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対話について書くこと

日曜日、東大の文化祭の企画の一環みたいなイベントで、梶谷先生と國分先生の対談を見た。youtubeのライブ配信だった。

最近、梶谷先生が、対話の場のはじまる前の雑談とかで「俺、別に暇じゃないんだよねえ」とぼやくように言っていたのがなんとなく気になっていたんだが、今回の対談においては「俺、別に対話好きじゃないんだよね」と発言されていた。「別に嫌いじゃないけど、対話が好きな人っていて、その人たちのように好きなわけではない」と。
そして、現在は名古屋の若者が主体となって若者をサポートする団体(言葉が正しいかわからないけど)にかなりの頻度で参加しているが、やはり「福祉に興味があるわけではないんだ」と言っていた。

それを受けて國分先生が「自分には当事者研究のフィールドというか、そういう交流がある」という例を出し、哲学も「現場と理論を行き来する」ことが必要なのではないかという話になった。

自分も臨床心理学を学んで、ずっと臨床で(教育現場や医療現場で)仕事をしてきたが、現在は研究が主になるセンターに勤務しており、常々、この両方を行き来することについて考えていたので、この話題はとても興味深かったし、この共感を取り掛かりにして、先生方がどのようなことを話しているのか理解しやすくなった気がした。

私が参加してきた哲学対話は、自分にとって臨床的に有益だと感じられるため、私はいまも対話を活用させてもらっている。コロナ禍の1年半くらいは、梶谷先生もその場を開き、その場にいてくれて、対話のあり方について、そこにいることで教えてくれていたものだ。

そして今、梶谷先生は「僕は、ほかの"対話が好きな人たち"ほどは対話が好きじゃない」と言う。これは哲学者として対話の場をひらき、何がおきているのかとその場にいながら眺めていた梶谷先生の興味が、コロナ禍を抜けた社会で少し逸れてきたということなのかもしれない。もしくは、対話の場を「すべての人へ向けて」開いていることで、学問としての哲学を否定しているというような誤解からくる揶揄を受けて、「哲学対話の代表」みたいに名前を挙げられることが少々面倒になってきたというようなことなのかもしれない。

「対話が好きな人たちっているよね」という言葉を受けて自分は、対話が好きというよりも、1)対話が助けになるからやっている側面と、2)対話は結局、終わってみると面白かったということが多いから行うという側面があると思った。だから好きということでしょ、と言われると否定しづらいんだけど、持病の症状緩和のためによく薬をもらいに行く人が「調剤薬局好きだねー」と言われたり、眉毛が薄いから毎日眉毛を描いてる人が、「まゆげかくの好きだねー」と言われると多少違和感を感じるだろうと思うが、自分も「対話好きだねー」と言われると、それに近い違和感を感じる気がする。好きでやってるというよりも、そうすると楽になることを経験から学んでいて、ちょっと面倒だけど、終わったらすっきりするからやってるんだ。と言いたくなる。

つまりこれはどういうことかというと、対話は、少なくとも私にとっては臨床的に役立つものであったということなんだ。対話を服用しているという表現に近い、利用の仕方をしているということなんだ。

私はここ三年で、対話を活用することを通して、自分の根深い病がひとつ寛解に近いところまできたと思っている。梶谷先生は「哲学対話の場で何が起きているのか」という好奇心と、考える方法をあまりにも教わっていない人々へ考える方法を伝える使命感のようなものを持って対話をひとつの手法として人々に広めていたような気がするが、コロナ禍収束と時期を同じくして「なんかちょっと最近はね」とひいた発言をされるのがまた興味深いというか、なるほどなあという感じがした。

対話の場で何が起きているのか。どのように私は対話に助けられたか。
自分はこれを些細な臨床経験と些細な専門知識で人々に伝わるように書くことができるだろうかと考えはじめた。あまり自信はないけどどうしたものかな・・・と思っていた矢先、対話を通じて友達になった二村さんから、対話について書いてみてはどうかと提案というか、励ましをもらった。

がんになって何年か先の生存率というのも低くなっていることだし、これをミッションのひとつとして受け取って、一年以内くらいに出発点が探せるか、まずは書きながら考えてみようと思う。


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