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『晩年感覚』パスカル、孤独の発見(1/3)

(触る、
たとえば指で
自分の頰を撫でてみる。
伸びかけた髭の
垂直な硬さが戻す
その声の大きさの影に隠れて、
頰が感じる
指の感触は聞こえない。

しかし、
触るものと触られるものとは
すぐに位置を交代できる。
注意をどちらに集中するかの
違いがあるだけのはずだ。
だがどうしても聞こえてこない。
こうなるのは自分の指だからかもしれない。

指を代えてみる。
自分の指ではなく
ある異性の指に。

触ってもらう、
たとえば先ほどと同じ自分の頰を。
今度は
髭の上を撫で進んでいく
指の柔らかさだけが
聞こえてくる。
触る彼女と
触られるわたし。
触られるわたしは
撫でられている髭で
彼女の指を触る。
触ることは
わたしを孤独だと感じさせない。
孤独になるには
条件があるのかもしれない。)

これまでの章でわたしたちは
大江健三郎と
村上春樹の死の遇し方を見てきた。

二人に共通しているのは、
わたしたちが
個体として生きており、
しかも百年しか
生きることができないという認識だった。
わたしたちには
この認識は
疑いようのないものに思われる。

わたしたちが
一度の時間を、
一人称単数のわたしという
ひとりの人間で結果として通過する。

また、わたしという人間が
ひとりしかいないということも
自明なことであるように思われる。

わたしたちは
個体のための名称を持ち、
個体専属の身体を持ち、
個体の選択に従って生存を継続したり
途中でそれを放棄したりする。

わたしたちは現在、
わたしとして
生きているのだが、
わたしがわたしにとって
一人しかいないと気づくには
ある契機が必要だ。
わたし自身の危機に際して、
わたし以外のあらゆる人たちが
無力であることに
気づくような契機が。

あるいは、
わたし以外の
誰かにとってわたしが
全く無力であることを
示すような契機が。
つまり、
<わたし>と<わたしたち>との間には、
断層がある
ということに気づくことが必要だ。

そして気づいたときには、
いつも
手遅れの感情が
わたしたちにまといつく。

わたしにとってわたしは
身代わりのいない
最終ランナーであったのにもかかわらず、
自分が走者であることの
自覚さえなく、
そこが散策のための裏庭ではなく
競技場であったことにも気づかず、
したがって走り出そうとしても
滑りの悪い関節と
筋肉とで構成された
身軽だが
手ぶらな自分を発見する。

振り返ると、
これまでの
無邪気な時間が
ひどく間抜けた顔をして、
自分の迂闊ささえも知らないでいる。

こんなふうに生きてきたことに
なんの価値があったのかと、
わたしたちは
過去の総量を
残骸として断罪する。
それは自分の愚かさへの
科料として
負債になる。
それを返済可能なのだろうか。

ところで、
わたしたちは
いつも同じようにして
死を遇してきたのだろうか。
大江健三郎や
村上春樹がしているようなやり方で。
宇宙の闇の冷たさに
身を縮み上がらせて、
百年後の不在の予感に
怯えるようなやり方で。

わたしは
わたしひとりしかいないとしよう。
だが孤独は感情ではなく、
わたしたちの存在様式だ。

その存在様式が
わたしたちの動きを
凍えさせてしまうならば、
それは
本末転倒しているのではないだろうか。

寒さのなかで
凍えて動けずにいるならば、
わたしたちは
変温動物のように
来るはずのない春を
不動の姿勢で
待ち続けなければならない。

このままでは
わたしたちは、
わたしたちが
生きているその様式によって、
生きることが
不安の沼を泳ぐようにしか
できなくなってしまう。

生きるということは
それほど不安で、
不確実なものなのだろうか。

やがては死ぬという理由のためだけに
いまここで生きていることを
喜べないほどに、
未来に対して
敏感であるために
現在に対して
窮していられるほどに
賢明でありうるのだろうか。

むしろ、
わたしたちが発見する
孤独の姿は、
孤独を発見する方法に
そもそも起因しているのではないだろうか。

むしろ、
わたしたちはそれを
貧血的な
感受方法として
限定的なものとして
扱うべきではないだろうか。

もはや
前提としての自明性を
疑われることのなくなった前提が、
隠匿し封印した疑問を
開封すれば、
ひょっとすると
わたしたちは
もっと現在とは異なった
死の遇し方を
手に入れることが
できるのではないだろうか。
そのような問いに衝き動かされて
パスカルに会いにいく。

しかし、
誰のもとへ赴こうと
わたしたちは
同じ言葉を聞かされる。
人間とは
死すべき存在であるという言葉だ。

パスカルも
別段変わったことは言わない。
同じことを言う。
人間とは
死すべき存在でありながら、
なぜそのことを
もっと熟慮しようとしないのかと言う。

だが、
同じ事柄を語っているように見えて、
パスカルの場合には、
これまでの発言者と
異なった音色が
混入しているように聞こえる。

なぜ熟慮しないのかという問いに、
立腹と
焦慮の音色が
混じっている。

だからわたしたちは
逆に問い返したくなってしまうのだ。

なぜあなたは
そのように焦っているのか。
あなたは死について
考えない人間を
理解不能な
奇怪な存在だとして貶めている。

死はいずれにせよ
それぞれを襲うから
それについて
考えずにはいられないはずなのに
考えない人々がいるのを見て、
なぜあなたは
癪にさわっているように見えるのか。

それではまるで、
死がみんなに平等に
与えられているというのに、
死に対する認識は
平等ではないということへの
不幸を
分配したがっているかのようではないですか、
パスカル。


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