たとえ偽善者と言われようとも綺麗事でいたい
こんばんは。本城です。
強い言葉が苦手です。
荒っぽい、激しい、汚い、そういう語気を荒くして言うような言葉が本当に苦手です。投げつけられると体がストップして、心が縮こまってめまいがするくらいには。実際お客様に激しい言葉で攻め立てられたりすると震えが止まらなかったり動悸が止まらなかったりで呆然としてしまうようなことがあったりします。まぁ、失敗して、怒られてるんですからちゃんと話聞けよってところなんでしょうけど、そうは言われても、ねぇ。
ただ単に私が小心者だからということもあるのでしょうが、それを差し引いても、強く、相手にぶつける、主張の激しい言葉が苦手なのです。具体的にどれと言われるとまた困るのですが、よくある悪口の類などもその部類です。よくもまぁと思うくらいに人を罵倒する人が身近にいるのですが、自分のことでなくても聞いているのも苦痛で、もう少し言葉を選んでくださいと思わず口をつきそうになること。子どもたちが遊ぶ姿も、見ているだけならとても微笑ましいのですが、友人の子どもがゲームをしながら、そういう言葉を発するのを聞いて、やはり苦々しく思ってしまうのでした。音声ミュートのほしい人生です。
そういうお前はどうだったのか。
大変口汚い若造でした。
世の中に斜に構えて、気に入らなければ口をついて、自分は強いぞと見せるように言葉にして、周りを威嚇しようとして呆れ返らせる、そんな滑稽な青春を一人空回りしておりました。そのくせ根は今と変わらず小心者で、長いものやより暴力的な者にはこそこそまかれる事なかれな、書いていてなかなか最低ですねこれ。ともかく、先に挙げた人たちよりもさらに、口も態度も頭も悪い人間だったと思います。
一体いつからでしょうか、言葉の響きと文字の形と、日本語の美しさを知って、それに触れようと真似ようと必死な現在、自分がいつからそんな風に変わってしまったのか、個人的には喜ばしいことだと思っておりますが、昔の反動なのか、ただの感動なのか。言葉の固さ、音の高低、文字のバランス、そういうものを何で学んだのか、私の師はどこへ行ってしまったのか。ただそういうものを知ってからか、いつしか、そういう言葉を発することが減るようになりました。
そうして口当たりのいいやわらかい言葉や優しい音ばかりを使っていると、偽善者と、本音を隠すと、陰険だと言われてしまいがちで、もちろん私も自身のことはそうであろうなと思っているのですけれど、図星をつかれると嫌な気持ちになるもので。本音でぶちまけて、腹を割って話ができない、腹もちならない不信な人物として認定されつつ日々を生きています。本当に相手を思って本音を話すなら、厳しいことも強いことも言わねばならない時があることは理解はしているのですけれど。
そういえば昔、永六輔さんの本だったのか、一般人の方の名語録のような本での一文を、今も覚えています。「綺麗ごとで何が悪い。綺麗なの嫌いか?」好きです。綺麗な方がいいに決まってます。その一文のことだけは妙に印象深く記憶に焼き付いて離れないです。ただ、世にある綺麗ごとは、往々にして上手くいけばいいけと概ね上手くいかないことや、現実味を帯びない話、そして見目だけは本当に麗しい、それに比例して中身が何もない文字たちなのですけれども。
どうにも脱線してしまいますね。現在の仕事の立場上、どうしても注意や指導をする過程で、わざと強く言わねばらないことがある時、自分がどうしようもなく不自然で、不恰好で、説得力のないように見えてしまいます。できるならば、優しい言葉の中で生きて生きたい。綺麗な者だけ見て、追いかけて過ごしていたい。そうした生き方に成長も成功もないとは感じていますが、せめて自分のわがままが許される範囲では、穏やかな言葉の海に沈んでいたいと思うのです。
響き品良く美しく。そういう言葉を遣える人になりたいですね。
文筆乱れてお目汚し。失礼致しました。
本城 雫
いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。