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ハンドソープに、心を救われる朝がある。

ふしゅっ。

腑抜けた音と共に、きめ細やかに泡立てられたハンドソープが手のひらに躍り出た。少しヒヤリとした泡は少しだけ私の手の体温を奪いながら、静かに平たく溶け出していた。

何気ない朝。意外な期待を裏切られた私は、あまりの嬉しさに身の毛が逆立つのを感じて思わず歓声を上げた。

ついさっきまで微かな残量しか残っていない、いわゆる瀕死の状態だったハンドソープのボトルから期待通りに躍り出てきた泡は、疲れ切った私を祝福しているようにすら思えた。

オーバーワークと私生活

私は仕事のことで身も心もいっぱいいっぱいになると、途端に身の回りのことができなくなるタチの人間だ。

普段は片付けも、皿洗いも、日用品のストック管理もどちらかと言えば好きな方なのに。そういう状況になってしまうと、洗剤のことひとつすら考えるのすら嫌になってしまい、全てを見て見ぬ振りをするようになる。そんな時は当然、部屋は軽く泥棒が入ったような状態になっていくのは明らかであった。

時には洗剤どころか、食事すら興味を失ってしまうことも良くある。腹が満たせばまだマシで、最近では昔ほど空腹にも不快感を感じなくなったこともあってか、放っておくとコーヒーだけで一日中を過ごすような日もある。

それは以前、いつもに増して仕事が立て込んだ時であった。

同時に受ける案件が3つを超えると、私はパンク状態になりやすいことが分かっていたはずなのに。その限界値を超えての日々がしばらく続いていた。当然のごとく私の生活はみるみるずさんになり、相方との食事にも気を回せないレベルに達していた。既に出てこないハンドソープはすでに何回か押しており、ああそうだ、出ないんだったと顔を上げると血色の悪い顔が目の前に映し出され、見なかったふりをするのは一度や二度ではなかった。

わたしは俗にキャパシティと言われる、いわゆる自分の「限界値」みたいなものを、目の前に転がり出てきた「好奇心」と並べて押し測ることが苦手だ。

面白そうと思うと反射的に手を出してしまう癖して、実態の私はショートスリーパーでもなければマルチタスクが得意なわけでもない。それは大概の場合でオーバーワークとなり、結果的に心身に多大な負荷がかかる。

当たり前だが、あまりに高負荷でやりすぎるとアウトプット品質にももろに影響がでる。それはプロとして絶対に超えてはいけないラインなので、流石のわたしも社会人経験を重ねるごとに最低限の理性コントロールは効くようになったつもりではある。

しかし、目の前にご馳走が転がっていると未だに私の悪手は言う事を聞かない場合が多々ある。

我ながら学習能力を疑うというか、あまりに懲りない行動にため息が出るばかりだが、そのおかげで今の仕事の道に進むことができたこともあながち間違いではないことも確かだ。あまり邪険にし過ぎるのも良くないだろう。

頭の中の赤い風船

それでも久しぶりに、自分でも気づかないうちに心が悲鳴を上げていたのかもしれない。そう思い知らされたのは、とある金曜日の朝だった。

いつものように眠い体を起こしてベッドから這い出ると、私はよろよろとおぼつかない足取りで洗面台に向かう。あと3時間ぐらい寝ていたいと頭に浮かんだ小言を飲み込んでから、こざっぱりとした白い流し台の正面に備え付けられたよくある3面鏡の洗面台の前に立つと、蛇口を勢いよく捻って水を口に運んだ。

一晩の鬱憤を洗い流すようにうがいをし、そのままベシャベシャと張り付いた顔を洗って緩ませてから、仕上げにと言うのはいささか頼りないが無印良品の日焼け止めをペタペタと塗りたくった。

顔に最低限の施しをした後は、頭上に目をやる。

鳥を飼っているわけでもないのに、毎朝律儀に立派な巣を創るわたしの髪の毛というものはどうしてこうも天邪鬼なのかとつい不満を漏らしたくなる。主要な箇所を雑に濡らしてからブラシをかけ、前髪を乾かし、適当にオイルを塗ってから邪魔な毛を全て後ろで縛り上げれば今日も動く準備は整ったも同然だ。

