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彼女と路傍の石 -霊と暮らした事がある-

 霊と暮らした事がある。なんて告白してしまえば、誰でもきっと好奇心と半信半疑では聞いてくれて、あるいは聞いた後に嘘つきであるとか、もしくは頭が少しおかしな奴だとか思われたりする物だろう。きっとそれは正しいのだろうし、だからこそ僕は冗談半分にしかこの話をした事が無かったんだ。

 振り返ってみると幼い頃から少しそうした類いの物を見る側に居た。いや、本当のところはどうだったのか?単に夢見がちで、信じこみやすい性格だったのかもしれない。幼い頃のそれは古い農家の壁に張り付いている車くらいの大きさはある蜘蛛であったり、夕暮れの裏山を歩いてる時に踏んでしまった真っ白な大蛇であったり、よくある話とまったく似たり寄ったりな、気のせいと一笑に伏される程度の、本人でさえ大人になってしまえば、子供だからこそ見た誇張された幻だったと割り切って忘れてしまうような事だった。
 そもそも人が想像可能な程度にしかそうした物は存在せず、人知を超えた創造性のある恐怖も、見える形も存在しないし、僕が見て来た物も単純明快で誰にでも説明のつく物だったからだ。
 ただ唯一、死と直結するイメージは誰にだって恐怖だろう。ひたひたと忍びよる死への恐怖。それが確信に変わる瞬間、そんな事誰だって経験したくはないものだろう。

 僕が田舎から東京に出て来たのはまだ17歳の冬もまだ寒い二月の事だった。そんな年齢だから住む場所を貸してくれるはずもなく、金もなく、やっとの思いで借りる事が出来たのは小さな安い時代遅れの部屋だった。
 その時代の東京にはまだ古い木造のアパートがいくつかは残っていて、大抵は日の当たらない裏通りをいくつか入り込んだ所にひっそりと佇む場所だ。貸屋式のアパートは玄関がひとつで、引き戸を開け広い上り框(あがりかまち)で靴を脱ぎ、指定の靴箱に納める。一階にニ部屋と共同トイレがあり、二階に四部屋と男性用のトイレがひとつ。
 木の色が長すぎる年月で人の脂や汚れで黒光している古い床は、歩みを進めるとギシギシと音を立て、階段を登ると人がやっとすれ違える程度の短い廊下があり、そこを歩いて行き二階の奥の一部屋が僕がこれから暮らす場所だった。

 鍵を開けると半畳のキッチンスペースがあり、モザイクタイルの今で言えばレトロとも言えなくもない狭い流し場と、卓上コンロが一口やっと置ける程度の広さがある。後は四畳半の部屋だけだ。それでもやっと一人で人生を歩きはじめた高揚感があったし、ギターケースが一つと着替えがいくつか入ったバックがひとつ。それだけしか荷物もないのだから広く感じたものだ。
 親切な大家がくれた古びた茶色の毛布が約束通り置いてあり、初日はそいつにくるまって眠りについた。なにしろ真冬に部屋が決まるまで十日も深夜営業のゲームセンターなどで座りながら寝ていたりしたものだから、疲れで泥のように眠りに落ちていった。その日の夢をおぼろげながらも覚えている。それが本当に夢だっのかどうかは今でもわからない。その日からはじまった、今思い出しても胸が締め付けられるような気持ちになる切なさと、それに反してあの生温い体温を肌感覚で確かに記憶している身体。全てが気の迷いであったのだと思えば、若く青い春の一瞬にあった感受性が産み落とした幻影のはじまりだったのだとも思える。とにかく僕は疲れていたのだ。毛布一枚分のぬくもりと、小さいながらも住む場所を得られた安心感に包まれながら深い眠りに落ちていった。

 誰かが耳元で呟く声が聞こえてくる。何を言っているのか分からず、聞き耳をたてるのだが、やっぱりわからない。ぴーんと音を立てるような、張り詰めた寒さだからこそ感じる生き物がそこに居る温度。これは親の居ない僕を育ててくれた祖父と行った雪山での狩、そこで感じた獲物を肌で見る感覚と似ていた。山にはウサギなどの安全なものと、危険な生き物がいる。寝ていて感じたのは危険だと感じる気配だった。
 近づいて来る声を感じ、反射的に飛び起きると当たり前のような暗闇と静けさだけが空間に広がっていて、左腕につけっぱなしの腕時計を見ると、随分長い時間熟睡していたかと思っていたのに、30分程度しか経ってはいなかった。

 その日は疲れたからそんな夢を見たのだと思った。夢?あまりにリアリティの無い現象と、幼い頃に見えない動物を感覚で捉えようとしていた本能が交錯し、ちょっとした混乱を覚える。そんな事がある訳ないじゃないか、ここは雪山でもなんでもないのだ。
 ただ、夢の中で聞いた声がいったい何を言っていたのか気になってしまい、天井から吊り下がっている配線剥き出しの裸電球のスウィッチを回し、部屋を明るくして煙草を咥える。またぼんやりと夢の声を追いかけるのだが、その声が果たして男の物だったのか女の物だったのか、何を言っていたのかすらもわからない。夢を思い出せないのではない、わからないのだ。

