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[自己紹介] 高校中退元バンドマンが家業を継いで社長になるまで
はじめに
大阪府八尾市にある町工場 チトセ工業株式会社の中西 進之輔 (@shnakan1sh1) です。
2022年9月に同社代表に就任しました。
1991年生まれ。
もうすぐ31歳になります。
趣味はギターを弾くこと、お酒を飲むこと、生産性が向上しそうなツールを夜な夜な探すことです。
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自らの想いや考えかた、人となりを発信し知ってもらうために遅れ馳せながらnoteをはじめてみることにしました。
まずは僕自身の自己紹介を。
かなり赤裸々に書きます。
ぜひ最後までご覧下さい。
チトセ工業について
金属プレス加工、無酸化炉中ろう付け加工といった金属製品の受託加工を生業としています。
また、それらに加え自社開発の無線電子機器の製造・販売を行うメーカーでもあります。
2019年末に新工場へ全面移転し、新時代への第一歩を踏み出しました。
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当社は1962年創業、1964年に法人設立。
創業から60年を迎える企業です。
もとはお隣の東大阪市 枚岡の地で創業し、スプリングなどの線材加工を手掛けていました。
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会社についてはまた別で詳しく書こうと思います。
一先ず詳細は当社コーポレートサイトをご覧下さい。
生い立ち
僕、中西 進之輔は1991年 東大阪で生まれました。
Metallicaの5枚目のアルバム、通称 "The Black Album" が発表された年ですね。
末っ子長男であった僕は幼い頃から将来の跡取りとして、周りの大人からよく三代目と持て囃された (揶揄された?) ものでした。
このことについては、幼いながらに言葉で言い表せぬ居心地の悪さを感じていたことを覚えています。
祖父の記憶
創業社長である祖父は僕が6歳の頃に急逝しました。
まだ幼かったため、祖父の記憶はあまりはっきりとは残っていません。
(そもそも僕は記憶力の悪さに定評があります)
しかし祖父がまだ元気だった頃、何度か工場に連れて行ってもらったことがあったと記憶しています。
思い返せば僕はこの頃からプレス工場の油の匂いが好きだったように思います。
その匂い自体というか、その匂いがする工場という空間が好きでした。
うまく表現できませんが、子どもながらにその空間で働く人たちの姿にかっこよさを感じていたのかもしれません。
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取り柄のない子ども時代
僕はもともと特に取り柄のない子どもでした。
学校の成績は可もなく不可もなくといった具合。
加えて、運動に関してはてんでダメでした。
小さい頃からサッカー、水泳、格闘技など色々な習い事に通わせてもらいましたが、どれひとつまともにできず。
そういった経験のなかで、自分の中で少しずつ劣等感が大きくなっていきました。
転機となったのは中学3年。
父の一言で一念発起し、1日12時間近く勉強するようになりました。
何かひとつのことを頑張って、自分で自分を認めてあげたいという気持ちでした。
その甲斐あってか第一志望には届かなかったものの、中学2年当時の僕の成績では到底合格できなかったであろう高校に入学することができました。
海外研修での経験
という具合で高校生になりました。
中学時代、たまたま英語が得意だったので国際系のクラスへ進むことに。
非常に単純な理由で決めた進路でしたが、このおかげでとても貴重な経験ができました。
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それは海外研修に参加できたことです。
マルタ共和国という国に約1ヶ月滞在しました。
ホームステイだったので、学校でも学校から帰っても日本語の通じない環境。
僕以外に6人いたルームメイトは全員ドイツ人。
はじめはコミュニケーションで苦労したことを覚えています。
相手が何と言っているか聞き取れない。
聞き取れても、どう返していいかわからない。
英語が得意とはいっても、所詮学校のテストでいい点を取っていただけに過ぎません。
とは言え慣れとはすごいもので、滞在してしばらくもするとある程度スムーズに会話ができるようになりました。
折角の機会だと、学校でも放課後でも積極的に話すことを心掛けていたおかげかもしれません。
放課後は近所のスケートパークで地元の学生と、帰宅後はルームメイトのドイツ人とよく話していました。
