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【題未定】エッセイを書く楽しみに気づいたこと、そして多くの人に伝えたいエッセイを書くことの推奨【エッセイ】

 note記事を2年以上、毎日書いている。始めのうちは教育系ニュースを中心に扱っていたし、現在も週2ぐらいでそのネタを扱うようにはしている。自身の職業柄、そうしたニュースには敏感だし情報の回りも早いからだ。加えて言えば実務上役に立つことも少なくない。

 とはいえ流石にある程度すれば同じネタの使い回しに限界が来る。教育業界における問題がここ数年で全く解決しない(労働問題、部活動問題、教育課程や入試の方向性の問題)し、するとしてもその変化がビジネスなどの世界と比べて極めて緩やかだ。必然、ネタ切れに困ることになる。

 そこで思い立ったのがエッセイを書くというスタイルだ。エッセイならばニュースを追うのとはまた異なる視点で書くこともできる。私見を入れても「エッセイだから」という理由で中立性をそこまで担保する必要がない。さらに趣味やそれ以外の生活ネタも組み込む事ができて一石二鳥というわけだ。

 エッセイを書くときに気をつけていることが一つある。それは普段の記事とのかき分けだ。まず最も異なるのは私の普段の記事はすべて敬体であるのに対し、エッセイはすべて常体だという点だ。これは記事の中身にまで関わる違いとして自身としては考えて使いわけている。普段の記事が中立性を担保するために自身の視点を入れつつもあくまで客観的に、かつ柔らかな表現を意識しているのに対し、エッセイはある種の独断と偏見を織り交ぜた内容としている。その差を明確に自分の中で意識するためにも、あえて文体の使い分けをしているということだ。

 もちろん、エッセイとはいえ極端な思想や視野狭窄な意見は書かないようようにしているし、自分自身がそうした思考にとらわれないようにはしている。しかしあくまでも個人的な考えの中で行っているに過ぎず、どこまで客観性を持っているかは微妙だとは考えている。

 エッセイを書くことは楽しい。このエッセイを誰が読んでいるかといえば木端note執筆者のビュー数などたかが知れているわけで、狐狸庵先生や吉本ばななのようにはいかないだろう。とはいえある一定数の人の目に付く場所で自身の意見や考えを開陳する場があるというのはありがたい話だ。何よりも誰にも話さず、頭の中でモヤモヤと思考するのと比較すると格段に考えが深まり鮮明化するのを感じる。

 エッセイを書くことに逡巡する人は多いと聞く。誰かに読ませるような文章力はない、それほど物事を深く考えていないなど書かない理由はいくらでも思いつく。だがむしろ大した文章力でもなく、さほど深くない考えほど多くの人間が共有できる意見なのかもしれない。世の人々は哲学者でもなければ東大卒の官僚でもない。名もなき労働者のつぶやきが誰かを助ける言葉と成り得ることもあるだろう。小林多喜二とまではいかずとも、だ。

 だからこそ、これを読んでいる人、特にnoteという媒体を読者としてしか活用していない人に伝えたい。noteという媒体で執筆をすることは自身の考えをまとめるという点においても、あるいは誰かに何かを伝えるという意味でも極めて有意義であると。

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