 翌日、部屋を出て階段を降りてゆくと、一階に住んでいる家族の、そう、こんな四畳半の狭いアパートに四人家族で暮らしている一家がいて、その奥さんが何もせずに天井の一点を見上げたまま身動ぎませず立っている。瞬間ちょっとした狂気を感じて立ち止まり、彼女が見上げている場所に目を移したが、そこは丁度玄関の上に位置する僕の部屋の入口付近だった。白く塗られてはいるがカビの黒ずみとうす汚れたその場所は、別に他と何か特別違って見える事もなくて、すぐに気を取り直し挨拶をする。彼女は僕に気付くと、明るく愛想よく返答はしてくれるのだが、早口で何を言っているのかよくはわからないし、目の焦点がまるで合っておらず、こちらを見ているはずなのに、どこを見ているのか分からないような、そんな女性だった。
 貧しさがまだ今と違い目に見えた時代だ。その貧しさの中に生きているのは僕もまた同じで、だいたいは地方からやって来た学生など若者がこういった場所に住むものなのだが、ここに住む人々にも様々な事情があるのだろう。

 わかるだろうか?これ以上落ちてしまえば路上でただ生きているだけの人間になってしまうかもしれない恐ろしさを。実際ここにはそんなギリギリのところで両足を踏ん張るような生活が存在する。その家族もそんな人々の一部なのだろう。
 それから、東京での第一歩を踏み出し、しばらくは働きながらテーブルやちょっとした棚などを買い揃えながら日々を過ごしていた。

 様々な事に慣れて行く日々は時間の経過もはやくて、初日の夜に見たちょっとした悪夢も忘れ、不安に感じる若さゆえの見えない未来にも鈍感になりはじめる。すると今度は孤独が心の中を支配しはじめるのだ。それまで歩けば知人に出会う狭い田舎町に住んでいた。だがここはどこにも自分を知る人間が居ない世界。見た事もない程大量の人々が町を歩いていて、どんな時間でもそれなりに人がいる。
 だがそれは皆、当然のように挨拶することもなく、まるで僕など存在しないかのように歩いている。孤独に押し潰されそうな気持ちは、実は人が居ない荒野ではなく、こうして大量の人が存在する場所で誰からも認識されることのない、まるで路傍の石ころのような存在になる時に感じるのではないかと思うのだ。アパートの近くに河川敷がある事に気付く。さすがに都会でも夜に人の居ない場所もあるものだ。無関心な他人の大波に飲み込まれ、夜に泳ぎ疲れた魚が丘の上に上がるようにふらふらと力なく河川敷を昇った。

 冬の冷たい夜風を感じながら眼前に広がる大きな川を見つめる。まったく人は少ないが干渉の多い田舎町が嫌で抜け出して来たはずなのに、こちらに来て数日しか経過してはいないが、孤独であることを受け入れられない自分自身に呆れ、ため息をひとつついた。白く曇った息がゆらゆらと立ち上りスッと消える。近くにある高架を通る電車が、静けさと騒音のコントラストを数分置きに繰り返し際立たせる。僕は川に降りる石段の一番上に腰をおろした。
 電車が高架を通るまでの僅かな時間に存在する数分間の静寂、ぼんやりと足元に視線を移すと、そこにはまるでそんな誰からも存在すらこの町で認められてはいない、自分自身であるかのような、誰も気にしたり、触れたりする事もないであろう、小さな石がひっそりと転がっていた。

 黒っぽいザラついた色に白い線が数本入った小石。
 それがなんとも愛おしく思えて、そっと持ち上げて右手で優しく握り締める。何の価値もない自分のような小石は冬の空気よりも冷たかったが、僕の体温が徐々に移り込み、すぐに身体に同化したかのような温度になる程に小さなものだった。なんとなく、そう、なんとなくその小石に愛おしさを感じ、それをコートのポケットに突っ込み、三本分の電車を見送りまた歩き出す。
 その日、暇を持て余した僕は町を歩きまわり、疲れ果てたころに部屋へと戻ってきた。確か夜も十一時に近かったと思う。いつものように薄暗い玄関で靴を脱ぎ、ギシギシと音を立てながら階段を登ると、二階の廊下には隣に住む老夫婦のおばぁさんが立っていた。その人はおかえりと声を掛けてくれ、それに言葉を返すのだが、その日はじめて人と話したのがそんな挨拶だった。嬉しさと、寂しさとが交差したなんとも形容し難い感情に揺さぶられ、涙が溢れ出しそうになったので、悟られたくもなく、慌てるように部屋の中にはいった。

 ドアを開けると半畳程の部屋へと続く流し場から、僅かに人が暮らしを営める程度には増えた荷物や家具のようなものがひと目で見渡せる。それが今の僕の全てだ。コートのポケットに入った小石を強く握り締めてから部屋に入る。ひきっぱなしの布団の上に座り、タバコに火をつける。電話もTVもラジオもなく、買ったばかりの安っぽい目覚まし時計が、カチコチとただ音を出している。誰かと無性に話しがしたい。寂しくて悔しくて、こんなはずではなかったなど、こちらに来てまだそれ程もたった訳でもないのに涙が溢れ、歯を食い縛っても嗚咽が止まらなかった。