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ちなみにこの研修は日本からクラス単位で行っていたため、当然学校では日本のクラスメートとも会います。
ですので日本語でコミュニケーションが取れる場面もあるにはありました。
しかし、僕は高校ではビックリするくらい友人が少なかったので、ことこの研修に関してはそれがプラスにはたらいたかもしれません (笑)
たったの一ヶ月間。
付け焼き刃の英語は今はもう忘れてしまいましたが、この経験は16歳だった僕の価値観・人生観に大きな影響を与えました。
大学時代、フィリピンにボランティアに行った話も合わせていずれ詳しく書きたいと思います。
音楽の道へ
先述の通り、高校1年生にして非常に貴重な経験をさせていただきました。
しかし、ここから急展開。
なんとその半年後には高校を途中退学してしまいました。
理由は色々ありますがうまく立ち行かなくなったのは詰まる所、一人の人間として扱ってもらえなかったことに対する憤りが大きかったように思います。
その後、外語系の専門学校に編入し大学の受験資格をGET。
なんとか受験に合格し大学に入学するも、後述のバンド活動にのめり込み過ぎたせいで留年してしまいます。
音楽との出会い
時は少し遡って中学生時代。
先述の通り、特に取り柄のなかった僕はこの頃に大きな転機を迎えます。
音楽との出会いです。
もともと、音楽は人並みには好きでした。
小学生の頃はスピッツやBUMP OF CHICKENなどを好んで聴いていたと思います。
ただその頃の僕にとって、音楽はあくまで聴くものでした。
しかし、ある日たまたま姉が観ていた映像に一瞬で心を奪われました。
今はもう解散してしまいましたが、Janne Da Arcというバンドのライブ映像です。
「-救世主 メシア-」という曲のギターリフを聴いた瞬間、体に電撃が走るような感覚になりました。
こんなかっこいいものがあるのか、自分がやりたいのはこれだ、と確信しました。
家には父が使っていた古いアコースティックギターが一本ありました。
そのギターで分からないなりに練習をはじめました。
父は初めにCメジャーのコードひとつを教えてくれたきりでしたので、ほぼ独学です。
(当時は気軽に教則本を買うお金もなかったし、YouTubeもなかった。いい時代になったなあ。。。)
ただの一曲も満足に弾けないうちから、「音楽で食べていくぞ」という謎の強い決意を胸に抱いていたことを覚えています。
夢を追う道
バンドは一人ではできません。
当たり前ですが、ともに演奏してくれるメンバーが必要です。
そこで中学卒業前から同級生などを誘い、メンバーを集めてバンドを結成。
高校・大学と進む中でバンドの解散と新たなバンドの結成を繰り返し、少しずつ精力的に活動をするようになっていきました。
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20歳ごろには自主制作のCDを携えて、ボロボロのバンに乗って日本各地でライブ活動を行っていました。
基本的には楽曲制作 → レコーディング → ライブの繰り返しです。
活動を続けるうち、少しずつ仲間や協力・応援してくれる人たちも増えてきました。
学生にとってバンド活動にかかる経済的負担は大きく、常にお金のない毎日でした。
それでも自分の好きな音楽を表現し、熱量を注ぐことはとても楽しいものでした。
挫折
しかし、夢を追う道はそう甘くはありません。
音楽活動を続ける中で、目指す場所と現実とのいつまでも埋まらないギャップ。
夢破れて次々と辞めていく仲間のバンドたち。
経済的な不安定性。
状況を変えられない自分に対する劣等感と焦り。
そんな状況にいるうち、かつてはこの体に漲っていた僕の音楽に対する情熱は少しずつ擦り減ってきました。
半ば惰性で音楽を続けていた折、メンバーの一人が脱退。
これを機にバンドは解散することになりました。
それまでもバンドの解散は経験してきました。
ですが、その時の僕に再び立ち上がる気力はなく、僕は音楽を辞めました。
音楽しかやってこなかった僕は、空っぽになりました。
僕の今までの人生の中で、最も大きな挫折でした。
今思えばもっとやれることはあった。
もっとやりようはあったと思いますが、後悔先に立たずです。
この時、大学卒業から約半年が経過していました。
高校中退元バンドマンが家業を継いで社長になるまで
かっこいいかどうか
しばらく無気力に過ごす日が続きましたが、いつまでもそういうわけにもいきません。
当然、これからどうやって生きていこうと考えました。
もちろん真っ先に頭に浮かんだのは家業であるチトセ工業のこと。
しかし、実際に入社するまではかなり悩みました。
なぜならこれまでずっと音楽一筋で、学生時代の専攻も経営や製造には関連性は無し。
学生時代に現場作業を少し手伝っていた程度で、ものづくりの知識など皆無です。
そんな僕に後継者が務まるのか?
