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この世界に希望があるとするならば それは 学びたい子どもが居る事だ

IQ18次郎の友達に、ケニアからの留学生ドリスさんが居る。ドリスさんは、ケニアの中でも、最も厳しい環境の中を生き抜いてきた学生だ。

そんなドリスさんが、見出されて日本で大学生として勉強し、さらに大学院に進学したいのだそうだ。「なんの勉強をしたいの?」と問うと、「インクルーシブ教育の勉強をしたい」と言う。

インクルーシブ教育・・・・
この中に、先日裁判の始まった相模原障害者施設殺傷事件の答えがありそうだ。

インクルーシブ教育とは、一般に、障がいのある子もない子も一緒に学ぶこと、とされているが、相模原障害者施設殺傷事件の容疑者は、小学校でも障がい児と一緒に学んだ経験もあり、なにしろ、障がい者施設職員として働いていたのだ。

だから、ただ一緒に居ればいいということではないのだ。

障がい者を知らないことによる偏見や差別とは違い、知るほどに偏見や差別を強めていったのだ。

報道によると、容疑者は、小学生の頃、自分のクラスの障がい児のお母さんがいつも疲れていて大変そうだな。と思っていたらしい。

容疑者は、辛そうな親を可哀そうに思う、優しい子どもだったのではないか?

なぜ、障がい児を持つ親は疲れ果てていたのだろう?

障がい児の親の辛さは、子どもに障がいがあると告げられた瞬間から始まる。誰にもわかってもらえない。だれに相談していいのかもわからない。この広い世界に障がいのある我が子と二人、孤独の海をさ迷い始める。
辛うじて、障がい児を育てるにあたっての行政サービスがある。けれどそれは、自分からすべて申請しなければならない申請制なのだ。
そして、手続きに行っても、職員の誰一人、ねぎらってもくれない。声をかけてもくれない。気にもかけてもらえないのだ。自分で調べない限り、受けられるサービスを教えてもくれない。申請洩れを期待しているとしか思えない制度なのだ。

どうして、「お母さん、よく頑張りましたね。これからは、一緒に頑張りましょう」とか、「ご心配でしょうけれど、お力になりますので、相談してくださいね」とか、言えないのか?
職員さん個人の問題ではない。制度自体が、冷たいのだ。職員が親切にすることを拒んでいる。おそらく、福祉予算を抑えることが出来る職員が、仕事の出来る職員とされているのだろう(と思いたくなる)。

どうして、障がい児を育てることそのことの大変さに加えて、行政の窓口で嫌な思いをしなければならないのだろう?

そんな思いをしならが、身の縮む思い(お金の話などされようものなら、命の縮む思い)をしながら、育ててきて、さて、小学校。本来ならば、嬉しいはずの小学校入学で、またひと悶着なのだ。


ここまで書いてきて思うけど、そもそも歓迎してくれてないよね。

障がい児が生まれたこと、そもそも歓迎してくれてないよね。


行政から歓迎されていないのだ。

そう思うと、いろいろ腑に落ちる。

ずっとずっと、歓迎されないままに、育つのだ。育てるのだ。これが、辛さの正体だ。


どうして、相模原障害者施設殺傷事件の容疑者は、彼の人生で、幸せな障がい者や家族に会わなかったのだろう?

どうして、誰も、容疑者に、障がい者が居ることで、この社会が、暮らし易くなっていることを教えてあげられなかったのだろう?

どうして、障がい者に係るお金は、地域を活性化し、経済を回し景気を良くし、反対に、内部留保として溜め込み停滞させるお金こそが、経済にとっては、景気を悪くするお荷物だと教えてあげられなかったのだろう?


どうして、、、

私は考えつづける。

しかし、私たち大人は、失敗したのだ。

答えなど出せるはずがない。


ひとつ言えることは、最重度の知的障がいのある次郎があたりまえに幸せに暮らすことと、

ケニアの最も困難な状況にあったドリスさんが、大学院でインクルーシブ教育を勉強すること、

それは、希望そのものだということ。


何年か後に、ドリスさんに教えてもらおう。

私たちは、どうしたらよかったのか?

私たちは、これからどうすればよいのか?

を。


ドリスさんが、大学院に行くためのクラウドファンディングが始まっている。

https://readyfor.jp/projects/machius?fbclid=IwAR2bq8j-MdXFC4bnrQ0h2J6yYvg6qR7YdoVL07jWtCV6MosaG16PvwdLAII


どうか、実現させてほしい。

ドリスさんの為ではない。

壊れてしまった私たちの社会を、もう一度立て直すために。


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