 その日の寝静まった真夜中、また初日と同じ感覚におそわれたのだ。きっと寂しさで町中を歩き回り疲れていたからかもしれないなと、寝ているはずなのに覚醒している脳で思考する。あの、この狭い部屋に何か自分とは異なる生き物が発する僅かな熱による空気のゆらめき。疲れ切った身体は動かす事が出来ず、目を開ける事も出来ない。狭い部屋の中を足音もなく彷徨う気配、それとは異なるかなり遠くから聴こえてくるような声があった。何を言っているのかがわからない。ただその近くの気配が今回は以前とはまったく異なる、知っている誰かのような気がして、恐怖を感じることはなかった。それは懐かしいとすら感じる空気。
 対象的に全く異質な雰囲気を感じさせる声が聞こえる。なんとか目を開けてみようとするが、重くおもく閉ざされたまぶたが開かないし、手足も重くおもく、指一本動かす事が出来なかった。それはよく言われる金縛りのような物でもなくて、誰かに抑えつけられるような感覚でも、自由を奪われているような物でもない。ただ覚醒している意識に反し、身体の重量を動かせる筋肉が全て失われたような、とにかく自分の重さだけを感じてはいるのだが、ひたすらに重く動けない。
 そして、少しずつではあるが狭いはずの部屋から遠くに聞こえる声が近づいてくるのを感じる。その声をなんとか聞こうとして、耳に意識を集中させるのだが、やはり何を言っているのかがわからない。もう少し、あと少しだけ近くに来て話てくれ、そう願うのだがまだまだ遠いのだ。

 人の気配を感じる方向を探る。
 声が聞こえてくる方向とは違う事に気づいた。

 なんとなく温度を感じる場所、今回は明らかにそれが人であるようで、反して声は天井の片隅から複数の人が会話をしているようにも思える。その声はどこか恐怖を誘いだす。聞こえて来た冷たく甲高い笑い声のような物に、低く唸るような声が混じりあう。艶かしい囁きと、地べたに這いつくばったような呻き声。
 もう、やめてくれ。
 一瞬にして精神の臨界点を超えた僕の魂は、生命の危機を同時に感じる。抗えない圧倒的な力の差に縛られ、処刑台に無理矢理昇らされ、首に縄をかけられているようなイメージが脳裏を掠める。
 周囲には沢山の知らない顔、そして僕を見つめている全ての目だけが笑っている。そして耳をつん裂くような男女の笑い声が鼓膜を、僕の脳を小刻みに震わせるのだ。
 だがこれは夢のはずだ。これは現実ではない。
 一度恐怖に囚われてしまうと、後は急速に心の中が支配されてゆく。寒い季節だというのに全身から汗が吹き出し、まるで毛穴という毛穴から生温い血液が一気に吹き出しているようでもあり、助けを求めようと振り絞るように出そうとする声も出ない事に気付く。そして瞼は重く閉じたまま目が開かない。先程までは必死にその声を聞こうとしていたのに、今はその声を聞く事から逃れようとしている自分が居た。誰でも構わない、助けてくれ。こんなにも多くの人が住む都会で、さらにはこのアパートだって薄い壁ひとつ隔てて住人が何人もいる。だがここは街をひとり歩いていても誰一人僕の事を知らない場所。その辺に転がっている誰も見る事も気にかけもしない石ころのような存在。

 それが僕だった。

 そうなのだ、ここで何かしらの理由で、例えば霊とか怨霊とか怪物に呪い殺されたとしても、それが犯罪者による殺人でも気にかけてくれる人もなく、忘れ去られてゆく魂が僕なのだ。まだ何も生きちゃいない。まだ本気で誰も愛しちゃいない。いや、誰かを愛した事はあったのかもしれない。恐怖の中、その人の顔がよぎった。その顔が誰であったのか。そもそも愛などと呼べる確信を他人に感じたことすらなかった。その瞬間、頭に響いていた音の全てが止み、脳内のイメージが暗闇に吸い込まれるように全てを失い、身体が宙に浮遊したように感じる。

 その色は全ての光を奪う絶対的漆黒。

 それは未だ経験したことのないまぎれもない「死」。

 重い瞼が開き、次に全身の力が戻った。まるで極限まで縮め、圧縮されたバネが弾けるように肉体が躍動し、飛び起き、まるで蘇生直後のようにぜいぜいと息を激しく吸い込み、そして吐き出す。同時に心を支配した恐怖の闇も拭い去るように夜に溶けてゆき、目覚まし時計のカチコチと規則正しい音だけが耳に響きはじめた。

 酷い悪夢を見たんだ。
 吹き出した汗が急速に冬の寒さに冷やされ、布団の上にしゃがみ込む。深いため息をひとつ。落ちつくためにテーブルに置かれたタバコとライターに手を伸ばし、まだ少し強張る手で一本抜きとると、つぎに使い捨てライターを右手に持ち替え、フリントローラーを回す。
 ジャリっと乾いた音を立ててローラーが回り、火花が夜の暗闇に散るが、ガスに発火しない。少し苛立ちを覚えながら二、三度ライターを振り、もう一度回す。火花が暗い部屋を赤く照らし出し、ライターに火を灯す。仄暗い部屋を微かな光が照らしだし、その火を見つめながらタバコを近づけたその時、洗い場に誰かが見えたのだ。
 鼓動が止まるかと思うほどの驚きと、揺り返される恐怖からライターに火が付いたまま身じろぐ事も出来ず、瞬きすら忘れて見開いた僕の目は、僅かな明るさの下で佇むそれを凝視していた。
 白い短めの靴下から上へと向かい、女性の脚がはっきりと伸びているのが見える。
 「誰なんだ」
 やっとの想いで声を絞り出すが、足下から上へと視線を上げることが出来ない。顔を、そう、顔を見る事が怖いのだ。呼びかけに答えないその脚は一歩も踏み出す事もなく、ただそこに居た。
 先程の悪夢を想い出していた。
 恐怖を感じた声と異なる方向にあった存在。
 その感覚と同様、今も突然すぎる驚きからくる恐怖はあったが、生命の危険を感じないのだ。その根拠もない感覚は僕に好奇心を与える。どうせ電気を付けてしまえばそのような存在は一瞬にして消え去るものだ。その前に見てやろうとゆっくりと布団の上に立ち上がり、裸電球の脇に付いたスウィッチに手をかける。そして、ゆっくりと動かないそれの脚もとから少しずつ視線を上げる。
 白く生々しいヒトと変わりの無いふくらはぎ、膝下あたりから紺色なのか黒なのか、よくはわからないがプリーツのヒダがいくつかあるスカートが覆う。腰の辺りから同じ色だがセパレートされた上着へと視線をゆっくりと移してゆくと、胸のあたりから臙脂色(えんじいろ)のネクタイのようなリボンのようなものが見えた。
 ライターの光では影になりよくは見えないが、それはセーラー服を着た女子学生のようにも見えた。

