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「夜に駆ける」のすごさを、真剣に考えてみた。

●これ、恋の歌じゃないの?

以前、運動神経のび太レベルの私に田原俊彦さんのダンスを教えてくださったダンサーの西野名菜さんが、YOASOBIの「夜に駆ける」を、素晴らしい歌って踊ってみた動画に昇華され、公開されている。

もともと私は、この原曲をあまり聴いていなかった。
お恥ずかしいことに耳が老化してきたのか、BPM早めでボカロ風の歌唱、という時点で疲れを感じてしまうのだ。

だが名菜さんの動画にハマって何度も聴くうちに、原曲では早すぎて入ってこなかった歌詞が、しっかりと耳にとまるようになった。

「おお、これは切ない恋の歌なのだ」

そう思った。

騒がしい日々に 笑えない君に
思い付く限り眩しい明日を
明けない夜に落ちてゆく前に
僕の手を掴んでほら
忘れてしまいたくて 閉じ込めた日々も
抱きしめた温もりで溶かすから
怖くないよ いつか日が登るまで 二人でいよう

これは紛れもなく恋の描写だし、

「終わりにしたい」だなんてさ
釣られて言葉にした時 君は初めて笑った

変わらない日々に泣いていた僕を
君は優しく終わりへと誘う
沈むように 溶けてゆくように
染み付いた霧が晴れる

という表現も、恋の終わりについての秀逸な描写のように思える。
もうにっちもさっちも行かず、一緒にいることが傷つけ合うだけと知った時、「終わり」という決断が本当のやさしさに変わることなど、恋の中ではよくある。


そんな訳ですっかり、「夜に駆ける」を恋の歌と思い込んでいた私だったが、もう少しちゃんとこの曲の来歴を知ってみようと、YOASOBIの原曲、そして原作となった小説『タナトスの誘惑』(星野舞夜・著)を読んでみた時、これは実は死の歌だったということに気づいて仰天したという訳だ。


●恋と死を表現する言葉は、よく似ている

そういう頭になってしまうと、この歌はやはり「死の歌」だ。

先ほど、恋の終わりだと勘違いしていたフレーズはそのまんま「終わり」を意味するものであるし、冒頭まで遡ってみれば

日が沈みだした空と 君の姿
フェンス越しに重なってた

の情景は、私が自然と思い描いたような平地のフェンスではなく、「ビルの屋上の」フェンスであった。

では、最初の受け取り方、つまり私の感覚が間違っていたのか?という疑問から、再び西野名菜さんバージョンを聴く。
すると、いやこれ、やっぱり立派な恋の歌ではないか!

両方を聴き比べて、わからなくなってしまった。
なぜ、恋と死を表現する言葉たちは、こんなにも近いのだろうか。
この謎の前で私は、うーん、となってしまったのだった。


●恋とは魂の解放であると歌いきった、スピッツの「ロビンソン」

さてさて。
平成一ケタ時代に思春期を過ごした私の胸に残っている、「夜に駆ける」と同じ匂いのする鮮烈なラブソングとは、スピッツの「ロビンソン」だ。


「ロビンソン」といえば、草野マサムネの透き通ったハイトーンボイスを世に印象付けたピュアなラブソング、と思い出す人も多いだろう。
確かにその通り。
だが、試しに「ロビンソン 歌詞」とGoogleで検索してみてほしい。予測変換の上位に「ロビンソン 歌詞 怖い」と表示されるはずだ。

なぜこの曲が、怖いとされるのか。
それは、よくみればこの曲が見事なまでに堂々と、「恋とは魂の解放」であると歌いきっているからであろう。

誰も触われない 二人だけの国
君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る


「ロビンソン」では、サビでいきなり、恋に落ちた二人の身体がグンと浮き上がる。行き先はなんと、宇宙まで。
この落差をつけるために、サビに到るまでの歌詞には「どうしようもない、終わらせたくなる地上」のイメージをべったりと塗りつけているところが、この歌詞の本当に美しく素晴らしいところだ。

そんな美しい曲なのだが、やはりその奥の「怖さ」を感じてしまう理由は、恋と死の近しさを、人というものは無意識にキャッチしてしまうからなんだと思う。

恋を、どうしようもない今までの現実から引き剥がす、魂の解放行為にまで高めてしまえば、そこで得られるのは至幸の体験ではあるが、悲しいことに恋とはいつか終わるもの
あとは落ちて、悲しい現実へと戻っていくだけである。
「ロビンソン」にそこはかとなく漂う怖さとは、この「終わりの予感」を無意識に想起させるからであろう。


