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”自然”とは何か

“自然”とは何か。考えだすと頭が一杯一杯になります。

「自然」と聞くと、「森、山、川、草花」などの自然、「不自然じゃない」というときの自然が思い浮かびます。

「自然」という言葉の意味は、それだけではありません。

法学の授業でも、「自然権」「自然法」「自然人」など、やたら「自然」という言葉が出てきます。「自然法」については、山川出版社の教科書「詳説 世界史B」に、こんな記述がありました。

「自然科学の発達を支えた旺盛な探究心は、やがて人間社会の考察にも向かい、近代的な自然法思想を生んだ。自然法とは人間の本性に基づく不変の法で、この思想によれば、国家の起源は、自然状態における自由・平等な個人が自発的に取り結ぶ契約(社会契約)に求められた。」

高校の教科書は、さすが記述問題の回答として完璧ですね。世界史の試験で「自然法とは何か。その背景と意義にも触れながら120字以内で述べよ」という問題が出たら、間違いなく満点に更に加点が付くような回答です。

でも、試験を離れて考えると、「人間の本性に基づく不変の法とは何か?そんなものが本当にあるのか?」「そもそも、人間の本性とは何か?」など、いろんな疑問がわいてきます。

自然法思想について教科書に登場するのは、ジョン・ロックというイギリスの哲学者です。以下は、ロックが書いた「市民政府論(角田安正・訳。光文社古典新書)」からの引用です。

「同一種、同一水準の被造物は誰彼の区別なく、創造主から同じ恵みを与えられ、同じ能力を発揮するように生まれついているのだから、互いに平等であるはずである。」
「自然状態に置かれていれば、そこには自然法があり、その支配が及んでいる。そこでは、だれもが自然法に服している。」

つまり、「自然法」「自然権」というのは、「人間がみな、唯一の全知全能の主によって創造された」ことが前提になっているのです。

いわゆる東洋思想など、唯一絶対の創造主を前提にしない思想では、あらゆるものの総体が“自然”であり、人間も他のあらゆる生物も“自然”の一部です。最近では、コンピューターのデータ世界でさえ、“自然”の一部に含まれると言われています。

考え始めると頭が飽和しそうになるのは、この“自然”です。
創造主を信じれば、そこから考えを進めていけるのですが、創造主を前提にしなければ、“自然”は、どのように捉えればいいのか・・・

そのような“自然”は、あらゆるものの総体ですから、どこかで切り取ったり分けたりできないはずで、“自然”という言葉を当てはめた時点で、既に違うものになっている気がします。

そんな“自然”は、考えて頭を一杯にしているようでは、直観できるはずがない。考えるのではなく、感じなければダメですね。
(了)

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