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【題未定】推理小説なのに推理小説好きにはお勧めできない『QEDシリーズ』の魅力【エッセイ】

 小説を好きだという人は少なくない。本好きでなくとも定期的に小説を読むという人は多いだろう。教員をしていると現代の高校生の実情もある程度はつかめるが、読書離れが叫ばれる昨今においても小説を持ち歩いている生徒は少なからず存在する。

 彼ら、彼女らの読んでいる小説に目を向けると、ライトノベルが多く、それ以外では森見登美彦や有川浩、湊かなえなどが多いようだ。一方で池井戸潤を読む高校生はほとんどいない。内容的にも中高年やサラリーマン向けということもあるのだろう。このように、小説の好みは読む側の属性によっても異なるし、性格や気質によっても差があるようだ。

 以前も書いたが、私自身そこまで小説を好むわけではない。したがってそんな私が読む小説にも特徴が存在する。それは蘊蓄の多い作品である。主人公のセリフや地の文における蘊蓄が多いものを好む傾向にあるようだ。

 個人的に物語に没入するという読み方が苦手なこともあり、没入することは少ない。一方で知識を得る体験に対しては興味関心が高いため、読む本もそちらに傾くことになるのだろう。

 そんな私が比較的、好んで読んでいるのが『QEDシリーズ』である。

 さて『QEDシリーズ』をご存じの方どれぐらいいるだろうか。私自身の個人的な交友関係の中では、知ってはいる、読んだことはあるという人はそれなりにいたが愛読しているという人はほとんどいないのだ。シリーズのスタートからすでに20年以上経過しているため、読者層が入れ替わったこともあるのかもしれない。しかし最大の要因はその内容によるものだろう。それが読む人を選ぶ原因となっている。

 『QEDシリーズ』は推理小説であり、作者は薬剤師でもある高田崇史。この作品は歴史や宗教の謎を、現代において発生した事件を通じて解き明かしていくというスタイルの小説だ。ここで言う「謎」は一般的に語られる歴史の謎、というものではない。慣習や常識と思われるような当たり前を覆す形での「謎解き」が行われていくというものだ。したがって一般的なミステリ好き、推理小説好きの好むような内容とは異なるものとなっている。

 そしてここが特徴でもあるのだが、この「謎解き」を主人公が(=作者に代わって主人公が)延々と蘊蓄とともに語っていく。また物語の場面場面で主人公が語る蘊蓄が披露されていくというスタイルである。私はこの蘊蓄が面白くて読んでいる部分もが大きいが、およそ小説好きの方や推理マニアが好むものではないだろう。

 しかも扱う歴史的内容も、古典で学ぶような和歌や文献をネタにするものが多い。歴史好きの中ではメジャーな戦国武将などはほとんど扱わないのだ。百人一首、六歌仙、河童伝説、竹取物語などどちらかといえば社会よりも国語、古典寄りの内容となっている。

 この歴史の蘊蓄や「謎解き」に関しては、歴史学的に難しい解釈も存在するため、この本を読んで全てをうのみにすることはできない。しかしこの解釈もあるのか、という観点から読めば視野を広げたり、考えを深めるきっかけになる内容ではないだろうか。

 繰り返しになるが、万人にお勧めできる小説では決してない。あくまでも歴史や宗教に興味があり、尚且つ知識や蘊蓄の収集を好む人にのみ一読していただきいと思うのだ。

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