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「いい子」を私は悪口として使う

 「いい子」と言われやすい人は、のちのち困るよねという話。


大学時代の話

 私が3年生の時、卒論の内容をどうするか話し合う場で、私以外内容を決めていなかった。私はやりたいこと・興味のあること・好きなこと・嫌いなことがとてもはっきりしている。卒論の内容もその時最も興味を抱いていたことだっただけに、周りの人たちがなんでそんなにやりたいことがないのかもわからなかった。私は学びたいことがあるから学科を選び、学びたい先生がいるから大学を選んだ。先生はともかくとして、みんな学びたいことがあるから学科を選んでいると思っていただけに、「卒論の内容が決まらない」という悩みには心底驚いた。

もちろん、「やりたいことはあるけど機材があるかわからないからまだ決定はしていない。」や「この二つのどちらにするか悩んでいる」という人はいたし、そういう悩みに関しては理解できた。でも、「まず何を研究したらいいのかわからない」という人もいた。

この三年間、さまざまなことを学ぶ機会があっただろうにそのどれにも興味を引かれなかったなんて、入る学科間違えたのかな?と思っていた。結局「何を研究したらいいかわからない」人たちは、先輩の卒論の発展内容にしたり、ゼミの先生に相談して決めてもらっていた。自分の意思による研究はそこになかったのだ。



 ある時は、「詠み人ちゃんは就活終わるの早そう。」といわれた。実際終わるのは早かった。どこの会社もはたらき手が欲しい時代、そんなに時間がかかる意味もわからなかった。でも、周りの子たちは秋も深まるころ、遅い人だと冬頃にやっと就活を終える人が多かった。

私は本格的な夏が始まる前に終えてしまったのもあり、いろんな人たちから「いいな」「うらやましい」「もう遊び放題だね」といわれた。いやいや、卒論に全力出すから遊べないが?とは思ったものの、すぐ採用をもらったことに関しては恵まれたのかと思っていた。

ところが、みんながすぐ決まらないのは採用をもらえないのはもちろん、「希望の就職先がない」という就活の入り口に立つ時点での話だった。そりゃあ採用側も「入りたい」と思って応募した人を優先するし落とされるわけだ。そして秋や冬頃には多くの企業が採りたい人を採り終わり、待遇が微妙なところ、交通が不便なところ、ブラック企業などが求人を出し、もっと選択肢が狭まるうえ「入りたくもない所に入る」ことになる。


ようは感性のないつまらない人間だということ

 このような私の理解できない「悩み」は今でもよく見る。「やりたいことがない」「趣味がない」「好きなものを聞かれて咄嗟にこたえられない」。その状態に悩んでいないのならばともかく、「趣味や好きなものをみつけたい」といわれると「これまで生きてきてて見つけられてないのに、そんなすぐに見つけるのは無理だよ」と思う。

幼稚園に入る前から今まで、いろんなものに触れて、そのジャンルの教養を磨いて、同じものが好きな人・作者・あるいはアンチの意見を見聞きして感性を育てた結果が現在の「趣味・好きなこと」であり、私が「心地いいと感じる基準」ができたのだ。ところが、現在それがなく何かを決めるのに苦労をする人が「趣味が欲しい」「好きなものを見つけたい」と願ったところで、【基準となるもの】が存在していない。



 そもそも、感性なんて言うのは普通生きていれば磨かれるものだと思う。幼いころは「褒められたいから」とかそういう理由で親の言うとおりにしていても、学校に入っていろんな人と話して、いろんな物語に触れて、私の頃はなかったが今の時代ならSNSもあるのだから世界中の人の考えを見ることができる。そうやっていろんな影響を受けて、親のいうことに違和感を覚えて「自我」が芽生える。反抗期なんていうのはその結晶だとすら思う。

ところが、感性が磨かれていない人は恐らくこれまでの決定を全て他人に任せていたのだと思う。進路や就職もそうだが、部活やスポーツ、友達といく美味しいごはん屋さん、よく聞く音楽、ファッションなど、いろんな分野で「親」「先生」「友達」「恋人」といった他者に依存した決定を下してきたのだろう。常に万人にとっての「いい子」であろうとしたのだと思う。これは誉め言葉ではない。「これまで生きてきたのに自分で考えて決定したことがない意志が薄弱な他人依存者である」という意味だ。