 だが顔がよくは見えない。
 心の中で電気をつけるぞと、それに声を掛けて一気にスウィッチを回した。
 パッと部屋が安息をもたらすような柔らかな光に包まれ、視線を洗い場のほうへ戻すと、それはさながら実在する人であるかのように光に照らし出され、消え去ることなど永遠にないかのようにまだそこに存在した。
 今度は誰かの悪戯かと想い、よく見える位置まで一歩踏み出すと、情け無い話ではあるがそれの顔を見て僕は脚に力を失い、布団の上にしゃがみ込んでしまった。
 顔が、顔が無いのだ。
 正確に言えば顔の部分だけ空間が歪んでしまったように横にジグザグとたわみ、表情どころか、まったく顔が見えない。この世の物ではないことはそれで理解出来るのだが、脚先から頭の先までそれ以外は全て現世の質感そのもので、光に照らし出された後でもずっとその場に佇んでいる。まだ悪夢の途中なのか?安っぽい漫画のように自分の頬でもつねりたくはなったが、五感が正常に感じる物をそのまま感じている。視線の先にあるそれ以外は現実である事を納得させられる。
 それの先にドアがあり、僕は部屋から抜け出す事も出来ないのだし、それが見えなくなるまで逃れられる場所もこの部屋には無かった。だが、不思議なことに驚きはあっても恐怖を感じない。いったいそれが何故なのか理解出来ないまま、かと言って視線を外しているうちに近寄られても嫌なので、それを見たままタバコに火を付ける。ボッという音と、テーブルの灰皿を手元近くに動かす音、それに反応する事もなく、ただ同じ場所に佇んでいる。一本を灰にする頃には何故かそれの存在に慣れてきた自分が居た。
 「お前いったいなんなんだ?」
 そう語りかけたところでやはり返答もなく、消えも動くこともしない。
 そこにずっと居られてしまっては、外に出る事もトイレにも行けない。かと言ってそれに歩み寄り、触れる事も突き飛ばす勇気すらもない。おいおい勘弁してくれ、いったいどうしろっていうんだ。ある意味では諦めの、ある意味では害がないと少し安心していたのか、それともそれと遭遇してからそれなりに時間が経ち過ぎてしまって慣れたのか、疲れがまたどっと身体に押し寄せてゆき、目を開けている事がかなわないまま、また眠りについた。

 その日からそれ、つまりおそらくは彼女との日常が始まった。彼女のルールは簡単だった。僕が部屋を出たいと1メートルも近づくと彼女は消え、部屋に戻って来て扉を開いても、流し場で顔を洗ったり、ちょっとした料理をする時も彼女は跡形もなく消えている。だが、部屋の中に入ると現れ、いつもその場所に身動ぎもせず立ちつくしているのだ。ただそれだけだ。
 昼間であろうが朝であろうが彼女はそこに居る。いつの間にか僕は独り言のように、答えない彼女に話しかけるようになっていた。
 ただいま、いってくるよ、最初はそんな挨拶程度だったが、たまにはぶつくさと仕事の愚痴をもらし、彼女の気をひこうとして冗談も言ってみたりもした。だが彼女は答える事も動くこともなかった。そう言えば彼女が姿を表した夜の、あの恐ろしさを感じる多くの人が話す声も、それ以来何も聞こえてはこなかった。
 春になり、彼女のために桜の小枝を一振り流し場に置き、夏になり向日葵をひとつ置き、秋になり、紅葉の葉を数枚、彼女の現れる足下に置く。
 俺が居ない時間は寂しいだろ?
 そんな気持ちだった。
 そしてまた春になる。
 いくつかの季節を同じこの部屋で彼女と繰り返していた。
 友達も数人は出来て、仕事もそこそこ上手く行きはじめ、ちょっとした旅や、外泊もしたが、部屋に帰ると彼女は消えもせず常にそこに立っていた。孤独が僕の心の中である程度消えていったにしても、彼女が立ち去ることはなかったのだ。そのうちそれなりに金も出来て、風呂もトイレもある部屋を借りることが出来るようになった。僕は仕事の都合でこの町から少し遠い場所に、新たな部屋を借りることになった。そんな契約を済ませて、部屋に戻り、いつものように布団に座り込み、彼女を見上げる。
 彼女はいつものようにそこに変わらず立っている。
 「なぁ、一緒に来いよ。」
 そう語りかけるが、いつものように彼女は何も答えてはくれない。さらに続ける。
 「もう腐れ縁じゃねぇか、気になってここを引き払う事も出来ないだろ?」
 本心だった。地方からこの町にやってきて、誰一人知る人の居ない世界でここに住み、彼女だけが唯一の話し相手だったし、答える事も動くこともない彼女だが、感じる事が出来るなにかと空間をともにしている。そんな実在感をともなう空気。ぽろぽろと涙がこぼれ落ち止まらない。
 「たまには答えろよ。答えてくれよなぁ。」
 昂る感情はとめどなく溢れ出し、どうして良いのかもよくわからなかった。

