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しょうもないことにものすごい悩んだ話

noteを作ってから半年くらい経った。最初は、日々思っていることや面白かったことをエッセイのように書き記していこうと思った。20年以上生きていると自分の傾向が分かるようになってくるが、予想通り、面倒で全く続かなかった。でも1度、今思っていることを猛烈に書き記したくなって書いたことがある。1つ前の訳の分からない投稿だ。正直、めちゃくちゃ酔っ払って書いたことだけは覚えていて、何があったときのことなのかはあまり覚えていない。自分的に何か考えることがあった飲み会の帰りだった。ただ内からひたすらに湧き出てくる感情があって、誰かに問いかけるような口調で、間違いなく自分に問いかけていた。彼氏ができないという入り口で書いていたが、恋愛の話なのか、恋愛に見せかけた人生全体の話なのか、はたまた仕事の話なのか、どれにも通ずるような変なことを書いていた。おそらく全部に対してだと思う。読み返すと所々全く書いた記憶がない文章もあり、死ぬほど恥ずかしい。結論は薄っぺらいし、だからなんなんだという内容だが、誰が見るわけでもないしなんとなく記録として置いている。

怠惰な私が何かを書き記したいと思う時は、決まってマイナスの感情が暴走した時だ。自己肯定感がゼロになった時だ。それは本当に些細な、ふとしたことをきっかけにして、予期せぬタイミングで襲いかかってくる。こういう時は、吐き出して整理するのがいい。誰かに話を聞いてもらうとか、言葉にして書き留めておくとか。内容的にもタイミング的にも、誰かに話せないことだってある。こういうことになるのはだいたい深夜だし。だからそういう時は、1人でただモヤモヤした負の感情を抱き続けるより、文字にして整理した方がいい。それで少しは自分の中のモヤモヤしたものが整理整頓されるし、その捌け口が見つかるような気がする。TwitterやInstagramのリア垢では、基本病んだことは書かないようにしている。誰も見たくないと思うし、日常で起こったしょうもないことしか書いていない。でもこうしてモヤモヤがウワァーとなった時は、フォローフォロワー0の鍵垢で思ったことをつぶやいたりする。案外気が楽になるし、昔悩んでいたことなども遡れて面白い。今回はなんとなくだらだら書いておきたい気がしたので、noteに書いている。

