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大人になれなかった、少年でもいられなかった、この、成れの果ての、行く先は。

 ありきたりな話ではあるけれど、年を重ねれば、自然と大人になるのだと思っていた。



 22歳で大学を卒業して、仕事をする。

 24歳になって、愛する人と、結婚をする。

 26歳になって、子どもを授かる。男の子だ。

 その数年後に、もうひとり。今度は、女の子。

 娘が小学生になる頃、妻と、個人の書店を始める。

 規模は小さいけれど、皆に愛される、そんな店。

 笑顔の絶えない家庭。守るために生きること。

 時にはトラブルもある。衝突もあるし、迷うこともある。

 迷って、話し合って、決断して、がむしゃらに、家族と生きる。



 そんな未来を思い描いていた時期が、確かにありました。



 現実ふたを開けてみれば、37歳の独身が独り出来上がっただけで、支える人も、支えてくれる人もない、仕事にやりがいを感じるわけでもなく、ただびくびくと臆病に、生きることにも億劫に、いつまでも成熟しない子ども。

 どこで間違えたのかな、とは思わない。生きてきて、ほとんどのことが、間違いだらけだった。後悔がないのは、大事な人と出会えたこと、友人たちと出会えたことくらいかもしれない。

 ドラマや小説をみれば、同じ年頃の主人公が、縦横無尽に活躍している。勿論作り話だ。それでも、私の心は重く沈んでゆく。

 現実でも、同じ年頃の人の話を聞くと、ああ、私の何と情けないことかと、鬱々としてしまうし、年下の、懸命に生きている人たちや、充実しているように見える人たちを見ると、私は一体、何をしてきたのだろうと、ぐらぐらと揺れる。


 友だけではない、皆が、立派に見える。私だけが、置いていかれている。


 努力をしないのだから当たり前なのだけれど、それでも、あまりにも、人間的に未熟で、未だに子どものような甘い考えしかできず、見聞どころか、常識を広めることもしない、かといって、尖ったものを持つわけでもない。

 私は何者になりたいのか。私自身は何者であればいいのか。自分の一度きりの人生も、今の仕事に縛られて、辞めることもできず。今も、いつ電話が鳴るのかと、怯えながら、不毛な休日を過ごしている。

 大人になる方法を、懇切丁寧に解説してくれる、小学校の先生のような人はいないのだ。でも、誰も教えてくれないわけではなかったはずだ。あの先生も、尊敬している人も、身の回りにいる人も、親も、誰もが、生きて、振る舞っている。その様を見て、私は学ばなければならなかったのに。斜に構えて馬鹿にしたり、愛情に甘えたり、人に興味を持てずに見ることをやめたりして。教えてくれる数多の人を、機会を、見事に無視してきた結果が、現状の私なのだと思う。

 今さら、先の夢をかなえようとは思はない。ただもう少し、生きることに希望が持てれば。生きることに、執着できればいいのにと思う。

 こうしてぐちぐちとnoteに不満を打ち明ける自分を見て、また、子どものようだと、どこかで思う。そう言っていたところで今が変わるわけではない、私自身が変えようとしない限り、たとえいくら周りを変えようとも、きっと、同じことを思いつづける。辛いのも、苦しいのも、生きていたくないことも、全てが自業自得だと。全ての理由が、私自身にあると。わかっていても、どうすることもできずに、いる。


 でも、もしまだ、生きていたいなら。

 きっと私は、変わらなければならない。

 昔憧れた、大人に、近づくために。



 文筆乱れてお目汚し。失礼致しました。

 本城 雫

いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。