自分で考えた結果、自分にとっての一番の幸いは他者の幸せであり、その人の笑顔のために私は相手に合わせて行動をしているという人は、前提が自己決定なので限りなく強い人だと思うし、そういう人は尊敬する。

あるいは、その状態を受け入れて「好きなものや趣味がなくても良いのだ」と割り切れた人も、そこに至るまでには多くの考えや勇気が必要なのは想像に難くないため尊敬できる。たくさん悩んだ結果、今はなくていい・これから見つかるかもしれないと思えたのであれば、その人は今後アンテナを張って生きていくことができるから。

八方美人に対してもそこまで怒らない。マキャベリズム的な理由があっても、そこに理由があるなら考えた上での行動として受け取れる。

私が心底嫌だと思うのは「なんとなく」で決定を他者に依存し、その状態に甘えてろくに考えず現状維持をする者だ。好きでも嫌いでも楽しいでも辛いでもなんでもいいから、自分の価値基準を考えてそれに則って判断してほしい。

私はいじわるな女なので、相手が何も考えずに決定したとき、たまに「本当にそれでいいの?理由は?」といったことを聞く。

例えば、旅行先を決める時に「京都行きたいね」といった時に「いいじゃん。行こうよ京都」といわれたときになんかは「本当に京都でいいの?なんで?」と聞く。そうすると「え、行きたいんでしょ?いいよ。行こう」と答える。そうじゃなくてさ、と聞いてもあいまいな答えが続いたり、しまいには「ん~、とはいえ気になるところもないし」といわれ、じゃあ旅行自体やめようかとなることもあった。

そもそも、自分の価値で「行きたい」と賛同する人は「私も京都行きたかったんだよね。あの店のスイーツが美味しいらしくて」、「学生の頃興味なかったのに今になって行きたいって思ってたんだよね。私も京都行きたい」、「私京都で好きなところがあるんだよね。行こうよ」など、およそ私が聞くまでもなく理由を言う。言わなかったとしても、私が「なんで?」と聞いたら即答できる。仮に旅行に行ったとして、特に興味もないまま行く人と事前に目的があって行く人とどちらと行って楽しいかといわれたら間違いなく後者だ。


感性は育てるもので教えられるものではない

 たまに、感性を育てるために「リードして」「私に教えて」という人もいる。でも、私は二十年感性を育ててその領域に達したのに、同じ年数かそれ以上を生きていて感性が育ってない人にそれを教えたところで、その良さは伝わらないだろうし、甘えんなとも思ってしまう。

他人に教えを乞う前に、例えばマンガでもゲームでもなんでもいいから色んな文化を摂取する、外を歩いてみる、写真や動画を撮ってみるなど自分の中で何が「好き」かを確立させてから来ないと教える側も困る。

医学部だって最初から内科、外科、耳鼻科、神経科にわかれて学ぶのではなく、基礎となる医学を学んでから各科にわかれるし、心理学だって心理の基礎を学ばないと認知心理、社会心理、臨床心理など専門的なことは学べない。映画にしても、グロテスクなのはダメ、アクションが好きなど基準がないうちに「おすすめは?」と聞かれても教えられない。


価値基準のない人の迷惑なところ

 私は、「他人に何かをすべき(しないべき)」というのは一種の暴力だと思っているけど、暴力であることをわかったうえで言いたい。

もし、今「好きなことがわからない」「将来を決められない」などで悩んでいる人がいるのであれば、今この瞬間から自分自身の感性を育ててほしい。親や先生や友達に決定を依存する癖をやめてほしい。

そのままだらだらしていたら、いずれ就職先を選ぶときに困る。更には、仕事の内容、恋愛、結婚相手(結婚するかしないかも含めて)、結婚生活、子供の教育、最終的には自分の生死まで他者に決定されることになる。

「自分の生死なんて大げさな」と思うかもしれないけど、歳をとって病気になったときに最終的なサインをするのは自分の家族であることが多い。そのときまでに自分の考えもなく、話すこともなかったら本当に「他人に生死がゆだねられる」ことになる。

自分の人生だけは確実に自分のものなのだから、その人生の責任を他人に押し付けないでほしい

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