それでも、ウキウキと気乗りしているかと言われればそんなこともない。

あの仕事、あの返信、あの決め事。頭の中ではパンパンに膨れ上がった赤い風船がいくつもひしめき合っていて、どこにも気持ちの余白という逃げ場がなかった。

今にも割れ出しそうな物ものを押さえ込むような時間が始まろうとしていたその時、ふと手についたオイルを取ろうと思っていつも洗面台に置かれている白く四角いハンドソープに手を置いた。ぐっと力を入れると、ふしゅりと音を立てて泡が飛び出した。

思わず、声にもならない間抜けな声が出た。

ハンドソープの喝采

おかしな話だ。

ハンドソープを使いたいと思って押したくせに、わたしはそこからハンドソープが出るとは思っていなかったのだ。何故ならそのボトルは数日前から空に程近く、パンパンに膨れ上がった赤い風船はその詰め替えをするという日常の所作すら許してくれなかったからだ。

手のひらに出てきたきめ細かいハンドソープを手のひらでじわりと実感すると、私はものすごく嬉しくて頭に血が昇るほどにドキドキした。同時にさっきまで脳内でキツく張り詰めていた赤い風船が、しゅるしゅると小さく萎んでいくのが分かった。それはまるで、全くの予想外の瞬間に薔薇の花束を渡されてときめく少女漫画のような艶めきを持っていた。

こんなにも嬉しいことが、あっていいのだろうか。

そう思ってしまうほど、わたしはこれまでにない多幸感で全身が包まれていた。幸せはお金で買えないとよく賢者はいうが、改めて計り知れないものだと思い知らされる。

そして自分の思わぬタイミングで詰め替えられたハンドソープという、わたしの欲しかった薔薇の花束を持ってきてくれたのは結婚して3年目になる相方だということが瞬間的に頭の中で推理された。

わたしの頭の中は、スタンディングオベーションの大喝采だった。見に行ったことはないけれど、アカデミー賞の授賞式でもこれほどの割れる拍手を送ることはないのではないだろうか。わたしは洗面所を飛び出して、キッチンで優雅にお湯を沸かしている相方に叫ぶように言葉を放った。

「ハンドソープ、めっちゃ嬉しい!!!!!」

朝からパートナーの謎の興奮具合に不意を突かれ、驚いた彼の表情は今でも忘れられない。

余裕のお裾分け

周りからすると目にも止まらないほど些細なことに、涙が出るほど救われたという奇跡的な経験は人生にたびたび起こる。

それは会社で忙しい時の同僚の「これ、やっとくよ」というフォローだったり、休日に会った友人の何気ない一言であったり、カフェの店員さんの眩しい笑顔であったり、家族が知らぬ間にハンドソープを詰め替えてくれるような日々の一瞬であったりする。

その一瞬のきらめきを受け取った時、わたしはいつも雷に打たれたように感激し、相手がドン引きするほどにうれしいを伝える。相手は一瞬戸惑うものの、高鳴る感謝の弁を重ねられて嫌な気持ちになる人はいないと思うので私はしつこいほどに「うれしい」を伝え尽くそうとする。

うれしい、めちゃくちゃうれしい。
ものすごく元気が出た、今日も頑張れる。

口から溢れでた感動の気持ちは、同時に自分の腹の底を温めてくれるような心地よさがあった。目の前の緊張も、焦りも、いつかに終わりがある。その張り詰めている瞬間も私のそばで、必ずどこかに余裕がある誰かがいて、その緩みを分けてもらう瞬間がある。

頭の中に赤い風船がひしめき合う瞬間に、きっとわたしは誰かのハンドソープを詰め替えることはできない。でもまた巡り巡って、私の余裕が生まれる時間に、自分ではない誰かのハンドソープを入れ替えることができるのだろう。そしてそれは時に、誰かの人生を掬い上げるほどの隠れた力を秘めている。

私たちの生活は、誰かの「余裕」のお裾分けで成り立っているのかもしれない。

思ったより救いがないこの世の中で、日常に散らばる小さな救世主を見つけてなんとも勇気づけられた、よく晴れた金曜日の朝だった。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