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【題未定】「ノンポリ」を意識した生き方を仕事では生かせても、プライベートでは…。【エッセイ】

 ノンポリという言葉がある。英語の「nonpolitical(ノンポリティカル)」の略が語源のようだ。政治運動に関心が無いことや関心が無い人を指す用語で、学生運動華やかかりし時代にそれらに参加しない層の無関心を揶揄した表現だという。

 私は自身の最近の生き方のテーマとしてこの「ノンポリ」を掲げている。とは言っても言葉通りの政治に無関心ということではなく、自分の中で「特定のやり方や考え方にこだわらない」という意味で定義して用いるという具合だ。

 ではどのように用いるかというと、主には仕事や職場においてだ。学校の教員という職業はなかなかに自由で、その自由さが逆に厄介な職種でもある。一般的な会社員と比較すると遥かに自由裁量の権限が大きい職種と言えよう。例えば授業内容については「学習指導要領」で細かく定められているが、教科書を通り一遍に進めれば大半は達成される。周辺知識や教え方については自由で、だからこそ、その自由さが厄介さにもつながっているのだ。

 教員というフラットな組織では上下関係、上司と部下による命令関係によって細かな業務の方針が決まることは少ない。こう聞くと、生徒指導から学習指導まで基本的には学級担任や教科担当者の自由な範囲が非常に広いと受け取る人がほとんどだろう。

 しかし実際には全く異なる現実が存在する。上下関係がきっちりしていないがゆえに、不文律の謎の年功序列による上下関係が存在し、それが指導内容を規制するケースは間々ある。要は「先輩」という存在が若手や準若手の指導を型にはめるというケースは少なくないということだ。しかもこの「型」は普遍的なものではなく、本人の経験則によるものが多い。

 そしてこれこそが厄介の原因でもある。先に述べたように教員社会において、「先輩」と称する人たちと明確に上下の関係が存在するわけではない。したがって彼らはあくまでも「アドバイス」的なスタンスを崩すことなく強制を求めてくる。つまり若年者からすれば忖度をしないといけないということになる。

 私自身は忖度が苦手だし、そうした圧力に気が付かないケースは多い。とはいえそれでも直接、間接的に指摘や強制を求めてくる人は少なく無い。そうした状況にかつてはイラつきを覚え、ストレスを感じていた。しかし最近は「ノンポリ」を自称することで非常に気持ちが軽くなったのを感じている。

 昨今は仮に何らかの「アドバイス」(=半強制)を頂いたとして、基本的には受け入れる、採用することを旨としている。そしてそのスタンスこそが私が称する「ノンポリ」である。

 いちいち細部に目くじらを立てて反論しても労力の無駄である。プロセスにこだわることは重要ではない。そしてこちらのこだわったプロセスもまた必ずしも正しいと主張できるほどの根拠も存在はしていない。どのプロセスを通るかではなく、いかに結果に反映させるか、こそが重要なのだ。

 要はやり方を真似て見せ、細部は自分好みにするという方式が私の定義する「ノンポリ」である。真っ向から反対をするのではなく、さりとて従順になるのでもない、狡猾な手法こそが「ノンポリ」的な手法と言えるだろう。

 残念ながらこうした「ノンポリ」的な手法を職場では発揮できているのだが、家庭ではその成果を十分に生かすことはできていない。どうやらそれが出来ると日々の生活で波風が立たなくなるとは先輩諸氏の談である。一刻も早く家庭内における「ノンポリ」を気取りたいものである。

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