 結局僕はその部屋を借りたまま、必要のない荷物を残して新しい部屋へと移っていった。新たな部屋は広く、三部屋もあり、トイレも風呂もある。初日の夜に僕は彼女を探し続ける。
 リビングやキッチン、仕事部屋や、玄関、ベランダや風呂場、トイレまで。最後に寝室の真新しいベッドに横たわり、寝つけない夜を部屋の隅々まで視線を動かしながら探る。だが、彼女はどこにも居なかった。あの部屋の彼女が存在するという空気感、それそのものがここには無い。
 ここに彼女が存在するのなら、あの狭く汚くて古いアパートは解約するつもりだったのだ。時代はバブル景気も終わりかけだが、まだまだ人々が浮かれていたし、何もかもが真新しく高級で、部屋を出ても綺麗に着飾った人々が愛想よく笑顔で僕に挨拶をする。部屋にはTVも電話もあり、ポケットベルが仕事や用事すら伝えてくれる。
 僕は彼女が存在しないこの部屋に、新しく出来た生身の、そう、生きている彼女を呼ぶ事も出来たし、友達を呼んで飲む事も出来た。
 そんな新しい生活をはじめ、彼女やあの部屋が心の隅っこで気になってはいたが、あのアパートで暮らしていたどん底の二年間に戻りたいとは思わなかった。
 いつも気にかけてくれた隣の老夫婦は元気だろうか?真夜中に帰る中年の一人暮らしのサラリーマンは元気だろうか?階下の、少し目の焦点はあわない、よく喋るのだが何を話しているのかよくわからない奥さんや、アパートの路地をおおはしゃぎで走り回るその子供達や、新聞の勧誘員をしているその旦那は元気だろうか?
 何より僕の部屋に残した彼女は、今もあそこに立っているのだろうか?そんな事をよく考えていた。 
 そうして一年近くが過ぎた。銀行から引き落とされるあの小さな部屋の家賃は、いまではその額も僕にとってはそれに見合う小さな物になっている。
 東京に出てきて三年。あの部屋を出て一年。僕はもう大人と呼ばれる年齢になっていたし、景気がよくなるに連れて仕事も増えたが、これからそれもどうなるのかはわからなかったし、たかが成人したばかりのまだまだ小僧だ、先の事なんてまるでわかりはしないのだ。それでもこの町でのやり方、生き方はなんとなく掴んだ気にもなって、同世代の連中よりはうまくやれている。忙しくやっていたこの一年、片時も忘れた事は無いあの部屋の彼女に、軽い気持ちで会いに行こうと考えたのは丁度、こちらに出て来た二月の寒い日とまったく同じ日付だった。

 目蒲線の不動前駅から蒲田に向かう電車に乗り込む。乗り換えなどないから、各駅停車しかないこの路線でひたすら進んで行く。昼過ぎの列車内は空いていて、緑色がシンボルの古い列車はガタゴトと揺れ、擦れて穴の開きそうなベロアのシート生地は、所々ツヤを失ってはいるが、陽の光を浴びて煌めいている。ぼんやりとした車掌のアナウンスが停まるたびに流れ、多摩川の土手が見えてくると、あと少しで目的の蒲田に到着する。
 蒲田駅からバスに乗り、いくつかの所で降りる。歩みを進めてゆくと、そんなには変わり映えのしない去年と同じ、いや、ここに初めて来た時とまったく同じ街並みがあり、路地に入りこんでゆく。
 じめっとした冬らしくない湿気は、木造建築が隣接するからだろうが、舗装されていない土の路地が雨を吸い込んだまま陽にあたる事もなく、乾かないからでもあるだろう。そんな細い路地をくぐり抜けると、変わらないあのアパートが静かに僕を出迎えてくれる。若い時代というのは僅か一年の月日でも遠く大昔のようで、懐かしさすら感じる。
 開きっぱなしの引戸をくぐり、靴を脱いで指定の下駄箱に放りこもうとするが、靴箱の中にこれでもかと積み重ねられた郵便物を取らなければならなかった。そもそも電気料金も、ガスも水道も、この手のアパートは家賃に加算される物で、請求書がある訳もなく、ただここ数年で激増したダイレクトメールの山、つまり僕にとっては迷惑なゴミでしかない。それでも確認の為にギシギシと音を立てる階段を登りながら目を通すが、僕宛ての誰かからの手紙などここには一通も存在するはずもない。
 ここに暮らしていた事など最初から無かったようで、誰からも相手にもされず、存在すらしていない二年の時間を思い知らされたようで。
 二階の廊下を歩く。狭いアパートだ、一瞬で彼女の居る部屋に着いてしまうはずなのだが、何故かその日は足取りも重く感じ、だいぶ時間がかかった気がした。
 ポケットからこの一年間使っていなかった鍵を取り出し、ドアノブに差し込み、回す。ガチャリと音を立てて鍵が開き、一度深呼吸をしてドアを開けた。
 「ただいま。」
 自然と小さくあの頃のように声を出す。
 一年ぶりのその部屋は、あの頃とまったく同じ光景が洗い場から見える。新しい部屋を借りた時にこの部屋にある物は一切持ってゆかなかった。この部屋に来た時と同じ、いくつかの洋服とギターケースだけを持って、まるで旅にでも出かけるように一緒に行こうと彼女に告げ、この部屋を後にした。それはこの部屋で揃えた安っぽいカラーボックスや、ガラステーブルなどは新たな部屋に必要ではなかったからだ。
 埃がそこかしこに薄く白くつもっているのが、陽の当たらない薄暗い部屋でもわかる。流し場から中々部屋に入れなかったのは、その場所を離れてしまえば彼女がまだここに棲んでいるのか、いないのか、その答えを知る事になるからだった。答えを知るのが少し怖かったのだ。それは、ここに来る途中ずっと、いや、ここ一年時間が過ぎるたびにずっと考えていた事。
 そして今、その場所に僕は居る。
 懐かしくも、悲しくもある感情。
 そもそもここにあるのは孤独と、それを抱いたまま閉じこめられる牢獄のようなもので、そのまま逃げ出したくもなったが、引き返す訳にはいかない。
 何故?この牢獄に彼女を縛り付けているのは、もしかしたら僕自身なのかもしれないと思えてしまったからだ。今日、今夜、一日ここに居て、もう一度彼女と向き合いたいと思っている。
 目を閉じて深呼吸をひとつ。それから部屋の中に踏み出す。
 次の瞬間、背後に優しくも愛おしいあの空気を感じる。
 懐かしい、全てが懐かしく思える。
 振り向かないまま低い天井を見上げ、ぽろぽろと涙をこぼした。
 「お前、なんでまだ居るんだよ。だめじゃないか」
 震える声で語りかけ、そして振り返る。
 そこには、あの日々とまったく同じように、変わらぬ彼女が静かに立っていたんだ。