●魂の永遠の解放=心中という構造

恋が終わると、普通ならば、それまでの人生から地続きの現実に、イヤでも戻る。
だが、魂の解放という至幸の味を知ってしまったことにより、現実に戻れない恋愛パターンというのが、この世には少数ながら存在する。
それがいわゆる「心中物」という表現に行き着くのだろう。

現実に戻れない理由には、愛の深さもそうであるが、現実社会における「縛り」の存在が後戻りを難しくするというのが、一般的な心中物の構造だ。
もう前のようには戻れない、ならば綺麗なまま、二人の魂を永遠に解放しよう、というわけだ。

古くはロミオとジュリエットを縛り付けていた辛い現実が「家柄」であったように、「夜に駆ける」において若い男女を縛り付けるのは、「愛着障害を持たされざるを得ない家庭環境」であったり、そこから脱皮しようとしても「ブラックな企業しか就職先のない社会環境」であったりして、それを飲み込んで生きるのがとても難しいのが、現在のリアルということだろうか。

そう考えれば、「夜に駆ける」であり『タナトスの誘惑』において描かれているものは、実は普遍的な心中物ストーリーの流れに、とてもよく当てはまる。


●ボカロという象徴化

ここまで考えて、再びYOASOBIバージョンの「夜に駆ける」を聴いてみる。


とても苦しく行き場のない恋であるが、なぜか心中物の創作のほとんどが涙を誘うように出来ているのに対し、この曲でそうはならないのは、一体どうしてなのだろう、ということに思いが到る。

そこに注目して考えてみると、それはやはり、この楽曲が演出として、周到に「人間らしさ」を取り除いて作り上げられているからであろう。

YOASOBIの他の楽曲にも言えることだが、そこで描かれている「世界の終わり」的な深刻な事態に反して、あくまでもライトに、スタイリッシュな感覚で聴けることが特徴的だ。
とても感覚的なことだが、そこで歌われている「世界」は、語感的には重力の消え失せた「セカイ」といったほうが近しい
世に言われる「セカイ系」の創作物にみられるような、大げさな設定を、ゲーム的に冷めた視点で受け取れる感覚、ということなのだろう。


この感覚は、やはりとても新しい。
YOASOBIの試みや制作スタイルが「斬新」と言われるのが、とてもよくわかってくる。

試しに思考実験として、「ロビンソン」のサビ部分を、ボカロ風な仕上がりに変えてみたらどうなるのだろうか。

誰も触われない 二人だけの国
君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る

おそらく、今まで草野マサムネの声ではそこまで際立って意識されなかった「国」「宇宙」という大きな言葉が、どこかSF的な響きで耳に付いてくるだろう。
草野の声で聴くこれらのフレーズが、人間の心情の範疇にあるように受け取れるのに対して、ボカロボイスではそれらのフレーズが際立ち、大げさ、かつここが不思議なところだが、とてもライトに想起されるのだ。


●「象徴化」を駆使するYOASOBIのすごさ

この、情念がライトになる感覚。
これは、自分の日常を埋め尽くす「具体的なもの」の対義として、それらを「象徴化」した感覚、ということなのかもしれない。

心中物なのに、なぜか涙が誘われない。
それはたとえば、神話で描かれる、残虐で悲しい描写にも涙が誘われないことに近しいかもしれない。
神話とは、極度に「象徴化」された物語だからである。

YOASOBIの創作が今の世の中でビビッドに面白いものとして受け止められているのは、この具体と象徴を操る感覚、「心のうちの重力を操るバランス感覚」が絶妙に長けているからなのではないか、と思えてくる。

肉声を強調したアレンジで歌えば、恋の歌として聴ける歌詞。
そのように、原作の小説で使われるキーワードから死を直接想起させるものを排して、意図的に豊かなラブソングとして仕上げている、すごさ

だが、YOASOBI自身のアレンジにおいては、極力身体性を排除し象徴性を高めることで、原作を読んでみたくなるような謎かけを浮き上がらせているのだ。


●声が、曲に命を吹き込む

「夜に駆ける」は、決して若者のうちだけでヒットしている類の曲ではない。
施された「象徴化」の演出を剥ぎ取れば、それはとても普遍的な質のいいラブソングだ。

そう思いながら西野名菜さんバージョンの、BPMを落とした生声の「夜に駆ける」を聴くと、やはり心がしっとりと落ち着く。
彼女の声の中に潜む、感情の揺らぎ、切なさ、そして原作には描かれなかった、希望

人間というのは、声という身体表現から、文字からは読み取れないようなあらゆる感情を、豊かに汲み取る能力を持っているのだなということに、改めて気づく。

そして、汲み取った感情を、自分の日常に添わせて共感する能力も、人間にはしっかりと備わっている。
この能力に深くコミットするからこそ、歌というのはずっとずっと古く昔から、生まれ愛され続けているのだろうな、と思う。


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