東大、1992年度、国語、第一問(現代文)、解答・解説


東大、1992年度、国語、第一問(現代文)、解答・解説
中村真一郎『記憶の森』からの出題。


(一)
日本の近世芸術の、全体的に安定した印象への志向が、(日本人である)筆者の感性に一致するから。

「文明」という言葉に込められた意味は〈時代〉以上のものがあるが、非常に説明しづらいので、近世の雰囲気というニュアンスが伝われば十分である。

傍線の直前を見ると「私の感受性」に対して「違和感を与え」ないとある。→内容①

これはなぜかを考えると、「桃山から江戸にかけての様々な作品」と、(西欧で誕生した)「近代芸術」の手法である「レアリスム」=「写実主義」との対比関係が見出される。つまり、〈西欧・近代・写実主義〉と〈日本・近世・〜〉の対比関係があり、〈〜〉にあてはまる性質(特徴)を説明する必要がある。→内容②
また、東大志望者は安土桃山時代を近世と抽象化できなければならない。これは随筆なので、対比関係から論理を読み取ることが求められている。

また、「対象と私たちとのあいだに長いあいだに出来あがっていた型のようなもの」については、傍線部の直前の「私」と、ここでの「私たち」という主語の違いがみられる。この「私たち」とは日本人のことであるだろう。
ただ、ではその「型」はどのようなものかを考えると、それは内容②と一致している。これに関してさらに言及するのであれば、美術史上の定石として、この時代の日本芸術は〈空間に、(極端にいえば)デフォルメ化されたリアリティを演出する〉ことを志向していることを説明する必要があるが、これを事前知識なしに本文だけから明確に読み取ることは難しく、また「長いあいだに」成立したということについても、〈その「型」が明治時代に断絶している可能性の検討〉と〈日本における写実主義美術の受容についての知識〉が必要となり、特に後者に関する人名すら本文ではあがっていないため、それは説明する必要がない。(この「デフォルメ」志向が長い間に〈パターン化されたテンプレートである〉ということまで説明するのは字数を考えても不可能である)
また、日本における写実主義のことについてであるが、本文では「芸術」といっているため文学における写実主義についての説明は必要ないし、むしろしないほうがよい。

内容①と内容②をまとめればよいが、日本人である筆者の感性に一致するのは当然であるから、内容②を丁寧に説明しても解答として成立すると思われる。


椿を主題とする工芸作品を作ろうとする文明の雰囲気には、私たちとの間に長い間かかって培われた伝統的な型があるから。
これは、教学社(桑原聡)の解答例であるが、上の解説がわかっていれば、内容に対する検討不足がわかるだろう。この解答では、どの時代の文明の雰囲気かがわからず、どのような型なのかもわからない。また、「そうしたもの」と椿に限定しないことも書かれているのに、椿を主題とする工芸作品に限定して書いている理由がわからない。



(ニ)
見る側の対象への認識を、徹底的な現実の観察に基づくものに改めること。

「虚無のなかから現実像を発見し直す」という内容と同じことが前の段落で書かれている。「強要」が「突きつけてくる」、「(目覚め)させられ」ると対応し、「発見」は「イメージ」「映像」に「目覚め」ることである。傍線部の直前の「もう一度」に注目すれば、「破壊」されたから「虚無」になるのである。

「従来の伝統的な型における対象把握を捨てて、現実的な観察にもとづいた個性的な描写で捉えられた新しい像に眼を向けること。」
教学社(桑原聡)の解答も本問は正解であろう。


(三)
作品が設置される(周囲の)環境と調和するような理念(理想)を表現するべきだという信念(〜理念が芸術には必要だという信念)のこと。
(別解)
「〜環境も顧みて、芸術的理念を求めるという信念のこと。」

傍線部では「倹ましい」「古風な」という連体修飾が二つなされているが、〈その信念がどのように古風で、どのように倹ましいのか〉を説明するには字数が足りない。また、設問は「どういう信念か」を問うているので、信念の中身を説明する。
一つ前の「たとえば」から始まる段落から、最後の「もし」から始まる段落までで、すべて「椿」と「鳥」が描かれている「釘隠し」にまつわる説明であり、その範囲で考える。
「そのような生なもの」(=「そうした生のもの」)は、「近代的なレアリスムの(西洋の)感覚」に基づく作品であり、それと対になるように読み取っていくと、説明するべき内容は二つである。
①(現実的なものは省き)「イメージを捉え」る
②「実用的な用途」に向くように作る


「芸術は見たままをすべて個性にもとづいて造形化すればよいものではなく、人々の心を安らかにする気品が必要であるという信念。」
教学社(桑原聡)の解答は、内容②を見落としている。正確には、〈作品を置く環境に合うという実用性を備えている〉から、「心を安らかにする」からである。


(四)
常に現実を切迫感をもって描けば芸術になる(芸術的である)というという近代西洋(の志向)を(あまり)(心地)よく思っていない気持ち。
※芸術とは〜するものだという〜に批判的な気持ち、でもよい。

「強情」とはどういうことかを考えると、第三段落以降から〈「見たまま」の「イメージ」(=「印象」を「個性的」に「造形化するのだ」と「主張」(=「宣言」)し「迫ってくる」(=「突きつけてくる」)態度(やその作品)が「のびやかでない」から、「強情」である〉ということがわかる。→内容①

これに対して筆者の感情は賛同していないことを説明する。→内容②


「現実的な観察と個性的な描写を追求するあまり、見る者を不安にさせ実用を無視する近代の芸術家に対する批判的な気持。」
教学社(桑原聡)は、問三の内容②をここで書いているが、字数の使い方がなっていない。ここで説明するべきなのは「強情」さなので、「〜するあまり」「無視する」では物足りない。それを理想としているのが近代西洋の芸術であるからである。また、「見る者を不安にさせ」るのはあくまでも結果であり、徹底的に現実を描写するから見る側がそのような印象を抱くというだけのことである。

(五)
a:意想外
b:強要
c:寸断
d:粗放(疎放)

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