「毎日〇〇」から自分を解放する

元旦からつけ始めた日記帳。
1日腹筋30回と書いて壁に貼ったメモ用紙。
「継続は力なり」という、短くも力強い言葉で私たちは育ってきた。
毎日こつこつと、小さな何かを積み上げていくこと。
誰に言われずとも、粛々と、自分との約束を守り続けること。
それはとても美しいけれど、わたしは、その言葉が今でも苦手だ。

筋トレも、絵日記も、毎日やると決めたことは一つも続かなかった。
このnoteもそう。何度目かの「お久しぶりです」。
何日か続けて満足したり、書くことに悩んだりすると、いつの間にか距離ができている。そしてそのうち、距離ができたことも忘れて、別のなにかに夢中になる。わたしの人生は、その繰り返し。
ただ、続かなかったからnote書くの辞めます、ということではなく、「別に毎日続けなくても書きたいときに書きたいことを書きますよ」と言いたくて、今この記事を書いている。これまでも一応、そうだったのだけど。
いうまでもないことをわざわざ書くのは、「続けなければ価値がない」という強迫観念から自分を解放するためだ。

「継続は力なり」という一言を、世の中の人はどう思っているだろうか。
いちずに何かを続けていれば、自分の能力が磨かれていく。
人の目にとまる機会が増えて、結果に繋がる可能性が高くなる。
これがごく一般的な、まっすぐな理解だと思う。
わたしはひねくれ者なので、これまでずっと「何かを続けている人の方が優れていて、そうでない人は劣っている」と解釈してきた。
「今年の日記は続けるぞ」と新しいノートを開き、翌日か翌々日には何も書かなくなる。何年も何年も、同じことをやってきた。
そしていつからか、自分は「続けられない側」だと感じるようになり、人生の居心地が悪いまま過ごしてきた。
「どうせ続かないから」と、挑戦する前にブレーキを踏む癖ができて、気がついたら「何かやってみようかな」という想いが芽生えることすらなくなっていた。
誰に言われたわけでもないのに、言葉の意味を力技で捻じ曲げて、自分で自分をちくちく刺し続けていたのだ。
ずっと「自分は劣っている」と思っていた。そう思わせていたのが他でもない、自分だった。

「継続は力なり」を実現できないことが、どうやらずっとコンプレックスだったみたい。毎日決まった何かをすることに、そもそも向いていないのだろう。
20年以上同じことにがっかりし続けて、「さすがに毎日何か続けるのは諦めよう」と考えを改めた。
その代わりに何度でもノートを開き、思い出したように絵や文章を書く。
身近な人にはうまく言えないけれど、誰かに話したくてたまらなくなることが、わたしには時折ある。
このnoteも、そういうときに戻ってこられる場所であればいい。
30本のnoteは毎日書けば1ヶ月。たとえ3年かかっても、50年かかっても、数字だけを見れば変わらない。(極端に言えば、だけど)
「またやってみようかな」と少し不安げな自分を、「お、ええやん」と後押しできる自分でありたい。


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