きせるする男、食べなかったピザ

都内某所。ごくごく狭いM支店でそれは起こっていた。元夫(以下Hとする)と、Fの不貞関係は、始まった時期は定かではない。けれどHが一度だけ朝帰りした日がある。その日は夜中いくら電話をかけてもつながらず、翌日の昼前に帰宅してきたHは、残業で終電を逃し、満喫に泊まった、と話していた。わたしはすぐにHの足を嗅いだ。鼻を吐く異臭がした。ホテルには泊まっていないと判断した。愚かだったと思う。いつからそういう関係かは知らないし、もう知るすべもないが、あの女とひとつところに泊まった最初はあの日だと思う。呑気なわたしは、それがいつだったか思い出せない。育児に追われていたのもある。一つ変だったのは、いつもなら仕事が立て込んだ翌日は次男がどれだけせがんでも公園に付き合わないHが、その日だけはシャワーを浴びたあとわたしたちのいる公園の砂場に顔を出したことだ。
こうして思い返すと、小心者のくせに随分大胆なことをしたものだと思う。

 Hの不貞がわかったあと、わたしは誰の目にも痛々しいほど不安定になった。食事が摂れない。2週間足らずで四キロ落ちた体重はその後も減る一方で、反対に酒量は増えた。500ミリリットルを5本以上飲まないと寝られなくなった。不貞がわかった忌まわしい日は、クリスマスイブの朝だった。(厳密には朝はクリスマスイブでもなんでもないが、とにかく12月24日だった。)ラインの通知にこうあった「Hくん朝早いんですね♡」。
これが10近く離れた職場の女から来たのだ。黒もいいところである。問い詰めると、先日ラインの相手であるFが体調を崩し世話してやったからそのやりとりだ、馴れ馴れしいやつなんだよ、といった。馬鹿も大概にしろと思った。曲がりなりにも役職付きのHに、後輩の女が君付け、それもハートをつけたメッセージなぞ送るものか。なにより、ラインはそれ以前のメッセージがすべて消されていた。浮気されていたんだ。

Hは醜男である。腹がだらしなくせり出し、尻にはたくさんの吹き出物があった。「こんな男をわざわざ相手する女などいない」わたしはこころの何処かでそう思っていた。青天の霹靂ではあったが、思い返すと、いつもはバドミントンのクラブチームに行くときにしか履かない下着を平日に履くようになったり、正月の挨拶がFから来ていた時に、これはだれ?と尋ねると従姉妹だとはぐらかされた。従姉妹は一度だけあった事があり、正直なところ、こんなに肥ってなかったような…と思ったものの体型は変わるしなと流してしまった。本当に馬鹿だったと思う。

わたしとHは職場婚だったので、すぐに元同期や仲の良かったパートの方に連絡を取り、Fのフルネームを知った。また同期からは、上司にふたりの不貞関係について尋ねると、「何か知ってるの?今支店でざわついてる話題だよ笑」という返信があり、そのスクリーンショットも貰った。 

本来なら25日に家族で長男の面会に行く予定だったが、施設から長男の発熱の連絡が来た。
わたしはクリスマスに、結婚指輪を質入れした。
その夜、たまらなくつらくなり、そうだ、多摩川で死ねばいいんだと思った。次男が眠りにくつくと、家で缶酒を5本空け、カラオケボックスへ行き三杯飲み、コンビニでまた三本酒を、購入し(なんでかしらないが酔いが覚めてから見るとHがよく食べていた菓子パンも買っていた。)川まで歩いていると、無様なことにその手前の郵便局でぶっ倒れ、通報により、目覚めるとわたしは警察署にいた。はた迷惑なはなしだと思う。
夜が明けると身元引受人として3年連絡を取っていなかった不仲の両親がおり、いちど帰宅した。次男は「お母さん帰ってくるから」と繰り返していた。最低だった。