 それから、僕は何時間も彼女にここ一年で起きた自分のことを話し続けた。時には一人にした事を謝ったり、時には何故憑いて来ないのか?を怒ってみたり、まるで長年付き合った彼女かのように話しかけるのだ。ふと、疑問がよぎる。彼女は俺がこの部屋に初めてやってくる前からずっと、ここに居るのではないかと。それを問いただすが当然、いつものように返事などある訳もない。彼女の着ている制服はデザインが古びていて、おかっぱ頭の髪型も今ではそれ程見かけないものだ。
 女学生のようだが、そんな年齢でこんな所で暮らしていたはずもなく、そもそもそれとなく隣のおばぁさんに聞いたこともあるが、僕の前は美容師の、若い大人の女性が住んでいたと聞いていた。そのさらに前は地方から来た大学生だとも聞いた。それ以上はおばぁさんもここに住んで十年程なのでわからないと言うことだった。

 とにかくたくさんの話を彼女にする。陽が落ち、夜になり、それでも喋り続ける。そのうち喋り疲れて僕は眠ってしまっていた。優しくも安心する空気に包まれながら、あの日々とおなじように深い眠りについていたんだ。
 一年たっても未だにカチコチと秒針を刻むあの目覚まし時計の音。真夜中すぎに目を覚ます。消えてしまってはいないかと流し場に目を向けると、彼女はそっとそのまま佇んでいる。
 「寝ちまったなぁ」
 そう言って微笑む。
 トイレに行きたくなり、ゆっくりと立ち上がり、流し場に向かうといつものように彼女が消える。近づいた瞬間に彼女が残す、生き物がそこにいた暖かくも優しい空気を通り抜けて、廊下に出る。すると、トイレを済ませて部屋に戻る途中の老夫婦のお爺さんとでくわす。
 こんばんはと挨拶を交わす。
 無口で、背筋がピンと伸びた、僕を育ててくれた祖父にどこか似ているその人は、随分見かけなかったから心配をしていたよと、話かけてくれた。いくつかの言葉を交わし、最後はおやすみなさいと互いに告げ、別れる。その後ろ姿を今でもよく覚えている。
 そこからまた何時間寝ていたのだろう。
 目を覚ましたのは、珍しくアパートの中が騒がしくて、バタバタと大きな音をたくさんの人が立てていたからだ。時計を見ると、昼の一時を回っている。
 こんなにも寝てしまったのか。
 起き上がり廊下に出ると、知らない人々が忙しく動きまわり、その中に大家が居た。何事なのか?と聞き、大家の話しに僕は愕然とする。
 昨夜、廊下で話したお爺さんが早朝、息を引き取っていたというのだ。とにかく、遺体が夕刻にはアパートに戻るので、今夜は通夜をここで行うという事だった。とにかく僕はその手伝いをする事になった。
 空いている僕の隣の部屋は、老夫婦の息子が来る事になっていて、そこである程度の振る舞いと、明日の告別式のためにその息子が泊まる事になっていた。近くの大家の家からテーブルを運び込み、葬儀社が簡単な祭壇や仏具を二階の老夫婦の部屋に運び込むのを手伝う。
 狭いアパートでの簡易な通夜や葬式なので、手伝いとはいってもすぐに終わり、僕はそれから街へと向かい、葬儀用の礼服と黒い靴など一式を産まれてはじめて買った。慌しく部屋に戻る頃には、通夜のはじまる少し前になっていた。部屋の中で買ったばかりの礼服に着替えて、心を落ち着かせる。
 「今日もここに居る事になりそうだよ」
 彼女に声をかけ、それから部屋を出ると、丁度僧侶が老夫婦の部屋に入るところで、二階の廊下一面に置かれた座布団に多くの人が座っている。促されるまま部屋の前の座布団に座り、老夫婦の部屋から漏れるお経を聞いていた。
 もし、彼女がここに縛り付けられて天国に行けないのなら、お爺さん、一緒に連れていってやってはくれないだろうか?僕は自分の部屋のドア一枚隔てて座っている。このドアの向こうに彼女は果たして今、立っているのだろうか。
