山代 生 / Yamashiro Sho
熊野神社 鳥居脇の石が金勢様だったということを最近知り、改めて確認する。 道から見えるのは鳥居と金勢様だけだったので、斜面を登った先に祠を見つけた時は嬉しかった。 辺りはかなり荒れているのに、紙垂だけは新しさを感じさせた。 忘れ去れていないということに、この土地の強さを感じ、心打たれる。 木端の飾りは象だろうか。とても味がある。 早池峰神社 小さな神社の内側の壁全体に書かれた、掠れた文字に気がつく。一瞬、落書きにも思えたが、よく見ると何かを記しているように見える。その奥
天候だけでなく、自分のなかにも 風でめくられたり、雨であらわれたりするものがあるのを感じます。 人の想いに触れることで訪れるそういった風や雨のような体感が、自分のなかに新(さら)な状態をつくると、無性に森へ歩いて行きたくなります。 ここはすでに森なのに、もっと森へと。 そして、今日は森へ行きました。 雨が降っていたのですぐに引き返しましたが、霧の立ち込める森の風景は、絶えず変わり続けているのだと見惚れました。
12月に解体させてもらった鹿の皮で財布を作った。 解体すること、皮を鞣すこと、ものを作ること、それらを楽しむこと。 そして、終わらせること。鹿の終わりであり、僕のはじまりであるはずのその経験や感覚が、僕にはない。それでも、この鹿の個としての命は終わった。 その終わりは、単に「鹿の死」という大きな括りの中に放ることができない。 また「いかす」ということも難しい。 終わった鹿の命に、続いていく僕の時間が絡んでいく。 僕の時間の中で、終ったことを続ける、終わりを続ける。 個と
先に目覚めた猫のなやに続いて、一瞬考えたあと、今日も暗いうちに布団からはい出した。 外に出ると、薄暗い空にはまだ星が多かった。 南向きの薪棚から、ヤタクギとカラマツの小枝、薄いナラを、選んで籠に入れる。漠然とした憧れのようなものからか、そういった自然に生まれたものから火を起こしたいと思っている。 母が用意した油の染み込んだキッチンペーパーを、ストーブから取り出す。 火付きのよい着火材がほかにある現在、「こだわる」というのはこういうことだろうなと思う。 消壺から出した消炭は
夕暮れ、空が大きくひらけるところまで、急いで向かった。 雲がゆく空の先や、山の向こうをひとり見上げるとき、ここではないところにも、人と人の暮らしがある、ということを僕は自然と感じる。 言葉にしにくいけれど、何度も同じように湧いていくるイメージ。 それを分かち合えるように置き換えることを、今日が終わるまでとか、思いが鮮明なうちにと、つい急いでいた。 しかし、そう思っているあいだに、僕は見えていたものから少しずつ離れているのだ。 すぐに、分かるものを、と思うのはなぜだろう。
ウバユリが透かした光で、僕のちいさな散歩がはじまる。 この朝のなかでひとつ、凍えていたものが、易しくとけていく。
みんなで飲もうと思っていたコーヒーも、一緒に食べようと思って切ったケーキも、準備ができたら、そうではなくなっていた。 家の中はいっぱいいっぱいで、お互いに優しくなかった。 ひとりでお茶したくなって、ふいと外にでる。 薪割り台の椅子、ブロックの机。 冷たい夕暮れの風があたる場所で、屋根の上の影の森を見上げる。 鳥たちは木々の間を落ち葉のように行き交う。 彼らはみんな、僕の知らない時間を生きている。 自分の時間だけを過ごしすぎていた僕は、そう思う。 僕の時間を知らない誰かの時間
光の朝が、森ではじまっている。 いくつもの輝きが、光の届くあらゆるところで同時に産まれている。 すべての朝は並行しているんだと感じる。 僕は目移りして、あっちにもこっちにもカメラを向けてかけまわりたくなる。 けれど、その中で本当に向き合うことのできる光はごくわずかだ。 光を光として。 僕の前で並行するあらゆるものの中にある、その時の光に向き合うこと。 それは、自分のために光を探すことではなく、目の前にあるものを自分の光とすること。 名前をつけるような慎重さで、撮り残すための
光は秋 僕に合う光 その、光を探している
卵なくても 牛乳なくても どっかーん!がんづきはできる 食べて はたらく はたらいて 食べる はたらく人の食べものは どっしり重たい
流れる水温と淀む水温 裸足で感じわけた 背中に温もりを浴びた 顔を洗った からだで感じていた 薬師川の朝