Hはわたしを心配する素振りなどみせずただそこにいた。つらかった。
翌日26日は月曜日だったので、わたしは次男を連れてM支店へ赴き、Fと会った。
Fは上顎前突で肥満しており、驚くほど猫背だった。猫背と言うより、前に傾いているようだった。腰から下腹にかけて制服は絵に描いた雲のように波打っており、バックルは悲鳴を上げていた。(支店にいるのだから、新しいLLサイズの制服を申請すればいいのに…)切羽詰まるとどうでもいいことを考えるものだが、このときのわたしもまさにそうで、肥っていることが恥ずかしいのではなく、サイズの合わない服を着ていることがみっともない。平気なんだろうかと思った。ただその体躯は、己を客観視できないことや、自分の欲に忠実な己への甘さを示していたし、何より今よりコロナに対してナーバスであったにも関わらず、事務所でただひとりノーマスクであったことが、わたしを(あっ…)と思わせた。話してみるとさらなりで、ヘラヘラ笑っていた。無関係の子どもの行く末も壊しているのに、平気なんだろうか。同期曰く精神疾患があるとのことだったが、自分の痛みには敏感で、他人を傷つけることについては鈍麻、だなんてそれは生きにくいだろう。真面目に生きて苦しんでいる人たちの支援の枠を奪ってほしくないなと思った。果たしてこの女に生きてる意味があるのだろうか。
「N係長(H)とのやりとりはわたしもすべて消しているので、お見せすることはできません」とニヤニヤ笑いながら言われた。怒りでおかしくなりそうだった。でもそれがすべてだった。
帰宅後、HはいちどFのラインを消したと言っていたがそんなのは当然うそっぱちで、Fから支店にわたしが来たことを聞いたのだろう、ふて寝していた。ここに至るまで不貞について聞くと大声で逆ギレするか、口をへの字にして「言わない」と黙るかだったが(この幼稚な表情といったら、吐き気を催すものだった。)「Fは身体の関係を認めたよ。あなたは?それでもまだ認めない?」とききくと、がっくりと、わかりやすく項垂れた。どこまでも醜悪だった。

数日後わたしはとうとう次男の食事も用意できなくなり、実家に赴くことになる。もともと折り合いの悪い家だったのですぐに険悪になり家を出たがここでは割愛する。

とにかく寝られず、食べられず、つらかった。
そのころツイッター(あの頃はまだツイッターだった)で、「社会的倫理的に良くないとされていることをした、ということを悪びれずいう人間は何かしらのトラブルを起こすから、距離を置いたほうがいい」という趣旨のポストを目にした。
Hは金のない学生時代にキセルしていたことを悪びれず公言していた。そればかりか結婚後、部活の合宿で露天風呂の塀を登りしたおぞましい行為を聞かされ、頭が痛くなったことを思い出した。わたしがいたらそんなことは止めるのだが、Hは会社に行くのに定期券を忘れるとキセルし、それを「定期券を買っているからいいんだ」という滅茶苦茶な男だった。その時持っていないんだからお金を払わないのはおかしい、と都度言ったが、聞き入れられることはなかった。結局一事が万事そうなのだ。不貞についても、自分に都合の良い理由をつけて、俺はわるくない、と言いたいんだと思う。こんな幼稚で馬鹿げた人間と子を設けたことがほんとうに恥ずかしい。

Hはクリスマスに宅配ピザを頼みたいと言った。
それも結局食べずに終わった。
ひょっとしたらFと仕事帰りに、あるいはFの家で、彼はピザを食べていたかもしれない。でも家族としてピザを食べる相手はこの数年ずっとわたしや子どもたちだった。その機会ももはや未来永劫ない。家庭とはなんだろうと虚しく馬鹿馬鹿しくなってたまらない。

多摩川沿いにラブホテルがあった。
Hはよく、そこを一瞥し空室の少なさに対して「お盛んだなぁ」と笑っていた。その頃には我が家は夫婦関係が破綻していたので、とても嫌な気持ちになった。今ならわかる。「こういうところに、自分はFと行っている」ということを言いたいけれど言えないことが、Hにそんな気色の悪い発言をさせたんだろうと。
他にもあった、大小さまざまの違和感が、すべてピースが嵌まるように納得させられた。つらかった。

わたしは今現在次男と暮らしている。
長男は就学を目処に帰宅するはずだったがそれも白紙になり、おそらく生涯施設暮らしだ。今は月一の面会と、2ヶ月に一度程度の通院に付き添っている。七歳だが言葉を喋らない。喋ることはないと思う。健常児だって育てるのには常に悩みが付き纏うだろう。障害児はさらなりだし、また外に相談もしづらい。相手が返答に困ることはこちらだってわかっているからだ。心の内の悩みをだれとも共有出来ず、一人矢面に立つプレッシャーや絶望に、すぐ打ちのめされそうになる。

たとえどんな罪人の人生に幸福が訪れようとも、HとFの人生にだけは、一筋の光も注がれませんように。泥水を啜って、地を這い、生きていきますように。そう願わずにはいられません。


令和6年9月19日をもってHと離縁し、ひとり親になりました。このさき幸福になれるとはとても思えないけれど、一つの区切りとしてしたためたので、読んでいただけると嬉しいです。乱文失礼いたしました。

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