこにいるから感じられるんです。

「あなたのタイミングで、大丈夫だから。」

こんなふうに許されていれば、訥々と、小さな声で話し出せてしまうから、不思議です。

学校に通いづらくなった子どもたちが、保健室に足を向けるのも、なんとなくわかる気がするのは、「よくわからない自分」をよくわからないままでいさせてもらえる場所のように感じるからかもしれません。
保健室でのおしゃべりって、決して大きな声ではなく、小さな声で「あのね…」と脈絡のないところから突然話し始める感じがするというか。


自分のタイミングで、言葉は見つかる


人間らしく生きている証の「ためらい」

大人になったからといって、言葉が生まれる瞬間がなくなるはずはなく、むしろ大人になってからも、自分の実感の伴う言葉を見つけ出すことは、知性を働かせるとても大切な瞬間です。

説明のつかなさを抱えることや、言い淀むことを、ためらわなくていいんだと思います。
それは、人間の知性が活性化する営みの一つで、人間らしく生きている証だから。

言葉が自分の実感を伴って、口を突いて出てきたり、文字となって書き出されたりする瞬間は、この上ない愉悦を、わたしに与えてくれます。
また、わたし自身も、誰かの言葉が生まれる瞬間に立ち会うことに、とても大きな喜びを感じます。
「今まで言葉にしたことがなかったことだけれど…」と前置きして話してくれる人との時間は、他のおしゃべりをしている時とはまた違った、時間の豊かさを感じます。

ここまで書いてきたことの中に、わたしにとって初めて言葉にしたことがたくさんあります。
はっちさんのおかげで、わたし自身の実感の伴う言葉の数々に、出会うことができました。

今回のメッセージのやり取りを通して、自分自身の声に、目の前の相手の声に、静かに耳を傾けることを、諦めずに続けていきたいと、改めて強く思っています。


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はっちさんのInstagramアカウント


「言葉が生まれる手前で起こっていること」については、内田先生のこの本に、詳しくたくさん書かれています。


内田先生との往復書簡も、よろしければどうぞ。



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