 焼香の順番がやって来て、初めて老夫婦の部屋に入る。おばぁさんがありがとう、ありがとうと何度も僕に頭を下げるが、こうした時、何を言って良いのかもわからず、なんとなく知っていた程度の作法で焼香し、自分の席に戻った。
 お爺さんと最後に言葉を交わしてから僅か一日も経つ事もなく、通夜の式はすぐに終わり、僕は部屋に戻った。彼女は相変わらずそこに立ち尽くしたままで、僕も彼女を見つめたままじっとただただ座っていたんだ。1時間も経ってはいなかったろう、ドアをノックする音に気づき、部屋を出ると、挨拶くらいしか交わす事のなかった夜遅く帰るサラリーマンがそこに立っている。
 「隣で飯あるから一緒に食おうよ。」
 そう誘われ、用意した空き部屋に入ると、四畳半に階下の夫婦の旦那が一人座っていた。大の男が三人も座るといっぱいになる部屋で、卓にある寿司をつつく。
 「もう、呑めるんだろ?」
 旦那が僕のグラスにビールを注ぎ、こちらも返杯のために注ぎ、グラスを合わせる。住んでいた二年間で挨拶くらいしかした事のないこの二人と、初めて会話をしたのだ。サラリーマンは僕が思っていたよりも若く、聞いてもいないのに何故こんなアパートに暮らしているのかの理由について、寝るためだけに帰るんだというような話しをしていたし、旦那のほうは家を買う為に貯金をしているんだというような事を話していた。そして二人は老夫婦がいつも僕を気にかけていた事を話してくれた。
 なんでも僅か17歳でこんな所に住み初めた僕は、どこか訳ありで、余程可哀想な男なのだと皆、思っていたらしいし、不良の溜まり場になったら困るなぁと考えていたらしい。
 そんな話しをしていると、そこに老夫婦の息子が現れて三人の宴席に入った。通夜のお礼と、簡単な挨拶。旦那はそれを無言で聞きながら彼にビールを注いだ。
 老夫婦の身の上話を伝える事が義務であるかのように、ぽつりぽつりとしはじめる。お爺さんは千葉県で学校の校長先生まで登り詰めた方で、尊敬される教育者であった。おばぁさんは戦中、戦後と英語を話せる事で活躍し、やはり教育者としての道を歩んで来たようで、千葉には立派な家があるようだ。この息子が結婚をし、老夫婦が職を辞した後に家を息子に任せてこの場所に暮らした理由は、息子の嫁とあまり上手く行かなかったからで、この葬式もひとりで息子はやって来たと言う話だった。涙を目に溜めて話す息子の言葉に、僕らは嘘のない懺悔や悔恨を感じながらも、この、今、こうして居るこの場所に対する引け目や、それぞれが感じるこの安っぽいアパートでの人生を胸に留め聞いていた。
 「でもなぁ、二人はいつも手を繋いで楽しそうに買い物とか散歩に出掛けていたよ」
 旦那のその言葉に息子は声を詰まらせながら泣いた。
 老夫婦でも若い頃は海外によく勉強に行っていたおばぁさんは、確かにファッションも老婆というような物ではなかったし、お爺さんの和装とは対照的な物だった。人生の始まりをここで過ごしていた僕、人生の途中をここで生きている旦那やサラリーマンの男、人生の最後を愛する人と迎えた老夫婦、その最後に生きたカケラを一人、拾いに来た老夫婦の息子。
 様々な人生の事情が交錯する僅か四畳半の部屋の中で、僕らはそれからしばらくたいした言葉を交わさないまま、酔えない酒を呑んでいたんだ。良い時間になり、明日もよろしくとそれぞれが席を立つ時、僕は息子に声を掛けていた。
 「ここは僕にとって孤独な場所だったけど、二人や皆さんが気にかけてくれていた事にも気づいてもなかった。でも、ここに今は住んでいない僕が、お爺さんに偶然最後にサヨナラ出来た事の意味は、きっと人生で大切な事なのだと思っています」