社員と、その家族の生活を守ることができるのか?と。
大学のころから続けていた学習塾のアルバイトで、社員にならないかとお声掛けいただいたのも悩んだ理由のひとつでした。
数か月、悩んだ末に今の人生を選びました。
その時はなぜこの道を選んだのか自分の中でも言語化できていませんでしたが、近ごろなんとなくわかってきたような気がします。
恐らく僕にとっては "かっこいい" かどうかが非常に重要な要素なようです。
ギターを始めたのも、高校を中退したのも自分がかっこいいと思うほうを選んできました。
(高校を辞めたことについては、若さゆえの間違った選択でしたが)
その他種々の選択も、その基準で判断してきたように思います。
子どものころのうっすらとした記憶。
工場で働くかっこいい人たちの姿。
それを束ねる、かっこいい経営者の姿。
自分もそんなかっこいい存在になりたい。
それが理由だと思います。
そんな薄い理由か、とも自分で感じるのも事実ですが、今この文章を書いていて妙に腑に落ちるので、たぶん合ってるのでしょう。
かくして、僕はチトセ工業への入社を決意したのでした。
失敗続きの新入社員
入社後、営業に配属された僕でしたがここで問題が発生。
なんと全く仕事ができないのです。
これまでろくに社会人経験のなかった僕です。
電話1本も満足に取れません。
それだけでなく、飲み過ぎで寝坊して遅刻 (&二日酔い) するわ、新規の取引先と裁判沙汰一歩手前のトラブルを起こすわ、それはもう逆に見事なものでした。
今、書きながら変な汗がでてきました。
よくみんな見放さずにいてくれたものです。
その後、なんとか自分なりに仕事を覚えていきました。
この業界や加工技術のことも、先達からすればまだまだ未熟ではありますが、少しずつ学んできました。
そこで次第に社内でまだ手付かずの分野を積極的に進めようと考えます。
オウンドメディアやweb広告を活用したデジタルマーケティング、プレスリリースの執筆やSNSなどでの広報活動、採用活動や社内の制度整備などに注力していきます。
加えて生産管理やDXの推進など、様々な業務に携わるなかで少しは成長できたと思います。
自分にしかできないこと
そして2022年9月、代表に就任しました。
父である前社長は会長となり、二人代表です。
正直、今でも現場のことは全然分かってません。
これまで自分の専門領域と呼べるものもありませんでした。
周りの優秀なスタッフたちに助けられてばかりです。
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これまでの人生を振り返って、散々間違ってきた僕ですがそのどれもにおいて後悔はしていません。
あの時高校を辞めていなければ、妻と息子とは出会えませんでした。
大学を留年するほどのめり込んだバンドも、それだけ情熱を注げることに出会えた経験は僕にとって大きな財産です。
いや、もちろん留年はしないほうがいいのですが。
僕はほんとうに、周りの人たちに恵まれているなと改めて思います。
学生時代も、音楽でも、会社に入ってからも。
たくさんの人に支えてもらって、ここまでなんとかやってこられました。
今度は僕が周りを助けて、支える人になる番です。
決して褒められたものではないですが、なかなか稀有な略歴の持ち主です。
きっと僕にしかない視点、僕にしかできないことがたくさんあるはず。
これから成すべきことを成すべく、精進していきます。
おわりに
自己紹介としてはかなり長くなってしまいました。
最後まで根気よく読んでくれたあなたは、僕がどういう人間かかなり掴めてきたのではないでしょうか (笑)
これほど赤裸々に、詳細に自分のことを書いたのは、はじめにも書いた通り僕の人となりを知ってもらうためです。
我々のような中小企業は良くも悪くもトップの人間性が色濃く反映されます。
つまり、僕という人間を知ることはこれからのチトセ工業という会社を知ることになるのではないかと思います。
僕はより多くの人に、この会社を知ってほしいと思っています。
今後、noteでは僕と同じ経営者・後継者だけでなく、チトセの社員に (未来の社員も含めて) 向けて発信していこうと考えています。
今のところ
中小企業のDX
生産性向上
採用広報
音楽
あたりのテーマを考えていますが、あまり囚われず好きなことを書いていこうと思います。
まさか最初のエントリーから5,000文字を超えるとは思いませんでしたが、次はもう少し気軽に書こうと思います。
それでは、最後までお付き合いいただきありがとうございました。