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担任が謝る文化の違和感

学校で教員をしていると、担任をしているクラスの生徒と他の教職員の間に何かしらのトラブルが発生することがあります。

授業中の問題行動であったり、言葉の行き違いであったりです。

そんな時に、日本の学校文化ではクラスの生徒のことに対して

「うちのクラスの生徒がご迷惑をおかけしてすみません。」

のように、担任教員が別の教員に謝罪するという不思議な文化が存在します。

担任が疑似保護者として機能する空間

学校内において担任が疑似保護者として本人の代理人になっているケースをよく見ます。

上の話はその顕著な例の一つでしょう。

これ以外にも、教員が擬似保護者として振る舞う事例は多く目にします。

教員側が担任のクラスの生徒の責任を持つ、と言えば聞こえは良いのですが、はたしてこの慣習は生徒の成長に繋がっていると言えるのでしょうか。

学校は生徒が大人として振る舞う空間

私は学校という空間を生徒が大人として振る舞う空間だと考えています。

一般社会においては権利を制限されている子供が、一個人の疑似成人として訓練を積む場が学校という空間ではないでしょうか。

そう考えたとき、その空間で得た成功も失敗も全て本人が責任を持つ前提で行動をすべきです。

つまり、保護者という存在から離れて、一個人としての責任を取る訓練をする場所と言えます。

もちろん、本当の成人ではないため周囲の大人のフォローは必要でしょう。

しかし、折角一人立ちを体験できるはずの空間において、教員が擬似的保護者として庇護下に入れてしまっては生徒の成長を阻害するのではないか、と私は考えてしまいます。

教員こそが「子離れする」必要がある

高校生であっても、子供を心配をし過ぎる保護者は少なくありません。

何年か前までは保護者のそうした感覚は全く共感できませんでしが、子供が生まれた今では子離れできない親心が分かるようになりました。

しかし、本当に「子離れ」しなければならないのは保護者ではなく、私たち教員側のようにも思うのです。

生徒を一人の人間として権利を尊重し、本当の意味で対等な存在として扱うことは、あらゆる学校において必要なことではないかと思います。

もちろん、小中高と学齢に応じての距離の取り方は異なりますから、校種によってそのやり方は変える必要はあるのでしょう。

私自身はそう出来るように心がけています。

まあ、胸を張ってできていると言う自信はありませんが…

まずは…

生徒のことで教員間での謝罪する文化を全否定はしません。

ただ、「ありがとう」と「ごめんさない」を生徒にきちんと伝える文化の方がより重要ではないかと思います。(これが出来ていない人が多い…)

それこそが生徒を尊重する第一歩かな、と。

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