さて、今回私が悩んだ些細な些細な事案について簡単にまとめると、仲の良い友人と3人で話している時、3人でいるのに、自分以外の2人で新しい予定の話が進み、自分を誘ってくれなかった、という内容だ。薄。単に人数がアレなのか、私の知らないコミュニティがあるのか、何かしらで私がそぐわない状況なのか、単にちょっと嫌われているのか、凄まじく嫌われているのか。改めて文字にするとなんて薄い小さい悩みなんだろう。地球や銀河の画像でも検索していかに自分の悩みがちっぽけかを再確認する必要があると思う。こんなことに悩んでる暇があったら世界の貧困やバッタ大量発生の問題について悩めと言いたくなる。でもこんなことに傷ついてしまうのが私のメンタルだ。向き合わなければいけない。その2人は昔から仲の良い友人なので、露骨に嫌われている訳ではない(はず)。おそらく悪気がなくて何も考えていなかったか、ちょっと悪気があるかのどちらかだ。同じことがやんわり2回あった。2回目の時はお買い物の話だったので軽いノリで、私も行きたい〜と言ってしまった。特に困った顔もされず私を含めて話は進んだ。良かったのか、悪かったのか。仲が良い友人だからこそ、こんなに空気を伺ったことは久しくなかったと思う。「私も行きたい〜」と言った時、私はどんな顔をしていたのだろう。こういう時は自分が情けなくなる。仲の良い友人に仲間外れにされているのか。大人になって仲間外れって。本人たちはそんなこと微塵も思っていないかもしれないし、気を使う仲じゃないんだから混ぜてもらいたいならそう言えばいい。頭ではそう考えたが、話が終わった後も私の中にはモヤモヤが残ってしまった。わざわざ私を入れないようなそんな誘い方するだろうか。嫌われ始めているんだろうか。最近無意識のうちに何かひどいことしてしまっていたんだろうか。帰り道、いろんなことを思い返して、考えた。相手に悪気があってもなくても、メンタルの弱い私は少し傷ついてしまった。でも、悪気がなく無意識に言っていたとしたら、同じように私も日々無意識に人を傷つけているのではないだろうか。その時気付いた。私は自分の性格を、「人に嫌われない、いい子ちゃん」のように思っていた。実際人に嫌われることが何より怖くて、人に好かれるように生きてきた。自分の意見を突き通すことはなく、空気を読んで周りに合わせるし、そうすることで大きな問題にもあまり直面せず比較的うまく過ごしてきた。初対面の人にもそうだし、会社の人、知り合いにもそうだ。性格悪いとは思われたくない。そして私にはあまり裏表もないと思っていた。オンオフでも変わりないし、実際裏表ないよねーと言われたこともある。でもこれらは、正しくもあり、間違いでもあった。裏表がない私は自分の性格を「比較的嫌われにくく周囲に気を遣えるいい子ちゃん」の面しかないと思い込んでいたが、それは一般的な人と接するときの話であり、自分のことを嫌わないと安心できる人と接するときはまた別の話だった。自分の性格は一面しかないと勝手に思っていた。裏表というほどでもないが、確実に二面あったのだ。嫌われることを恐れる私は、周囲に気を使い、自分を取り繕ってよく見せようとする。しかし、もう嫌われることなど心配しなくていいような人達=家族、昔からの友人、自分のことを好いてくれる人などには、自分勝手で、相手を傷付けるような態度を取っていたのではないか。こんなにずっと自分というキャラクターを生きてきて、やっと気付いた。1番身近にいて、1番大切にしなければいけない人たちを、1番蔑ろにしていたのではないか。自分の話ばかりして、相手の話は適当に聞いていたのではないか。自分のことばかり考えて、伝えて、分かってほしくて、相手の気持ちや、思いを考えていなかったのではないか。ものすごく反省した。自分の話を聞いてほしくて、自分にアドバイスして欲しくて、自分を認めて欲しくて、自分を褒めて欲しくて、自分が、自分が、、、自分のことばっかりだった。そんな身勝手な自分を支えてくれる、身近な大切な人たちに、私は何かしてあげられていたのだろうか。無性の愛をくれる家族に、私の人生を彩ってくれる友人達に、私のことを守って愛してくれる人に、私は感謝してもしきれないほど支えてもらっているのに。1人1人に謝りたい気持ちでいっぱいになった。今までの私の言動、態度、行動、無意識にやってたことも、故意的にやったことも、反省することがいっぱいある。本当にごめんなさい。1人1人に直接伝えたいぐらいだが、私が今こんなこと考えてるとは誰も思わないだろうし、急に謝られても困るだろう。それこそ自分が謝りたいだけのエゴかもしれない。だから気付けた以上、今からこの気持ちを忘れずに、今後は大切な人に対する対応を改めなければいけない。自分にとって大切な人を、大切にする。文章にしたら進次郎構文的でアホみたいだが、人生で忘れてはいけないことだと思った。あんなちっちゃいちっちゃい悩みから、最終人生の指針にまで大飛躍したが、自分のクソみたいな部分に気が付けて本当に良かった。1番大事なことを忘れて、なんと自分のことをいい子だとまで思っていた今までの自分を殴り蹴飛ばし散らしてやりたい。でも、気付けたこと自体は良かった。よくあるポジティブ変換みたいに、すぐクヨクヨしてしまう短所が「繊細」という長所として活かされたのかもしれない。こうして0になった自己肯定感を少しでも上げつつ、大切な人を大切にしながら、残りの長いか短いか分からない人生を存分に生きていきたい。そして、身近な問題だけでなく世界の貧困やバッタ大量発生問題にも目を向けていけるような、視野が広く思慮が深いステキな人に、私はなりたい。

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