 部屋に戻り、布団に横たわる。あいも変わらず流し場に立っている彼女を見つめながら、人の死がどれほど今の僕には遠くて、実感をともなう出来事だったのか、祖父が亡くなった時とはまた違う、人生がはじまった僕にとって、巡り合いの連鎖の中、オトナの介在しない初めての自分の人生での出会いと別れについて、ぼんやりと彼女に語りかけた。
 「君はこの世にはいないのだろ?どんな人生だったんだ?君が昨日、俺をここに呼んだのだろ?」
 本音だった。
 この人生の一歩を踏み出したこの部屋は、僕にとっては孤独の監獄で、心のどこかではこんな所に住む、暮らす人々を軽蔑し、そうはなりたくはないと思いつつも、まるで不気味な生き物の中で暮らしているようでいて、その中の自分はその生き物の中の一番下に位置しているような自覚。
 だが、今日、知ったあまりにも温かく、強くそれぞれの人生を生きる人々の大人らしい考えや振る舞いやその言葉。この先、生涯忘れ得ない別離。
 どうにも未だ小さすぎ、幼すぎる自分への軽蔑。この場所に住んだ事の意味と、全ての理由を心に探りはじめていたのだ。
 深夜、先程までのこの静かなアパートには似つかわしくない喧騒は暗闇に削がれ、また、いつものように闇と静けさだけが支配する一人の空間に戻ってゆく。
 「俺たちはいったいこれからどうするんだ?」
 答えの無い手紙をあれからずっと書いていたように話し続けた僕は、あいも変わらず彼女に同じ事を繰り返す。せめて今夜だけは、せめて一言だっていいんだ、答えてはくれないだろうか。
 無知と愚かさと膨大な未来への時間しか存在しない若さという時代の中、まるで買っては貰えないおもちゃの前で無力な手足をバタバタと振り回している子供のように、ただ立っている彼女に話しかける。
 「少しはマシになったからって、何もねぇのは変わらないだろ?お前はなんでここに居るんだよ」
 まるで人形や石ころに話かけているような、無意味でいて、その時だけは必然のある衝動とも取れる彼女への問いかけ。
 石ころ。
 ふと、思い出していた。
 街を歩き誰も知る人のない場所を歩き続け、その喧騒の中、通りゆく人々の視線が一瞥もくれない路傍の小石のような自分自身。それに反してそこかしこから聞こえてくる、まったく自分とは無関係な孤独ではない誰かさん同士の会話。耳を塞ぎたくなるような他人の幸せな時を過ごしている声、そしてまた声。
 あの時この部屋で感じていた恐怖とは、見た事もない大量の人々が通り過ぎ、そして話す声の数々と反比例して、誰も気に留めることも無い自分自身の絶対的な孤独だったのではないのか。
 男とも女ともとれない、多くの無関係の声への恐怖。それを噛み締めながら土手の上に座り、見つけ、握り締めた小さな小石。何の変哲もない、誰も見る事もない自分のような小石。
 ふわりと締め切った部屋に流れた風が、僕の顔を優しくなぜてゆく。僕は慌てて、三年前に毎日冬は着ていてボロボロになってしまった、あの日河川敷で着ていたコートを半畳程の押入れを開け、ダンボール箱から取り出した。
 ポケットに手を突っ込み、探る。
 指先に感じる小さな塊を見つけ、そっと取り出してみると、あの小石が手のひらに乗っていたのだ。彼女を見る。
 「お前、ここにいたのか」
 彼女は相変わらず動く事も、答える事もしない。だが、それはまるでこの小石のようで、そしてそれをあの時のように握り締め、僕の手のひらの体温と小石が同化した時、彼女の揺らめくように歪んだ顔が一瞬、見えたような気がした。
 それは祖父に育てられた幼少期に、僕に常に優しくしてくれた隣に住む優しい姉のような存在だった人の、そしてその声が聞こえる。
 祖父が死に、施設に預けられる事になった13歳の僕を駅で見送り、抱きしめて、大丈夫。きっと大丈夫と言って背中を叩いてくれたその声。
 それは中学の時にはじめて気にかけてくれ、腹を空かせている僕に、弁当を作って来てくれた子の無垢な笑顔。
 それは東京に出る前日、田舎の河川敷で涙を流してくれていたあの子の顔。
 あの日、恐怖から逃れる瞬間に思った誰かを愛した事があったのかもしれないという感傷、それは恋愛と呼べる物でもなく、愛情と呼ぶには幼く遠い感情、例えるのなら一方的に守られているような、つまりは僕が産まれてから一度も会った事もない、母のような感情に抱かれているような。

 翌日、お爺さんの遺体は最期のお別れに柩の蓋が開かれ、花が参列した僕らにより手向けられた。最後におばぁさんが遺体に抱きついて、ありがとう、本当にありがとうと言ってキスをしていたのをよく覚えているんだ。それはとても美しい光景でいて、とても悲しくて、そこに参列した人々は束の間、愛という物の美しさと悲しみについて考えているような顔をしていた。
 それからしばらくしてその部屋を引き払った。おばぁさんや、サラリーマンの男や、あの家族がその後どうしているのかは知らない。僕はそれでもよくあの人生の始まりにあった彼女と過ごした数年の事を思い出すのだ。
 東京の外れにある町の、いくつか薄暗く狭い路地を通り抜けると、木造のアパートがそこにはあったんだ。それ以上安い家賃なんか無い、その、風呂もなく、トイレさえ共同のアパートの二階の一番奥に彼女や俺が住んでいた。誰も知る人の無い町で、誰も目も合わせる事もない町で、ひっそりと歩き初めていた人生、そして気づかずに過ごした大切な過去と触れ合いと、最後の別離。
 小さなちいさなその小石は今でも僕の側にあるんだ。懐かしいもう二度と会う事もないだろう全ての人々の思い出とともに。
最後に言っておきたいのだ。
これは全て、僕に起こった真実の話である事を。


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#幽霊
#青春
#実話

そんな事より聞いてくれ。 君の親指が今、何かしでかそうとしているのなら、それは多分大間違いだ。きっとそれは他の人と勘違いしているに違いない。 今すぐ確認する事をお勧めするよ。 だって君と僕は友達だろ?もし、そうなら1通の手紙をくれないか?とても綺麗な押花を添えて。