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はととカラス

ふわっ。

白い綿毛が、ぱっと広がる。
ついばむたび、ふわっふわっと。
陽の光を受けキラキラと輝く綿毛が、灰色のコンクリートを次第に白く覆い隠す。
時折通る車の風が、コンクリートに積もった綿毛を舞い上げる。
まるで天使の羽のよう、目のくらむような美しさだ。

初めて現実として目の当たりにした光景から、目が離せなかった。
そんな私を周りの人は奇異な目で眺め、去っていく。

あまりに美しく、そして、あまりに残酷な景色。
これが生きるということなんだ。
そこには羨ましいほどの生きる力、逞しさが溢れていた。
その姿に感動し、しばらくその場から動くことができなかった。


歩道で、カラスがなにかをついばんでいる。
遠目には黒ずんだ物体にしか見えない。
恐る恐る脇を通り抜けようとし、ふっと目を向けた。
そこにあったのは、物ではなく鳩だった。
車にひかれたのか、すでに生命の兆候を感じさせないその体から、カラスがくちばしで器用に羽をむしり続ける。

その時私の持つ袋には、スーパーで買った豚肉が入っていた。
きれいにトレーに盛られ、ぴっちりラップをされ、グラムいくらかで売られている豚肉が。

どこかで、誰かが、これと同じことをしている。

命を奪い、皮をはぐ。

電気ショックを与え気絶させ、頸動脈を切り、逆さづりにして血を抜く。
電気ショックの精度は100%ではないため、中には生きたまま頸動脈を切られるものもいる。

部位ごとに細かく分けられパック詰めされた肉からは、生きていた姿を想像することすらない。
売り場で目にするものも、かわいらしい絵や写真だけだ。

と殺の工程は、どこでも目にしない。

豚は豚で、肉は肉。

いつまでも点と点のままで、つながることがない。
生まれてから一度も、自分で仕留めたこともさばいたこともない。
スーパーに並べられている切り身がすべての私には、頭では分かっていても命をいただいているという実感が乏しい。


生きるからには、他のものの命をいただくしかない。
それが、この世に生を受けたすべての生物に等しく与えられた宿命だ。
生きる以上、この宿命から逃れることはできない。

生きるということは残酷なことだ。

野菜や花にも命がある。
血を流さないから、声を発しないから忘れてしまいがちだが、野菜も花を咲かせて種を飛ばしたがっている。
繁殖させるという思いは、どの種族でももつ本能だろう。

命をいただかずに生きようと思ったら、どのくらい生きられるか分からないが、残されたものは水ぐらいしか思い浮かばない。

残酷さから目を背け、どんなにきれいごとを並べたとしても、命を奪い自分の血肉にしている現実は変わらない。
それは人間だけに限らない。
この世で生を全うするということは、残酷なことだと自覚し受け止めないといけない。


嫌いだから残す。
お腹いっぱいだから残す。
太るから残す。
売れ残ったから処分する。

この風潮が、ずっと嫌いだった。
食べ物を粗末にするということは、命を粗末にするということと等しい。

食品を捨てるごとに自分の命が削られていくとなったら、食べ物を粗末に扱っている人たちも大切にするようになるのだろうか。

スーパーに行けば、いつでも商品で溢れかえっている。
精肉コーナーには隙間なく肉のトレーが並び、鮮魚コーナーには刺身がきれいに並べられている。
野菜に至っては、品出しも適当だ。
投げるように陳列するスーパーが多い。

アニサキスの影響で店頭に並ぶ刺身が減ったのは、救いなのかもしれない。


刺身や寿司は、見本の写真を並べればいい。
必要な人が必要なだけ頼めば無駄がでない。
余った魚は、翌日フライや塩焼きにしてお惣菜にまわした方が、半額で投げ売りするよりもよっぽど利益になる。

たまに食べるから、おいしさに気づける。

子供の頃の寿司の記憶と言えば、助六寿司だ。
おいなりさんと太巻き。
お祝いの時は、出前だった。
こんなにも巷に寿司は溢れていなかった。

いつからか魚は高級品になり、イカなど手が出ない。
魚群探知機の性能が上がったため、魚を取りすぎていると以前テレビで見たことがある。
魚が取れなくなった原因は、自分たちにもあるということだ。

乱獲する原因は、乱立する寿司屋、それに群がる人間にある。
求められるから漁をする。
そして、鮮度がおちるから乱暴に仕分けをする。
この行為を肯定する言葉に、いつも疑問を感じていた。
愛のかけらも感謝も感じさせない仕分け方法。
人間にも同じ扱いができるのか。

回転ずしに溢れている偽りの魚を食べても、偽りの人間が出来上がるだけだと思っている。
偽物で満足し本物が理解できない人間が増えた時、この世から本物はなくなり、にせものの世界になり果てる。


日本は、目を背けたいこと、現実を見たくないものには横文字を使いごまかす傾向がある。

フードロスという言葉より、ぞんざいに扱った命という方がしっくりくる。

人間の食欲を満たすために投げ出してくれた命を、食べずに捨てる。
余るほど物があることに疑問を持たない。
廃棄量に応じて、くらくらするような額の罰金と企業名の公表でも設けない限り、現状を変えることは難しいのかもしれない。

個人の意識を変えることはもちろん大事だが、それと同時に企業の考えも改めないといけない。
たくさん作り、たくさん捨てることは間違っている。

見せたくない現実から目を逸らすために並べられたきれいごとは、いつしか厚い壁となり、処分することに罪の意識を感じさせなくなっていた。


ただ命を差し出し、雑に捨てられる、そんな命が数多く存在する。
生きるために生まれた命ではなく、初めから未来が決まっている命。
感謝もされず、見向きもされない。

物々交換の世界に戻れば、誰もが手にしたものを余さず大切に食するのだろう。
お店に行けば、欲しいものが簡単に手に入ってしまう。
品切れがふつうのことにならない限り、作りすぎ、与えすぎる過保護のこの社会は変わらないのかもしれない。


私は、あの光景を胸に刻む。
生きるとはどういうことか、食べるとは何たるかという原点を思い起こさせてくれたあの光景を。

生きることは残酷だが、その与えられた生を全うすべく生きる姿は美しい。

今日口にしたものが、私の体を支えてくれている。
私の体に命を捧げてくれている、そのことに感謝を忘れない。
そして、感謝の気持ちをあらわそう。

「いただきます」

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