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【題未定】戦後70年、教育制度は変わらないままで良いのか?【エッセイ】

 教育問題に関しては昨今の日本の状況、そして今後の成長を考える上で避けて通れない問題の一つだ。教育内容の不適合、教員不足、ICTの導入とトラブル、オリンピアンの教員採用など、1週間の間に少なくとも一つは新聞紙上を賑わせている。

 もちろん私自身が教員という職業に就いており、教育問題への関心が高いために目に留まる、という傾向は否定できない。しかし子を持つ親としても教育問題は避けて通れない人生の課題の一つである。必然、多くの人が関心を持つ話題であるのもまた事実だ。

 そうした教育問題に関心ある人の話題をさらうのはそれこそ先述のような問題だ。イノベーティブな人材を育成するために教育内容を変えるべき、校則といった自由を奪う仕組みを無くすべき、入試への批判や逆に大学ん全入への反発などそれぞれの立場や考え方でその主義や主張は様々だ。

 ところが学校制度そのものへの関心はというとそれほどでもない。おそらく、多くの日本人にとって6-3-3-4制はDNAレベルに刻み込まれた固定観念と化しているのだろう。それもそのはずで戦後の学制改革、1947年からこの制度の根幹は一度も変更があっていない。現役世代は言うに及ばず、後期高齢者の大半も戦後の学制の中で育っているのだ。このシステムを当然と受け取るのも無理はないだろう。

 かように現代の視点で言えば学制は非常に固定化されたシステムのように思える。ところが歴史を紐解いて見ると、戦前は比較的頻繁に制度の変更が行われていたようだ。

 日本の近代教育の開始は明治5年、この年に学制が公布され学校制度がスタートする。とはいえこの時点では旧来の学校=私塾も多く含んでいるため制度として確立されているとは言い難い状況だった。その後10年おきぐらいで変更が行われている。これは中等教育機関や高等教育機関が整備されていったことによるものである。したがってこの時期とある程度教育機関と制度がそろった現代とを比較するのは無理筋ではあるだろう。

 明治30年ごろには教育制度のひな型は完成し、戦前の学制はある程度定まっている。ところがその後も10年おきに改訂が行われている。明治40年には高等小学校の立ち位置が変化し、中学校や高等女学校と住み分けがなされるようになった。また大正8年には小学校令、中学校令、帝国大学令が改正され高等学校の予科制度が開始される。また昭和10年に青年学校令などが公布され、職業従事する青少年に対しての教育が義務化される。その後も昭和16年に国民学校令、18年に中等学校令が公布され、戦時体制へと移行する。

 こうした学制改革に関して、戦意高揚や子供を戦争へ駆り出したとする批判もあるが、冷静に考えれば国家の状況に応じて教育体制を臨機応変に変化させていったとも見ることができる。決して批判一辺倒で片づけてよいものではないだろう。

 翻って、現在の教育制度はというと、その基本的な形は1947年当時のものから大きく変化をしていない。ところが日本の置かれる状況や世界の情勢は大きく変化している。就学年齢や就業年齢、成人年齢も変化している上に、産業構造は比較にならないほどの変貌を遂げている。そうした状況の中でどうしてこれまでの制度をそのまま維持していく必然性があるだろうか。時代に合わせて議論し、適宜変更を行うべきではないだろうか。

 以上のことを踏まえると、昨今の教育改革における文脈において、学制改革を議論の対象から外していることには違和感を抱かざるを得ない。それほどまでに学校教育が現代社会の情勢に不適合を起こしているのならば、それぐらいの荒療治をすべきなのではないか、と思うのだ。

 おそらくそうした改革は成熟した現代社会においては大きな混乱を招くことは間違いない。アメリカのように地域(州)ごとに独自の制度を導入するのか、あるいはドイツのように早期の職業教育とエリート教育の分化を推進するのか、はたまた全く独自の制度を志向するのか。選択肢は複数存在し、そのどれもが険しい道ではあるだろう。しかしだからこそ、既存の教育制度を壊し、新たな教育制度を確立するためのきっかけになるのではないだろうか。


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